【倉本聰:富良野風話】領土
財界オンライン / 2022年4月10日 11時30分
1937年製作のフランス映画の傑作、ジャン・ルノワール監督の『大いなる幻影』を久しぶりに観た。第一次世界大戦中のドイツ軍捕虜収容所を舞台にした名画である。観ていてひどく心を打たれたのは、あの頃の戦争には、敵味方の間にまだ武士道というものが残っていたのだなァという奇妙にして懐かしい感慨である。
【倉本聰:富良野風話】いつか来た道
ロシアの今回のウクライナ侵攻には、そういうゆとりが微塵もない。
自国の領土を拡げようという一国の独裁者の欲望というものは一体どこから芽生えるのだろうか。
かつて富良野に初めて住んだ時、市の役人に言われたことがある。おたくの隣の地主のおやじは、富良野三悪の一人といわれる、まことに根性の悪いヘナマズルイ奴で、注意してないと境界線の杭を夜中にそっと10センチ位ずつ動かして自分の土地を拡げようとします。充分気をつけて監視して下さい。
そんなことがあるのかと笑ってしまったが、ある夜、闇の中から怒号がひびき、隣のおやじと見張っていたらしい市役所のおっさんが、杭を動かした!動かしとらん!で子供のような大げんかを始めて、あわてて仲裁に入ったことがある。
荒野を開拓し、大木の根を苦労して引っぱり出し、やっと自分のものにした開拓民の末裔は、そんなにも土地に固執するものかと妙に感心してしまったものだが、国の独裁者がそこをふるさととする住民を追い出し、自分の領土を拡げようとする感覚は、それとはかなり違うものだろう。戦時中に日本が満人を追い出し、開拓民を送りこむことで領土拡張を謀った満州開拓という歴史の汚点を思い出すし、もっと身近では自分たちのシマを少しでも拡げようと闘争するやくざの縄張り争いを想起する。人には己の領土を拡げたいという、どうしようもない本能が備わっていて、それは本来、野性のけものたちが己の餌場を確保しておきたいという、縄張り保全の本能から始まったものと思うのだが、そのために人間の培って来た文明、生物兵器やら化学兵器、あるいは核まで持ち出そうと画策するのを見ると、人類が決して利巧な生き物でなく、最も愚かしい進歩を遂げてきた、どうしようもない代物だと思わざるを得ない。
そもそも人類の歴史を辿れば、かつて住んでいた先住民の社会には、土地を所有するという概念はなかった。彼らが先祖から受けついで来たのは、自分がそのシマから最小限の自然の恵みをいただいて良いというトラップライン(罠をかけていい土地)という縄張りであり、その小さな自然を保全し、子孫に渡すという極めて純朴な哲学だった。それをこわしたのは文明である。複雑化した人間の欲望である。結局のところ、その”もっと、もっと”という終着点を持たない欲望。それを捨てるという真の知性を持たない限り、人類は全てを失うことになるだろう。
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