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<Wコラム>康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓が忘れてはいけない人」~布施辰治(後編)

Wow!Korea / 2016年8月17日 21時10分

布施辰治(写真提供:ロコレ)

日本国内で朝鮮半島出身者の弁護に精を出す中で、布施辰治は植民地下の朝鮮半島に何度も渡っている。1923年には独立運動家を弁護するために朝鮮半島に行っているし、以後も1926年、1927年と現地に入り、法廷弁護、事件調査、講演活動を行なっている。

■容赦ない弾圧

1931年の満州事変以後、軍国主義的な政治色が強まると、布施辰治は2回も投獄され、弁護士資格も剥奪された。官憲により容赦ない弾圧を受けた布施辰治。その無念さはいかばかりだっただろうか。

1944年には、三男が治安維持法違反で逮捕され、京都刑務所で獄死するという悲劇も起きた。

このとき、布施辰治は弁護士資格を剥奪されていて、息子の弁護すらできなかった。彼の嗚咽が聞こえてくるかのようだ。

布施辰治が再び弁護士の資格を得たのは、1945年の日本の敗戦以後だった。65歳になっていたが、再び彼は旺盛な弁護活動を続けた。同時に、日本に残る朝鮮半島出身者のための弁護活動も熱心に行なった。

1953年9月13日に72歳で永眠。9月24日に東京の日比谷公会堂で行なわれた告別式には、彼の人徳を慕って多くの朝鮮半島出身者が弔問に訪れた。

その哀悼の念は、決して消えることがなかった。

■韓国建国勲章を受章

亡くなってから47年後の2000年2月29日、韓国の放送局MBCは名物報道番組の中で「日本のシンドラー、布施辰治」という特集を放送した。

これがきっかけとなり、韓国で布施辰治を再評価する気運が高まり、彼は2004年に韓国建国勲章を受章した。

それから5年後の2009年12月、私は布施辰治の生家跡を訪ねた。

そこには一般的な住宅が建っていた。

玄関のところで中年の女性の姿が見えたので、声をかけて布施辰治について聞いてみると、奥に引っ込んでダンナさんを呼んできてくれた。

現れた男性は、布施辰治の甥の息子だという。「祖父が辰治と兄弟だったんです」とのことだ。

「布施辰治さんは、どんな人だったと聞いていますか」

私がそう聞くと、男性は優しい眼差しで答えた。

「芯が強い人だったと聞きました。軍国主義の時代に牢獄に入ってまで弱者を助けたわけですから……」

「この場所に布施辰治さんの生家が建っていたのですね」

「ええ。昭和48年に今の家に建て直しましたけれど、それ以前は残っていました」

■石碑「布施辰治出生之地」

「写真がありますから、ちょっと待っていてください」

そう言って、男性は額縁に納められた写真を持ってきてくれた。そこには、茅葺き屋根の家が写っていた。

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