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<Wコラム>夏こそ行きたい! 韓国南部の旅2~済州島のウェドルゲ

Wow!Korea / 2016年8月2日 23時19分

同時に、ドラマを通して「流人の島」という印象も強烈に残った。特に、チャングムと師匠のハン尚宮(サングン)が罪人として済州島に向かう場面が、多くの視聴者の涙を誘った。悲惨な最期を遂げたハン尚宮。最愛の師匠の死を嘆き悲しむチャングム。そのチャングムの嗚咽の中に、済州島というさいはての地のおぞましさが含まれていた。

結果的に、『大長今』の人気が上がれば上がるほど、韓国だけでなく日本でも済州島が流刑地として知られるようになった。

■流刑の島

『大長今』は16世紀前半の物語である。ときは、朝鮮(チョソン)王朝時代前期だった。当時の流刑は、罪の軽重によって流配地を決定するというものだった。つまり、重い罪を負うほどソウルから遠い場所に流されたのである。

特に、多かったのが朝鮮半島西南部の諸島や済州島。とりわけ、朝鮮王朝時代に南海の孤島とされた済州島は、最も多くの政治犯が流刑となった島であった。

しかも、済州島への流罪は終身刑を意味していて、生きて再び都に戻ることは皆無に近かった。それゆえ、権力闘争に明け暮れた支配階級の人々は、済州島への流罪をとても恐れた。

その中の1人が、朝鮮王朝第15代国王の光海君(クァンヘグン)である。

1608年に即位した光海君。当初は名君という評判もあった。豊臣軍との戦いによって荒廃した国土の復興に尽力し、歴史的に貴重な史籍の編纂にも貢献をした。

しかし、取り巻きが王の威光を利用して国政を乱し、役人の間で賄賂が横行した。金さえあれば、官位・官職を得やすい風潮が生まれ、民衆から怒りの声が上がった。光海君も兄や弟を殺し、悪評にまみれた。

■光海君の晩年

朝鮮王朝では常に権力闘争が激しく、権謀の末の政権交代がよく起こった。1623年、光海君はクーデターによって王の座を追われた。都を追放され、最後は済州島に流された。

行き先は告げられていなかった。船の周りに幕を張って、方向がわからないようにしてあったのだ。

済州島に着いたとき、光海君は初めて自分が孤島に流されたことを知る。

「なぜ、こんなところへ……」

光海君は絶望した。この島で骨を埋める覚悟もなかなかできなかった。

「ご在位のとき、奸臣を遠ざけ、良からぬ者が政治にかかわらぬようにしていれば、ここまで遠くにお出でにならなかったのに……」

島の役人にそう言われたものの、すべては後の祭であった。

光海君は元の国王ということで、生活に不自由はなかった。しかし、威光という点では昔と比べるまでもなく、「王の座を追われたのは、ご自身が招いた結果」と周囲の者から陰口を言われる有様だった。

光海君が没したのは1641年。享年66歳。15年も王位にあった者としては、実にあわれな晩年だった。

私(康熙奉〔カン・ヒボン〕)は、『大長今』のおかげで新たに整備されたウェドルゲの遊歩道を歩きながら、しみじみと済州島の今昔を思った。

かつて、都の人が身震いするほど恐れた済州島は、今は韓国最高の観光地となった。よく言われている「東洋のハワイ」という讃え方は大げさだが、それでもここには行楽に必要な景観・美食・観光施設のすべてが良好に揃っている。昔の流刑地は経済効果が高い観光のメッカへと変貌したのである。

文=康熙奉(カンヒボン)

出典=「韓国のそこに行きたい」(著者/康熙奉発行/TOKIMEKIパブリッシング)

(ロコレ提供)

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