【倉本聰:富良野風話】鬼
財界オンライン / 2022年4月19日 18時0分
海の彼方でジェノサイドが起こっている。これでまた地上に新しい憎しみが、人の心に深い根を張るのだろう。
【倉本聰:富良野風話】領土
かつて動乱前のユーゴスラヴィアを秋山ちえ子さんと歩いたことがある。国の招待で招かれたのだが、その時リリアーヌという中年の女性が僕らの通訳についてくれた。日本語はかなりたどたどしいものだったが、実に人の良い気さくな方で僕らは大いに助けられ、”何はなくてもリリアーヌ”と大層重宝したものだった。
後で考えると、動乱寸前で国内はめちゃくちゃに乱れており、しかも物凄いインフレで、ザグレブを訪れた時などは、行きに払った高速の料金が、翌日帰りには倍額にはね上がっていて仰天した。後に一緒に食事をした観光大臣にその話をしたら、彼は驚きもせずニヤリと笑って、そうなンです。だから今こっちでレストランに入ったら、注文した時すぐ支払いをすませなさい、喰い終わるともう値段がはね上がっていることがありますと仰せられた。
そのリリアーヌと北から南へ、ドヴルブニクのある地方へ入る時、彼女の態度が急変し、俄に全身で緊張し始めた。ココカラ南ノ人恐イ人タチデス。注意シテ! 何が恐いのかさっぱり判らず、何事もなく経過したが、帰国して程なくその辺りで民族紛争が起こり、あのことだったンですねリリアーヌの緊張は、と秋山さんと話し合ったものだった。
昨日まで隣人だったウクライナの街へ、ロシア人が雪崩こんで何の罪もない住民にジェノサイドを行う。この恨みと憎しみは今後容易に消えるものではあるまい。
民族の性格にもよるのだろうが、韓国の人たちが日本に対し未だに憎しみを解かないのは、今のウクライナを見ると、やや判る気もする。彼らにとって日本民族は鬼の末裔に見えるのだろう。
鬼という言葉を考える。
桃太郎に代表される日本むかし話を見ても鬼は悪者の代名詞であり、それを退治するのは善なる行為だった。鬼退治は社会の正義であり、それを為(な)すものはヒーローだった。
子供のころチラと考えたことがある。
鬼とは外国人のことなんだろうか。
鬼ヶ島とは外国人の住む地のことなのだろうか。
では鬼ヶ島には鬼しか棲んでいないのだろうか。悪い鬼しかいないのだろうか。
浜田広介の童話に「泣いた赤鬼」という作品があるが、鬼の中にも人の心を持ち、涙を流す鬼がいるのではあるまいか。
それが証拠にロシアの国内にも、今度のウクライナ侵攻に否を叫び、反戦を唱えて捕まったり、拷問されたり、国外に脱出したりする人がいるではないか。鬼の民族を全て鬼とくくってしまうこともよくないのだ。
破壊されつくしたマリウポリのマンションの廃墟に、窓に残されたカーテンだけが風にゆれている。昨日までそこにあった筈の家庭の団欒を想うと、何とも悲しい。
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