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<Wコラム>康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓が忘れてはいけない人」~李秀賢(後編)

Wow!Korea / 2016年8月16日 23時43分

マウンテンバイクを乗ったあとで休憩中の李秀賢さん(写真提供:ロコレ)

JR新大久保駅で、線路に落ちた人を助けようとして2001年1月26日に亡くなった李秀賢さん。彼が通っていた赤門会日本語学校には全国から多数の手紙と見舞金が寄せられた。

■その精神が忘れずに生き続けていくこと

赤門会日本語学校に届いた手紙の一部を紹介しよう。

「日韓の架け橋になろうとの夢を抱いて日本に来た留学生の方が、見ず知らずの人間を助けようと、本格的な人生のスタート台にたつことなく若くして亡くなってしまいました。日本人として申し訳ないという気持ちと感謝の気持ち。生きていたら、どれ程世の中に貢献したかもしれないと感じさせる有為な若者の、かけがえのない未来が閉じられてしまったことへの、痛切な哀惜の念。それらの気持ちが私の心にない混ぜになり、今も消えることがありません。李秀賢さんのことを思い、通勤電車の中で、涙がこみ上げてくるのを抑えることができなくなったこともありました」

「先日の新大久保駅での痛ましい事故、本当に悔やまれてなりません。李秀賢さんが可哀相で涙がとまりませんでした。前途有望なすばらしい青年の李さん。若い李さんには、やりたいことが一杯あったことでしょう。楽しいことも一杯待っていたことでしょう。それを思うと、残念でやりきれません。心やさしい正義感に燃えていた方だけに、助けなければ、という一心でとび下りたのでしょう。とかく見て見ぬふりの世の中、それに勇気もなかなかありません。御両親の胸をえぐられるような悲しみを思うとき、本当にお気の毒でなりません。大切な大切な息子さんを異国の地で失ってしまったのですから。それも痛ましい最後で……。李さんの死を無駄にしない様に、皆の心にその精神が忘れずに生き続けていくことを祈るばかりです」

■4代続いた日本との関係

事故から12日後の2001年2月7日。私(康熙奉〔カン・ヒボン〕)が李秀賢さんの釜山(プサン)の実家を訪ねたとき、父親の李盛大(イ・ソンデ)さんが意外なことを教えてくれた。

「私たちは4代にわたって日本と深いつながりを持っています。もともと私の父は、慶尚道(キョンサンド)の出身です。父は貧しい生活からの脱出を夢見て、日本に渡ることを決意しました。父が16歳のときのことです。父は日本で必死に働いて生活の基盤をつくりました。そして、祖母に先立たれていた祖父を日本に呼んで一緒に暮らしました。その祖父は日本で亡くなったのです。私は1939年に大阪で生まれています。日本も戦時下で父は徴用されてしまい病に倒れました。生活の糧を失い、1944年に慶尚道に戻ってきたのです。秀賢にしてみれば、曾祖父が日本で亡くなり、祖父も生活のために日本に行って徴用で苦労させられ、父も日本で生まれて5歳まで大阪にいました。『ウチの家は日本とつながりがあるなあ』と思ったことでしょう」

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