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<Wコラム>韓流ファンのための「日韓・近現代史」~植民地統治

Wow!Korea / 2016年5月4日 9時44分

しかし、朝鮮民衆の受難は続きました。1923年9月1日に関東大震災が起こったとき、「朝鮮人が暴動を起こして井戸に毒を入れた」、「朝鮮人が日本女性を襲った」という流言飛語が広まり、結果として6千人以上の朝鮮人が虐殺されたと言われています。土地を奪われて日本に渡った末の悲劇でした。

■上海で組織された大韓民国臨時政府

思想的に朝鮮民衆を日本に同化させる政策も大々的に進められました。

1925年10月15日には、京城(ソウル)に朝鮮神宮が竣工しました。祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)と明治天皇でした。

朝鮮総督府がこの神宮を造営したのは、天皇崇拝を朝鮮半島に浸透させるためでした。その目的に沿って、朝鮮半島各地に60余の神社が建てられました。これを手始めとして皇民化政策が次々に打ち出されていったのです。

1926年には、朝鮮王朝最後の王だった純宗(スンジョン)が世を去りました。その国葬が行なわれたのは6月10日でしたが、「独立万歳」、「日帝打倒」を訴える学生たちと日本の官憲が衝突しました。

どんなに植民地統治の懐柔策が出されても示威活動はなくなりません。むしろ、1929年には、光州(クァンジュ)で日本人学生が朝鮮の女学生を侮辱したことがきっかけで激しい抗日運動が起き、3・1独立運動以来の規模に拡大しています。

デモだけでなく、独立をめざす民族主義者たちの闘争も活発でした。

3・1独立運動の後には上海に大韓民国臨時政府が組織され、朝鮮半島の外でも独立運動が行なわれました。

しかし、大衆の広範な支持を集められなかったことが致命的でした。内紛が多かったことも組織の拡大につながらず、結局は朝鮮総督府に脅威を与えることはできなかったのです。

■創氏改名を強行

朝鮮半島北部ではパルチザン活動が局地的に行なわれていました。その中で特に名を馳せたのが金日成(キム・イルソン)でした。

一方、1937年7月に日本と中国が全面戦争に入り、植民地としての朝鮮半島の重要性が増しました。特に、戦争の激化にともなって軍需に不可欠な鉱物資源の採掘が朝鮮半島の各地で積極的に行なわれたのです。

さらに、朝鮮民衆の皇民化が徹底されました。そこには、きたるべきときの軍事要員として活用しようという日本の意図もありました。

朝鮮総督府は1939年12月に「朝鮮民事令改正」を交付し、1940年8月10日を期限として朝鮮民衆が日本式の名前に改めることを強制しました。いわゆる「創氏改名」です。

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