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大河『べらぼう』早熟の秀才・松平定信 将軍就任の可能性を阻んだ黒幕は教科書レベルの大物 識者が語る

よろず~ニュース / 2025年1月20日 11時11分

大河『べらぼう』早熟の秀才・松平定信 将軍就任の可能性を阻んだ黒幕は教科書レベルの大物 識者が語る

画像はイメージです(Umi/stock.adobe.com)

 NHK大河ドラマ「べらぼう」第3回は「千客万来『一目千本』」。賢丸(後の江戸幕府老中・松平定信)の養子縁組の事が描かれていました。

 定信はドラマにおいて後に重要な役回りになると想像されますが、定信の幼少期はどのようなものだったのでしょうか。賢丸とは定信の幼名ですが、彼は宝暦8年(1759)に生まれました。蔦屋重三郎は寛延3年(1750)の生まれですので、定信は重三郎の9歳下です。定信の父は、徳川(田安)宗武、8代将軍となった徳川吉宗の次男でした(母は山村氏の娘)。

 宗武は御三卿(江戸時代中期に将軍家から分立した3家)の1つ田安家の始祖です。御三卿(田安・一橋・清水家)は、将軍に継嗣がいない時は、将軍家を相続することができましたので、定信もいずれは将軍に就任してもおかしくはない立場でした。幼少期の定信は病弱だったようですが、医師の診療などにより落命せずに済みます。

 その後、学問に励む定信は、周囲から「記憶にも優れ、才がある」と褒められました。ところが、定信の自叙伝『宇下人言』によると『大学』(儒教の経書)を覚えることがなかなかできず、自らの不才を思い知ります。それと共に、周囲の賞賛は、自分に対するへつらいだったのかと悟るのでした。定信、8歳か9歳頃のことです。

 そして10歳の頃には、日本や中国においても名声を高くしたいとの大志を抱くのでした。12歳の定信は、夫婦、父子、兄弟、友人など人倫の大義をまとめた道徳書『自教鑑』を執筆したといいますから、秀才だったと言えるでしょう。

 明和8年(1771)、父・宗武が死去し、定信の兄・治察が家督を継ぎます。安永3年(1774)3月には、定信は10代将軍・徳川家治の命令により、陸奥白河藩主・松平定邦の養子となりました(これは将来、定信が白河藩主となることを意味します)。同年8月、田安家を継いだ兄・治察は病死。田安家は絶家の危機を迎え、定信が田安家を相続することが嘆願されますが、幕府により却下されます。一説によるとこれは、定信の才を恐れた田沼意次が仕組んだものとも言われています。定信が将軍に就任する可能性を摘もうとしたのでした。

 ◇参考文献一覧 高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012)・藤田覚『松平定信』(中央公論新社、2013)

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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