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<Wコラム>康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓近世史は面白い! 」朝鮮出兵後の国交回復(中編)

Wow!Korea / 2016年7月28日 19時12分

やむなく朝鮮王朝の使節は駿府から江戸に向かったが、その行列を家康は楼上から見送った。彼には、使節の来日を国内政治に利用したいという思惑があった。

その思惑とは?

1603年2月に征夷大将軍となった家康は、1605年4月に将軍職を三男の秀忠に譲った。わずか3年でなぜ家康は将軍の座から下りたのか。それは、「将軍職は徳川家の世襲」「豊臣家に政権が戻ることはない」ということを世に示すためだった。

それからの家康は駿府にて大御所として裏の実権を握っていたが、表向きの将軍はあくまでも秀忠だった。それなのに、朝鮮王朝の国書を家康が直接受け取ってしまえば、江戸の権威が失墜してしまう。その事態をなんとしても避けなければならないので、家康は挨拶すらも拒んだのである。

事情はともあれ、幕府の態度は非礼であった。

呂祐吉の憤慨も甚だしかったが、彼は最終的に幕府の意向を受け入れた。なんとしても、国書の交換と被虜人の帰国を成功させたいという思いが強かったのだ。

使節一行は江戸に到着したのち、1607年5月6日に江戸城で将軍の秀忠に謁見して国書を渡した。

この国書は、使節団の派遣を要請する徳川家康の国書に対する返書だった。しかし、徳川幕府はそもそも国書を出した覚えがない。なにしろ、対馬藩が独自に国書を創作して出していたのだから。

それなのに、徳川幕府が返書を受け取ると、すぐに国書の偽造が露顕してしまう。そこで対馬藩は、朝鮮王朝が差し出した返書の文字も勝手に書き換えた。

■上機嫌だった家康

具体的に言うと、返書の書き出しには「奉復」という文字があったのだが、それを「奉書」に変えている。「奉復」では返書であることが一目瞭然だからだ。この他にも、書き換えが数多く行なわれた。

このように、国書の偽造によって国交が回復するに至ったが、朝鮮王朝にとって大きかったのは、幕府に被虜人の送還を正式に約束させたことだ。さらに、日本を往来する間に様々な形で被虜人の調査を行なうこともできた。

逆に、使節の宿館を訪ねてくる被虜人も多かった。使節の存在そのものが被虜人が名乗り出る契機になったのだ。

使節は、最終的に1400人ほどの被虜人を一緒に連れ帰ったとされている。全体から見ればわずかな割合だが、使節が日本に来なければその人たちも帰国できなかった。1400人という人数が示す意味は決して小さくない。

また、家康と面会するという目的も、使節は帰路に実現させている。駿府城で家康は遠来の客人を大いに歓待し、「今後は両国の和平を大いに望みます」と上機嫌に語った。

こうして徳川幕府と朝鮮王朝の善隣関係の礎が築かれた。

(次回に続く)

文=康熙奉(カンヒボン)

出典=『徳川幕府はなぜ朝鮮王朝と蜜月を築けたのか』(著者/康熙奉発行/実業之日本社)

(ロコレ提供)

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