円覚寺・横田南嶺管長が語る「『死』をいかに受け入れるか。これはいかに共に生きるかということにつながる」
財界オンライン / 2022年7月19日 18時0分
「死を考えて死を受け入れる」─。臨済宗円覚寺派の本山である円覚寺の横田南嶺管長はこう語る。コロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻などが続き、改めて生きることの意味は何かという問いかけが随所で行われている。「人と人とのつながりが、より一層大事になる」と訴える。横田管長の原点には、2歳の時に直面した祖父の死がある。以来、人が死ぬこと、生きることについて突き詰めて考えてきた。その横田管長に生きることの意味について尋ねた。
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「死」を意識した幼少期
─ 円覚寺は鎌倉時代後期に創建された臨済宗(禅宗)の寺院で、「鎌倉五山」の一つですが、横田管長は大学在学時に得度し、45歳の若さで円覚寺の管長に就いていますね。今はコロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻など、世界的に人々の心が荒れるような状況になっています。その中で人はどう生き抜くかという今日的命題があります。また、人と人のつながりをどう考えていけばいいのか。
横田 仏教の基本原則は二つあり、一つはこの世はうつろいゆく、もう一つはこの世にあるものは一人にあらずというものです。単独で存在しない。これは真理です。
─ 仏教には「諸行無常」と言いますか、形あるものはうつろいゆき、やがてなくなるという考え方もありますね。そもそも、横田管長が仏門を志したきっかけは何でしたか。
横田 私は和歌山県新宮市で生まれ育ちました。新宮市には「熊野三山」のうち熊野速玉大社がありますが、私の実家は、そのすぐ目の前にあり、18歳までそこで過ごしました。
─ 熊野信仰のある土地で、熊野三山は神社ですが、仏教的要素も強いですね。ご実家はどういったお仕事を?
横田 父は元々、鍛冶屋でしたが、それだけでは生きていけないだろうということで鉄工業に転換しました。
戦前まで熊野川の河原には「街」がありました。「川原家」という持ち運び可能な折りたたみ式の家屋、今で言えばプレハブを建てて、人々はそこで暮らし、食堂や床屋など街ができていたんです。
熊野は木材の街です。今は熊野速玉大社の本宮まで国道が通っていますが、昔は道がありませんでしたから、筏を使って川から運んでいました。鍛冶屋の一番の仕事は筏の鎹(かすがい)をつくることだったんです。それ以外には包丁や鍬をつくるなど、いわゆる「野鍛冶」(小規模ながら暮らしの中の道具を幅広く手掛ける鍛冶屋)でした。
─ 移動できる家ということで、非常に柔軟な生き方をされていたんですね。
横田 新宮の河原には最盛期で200軒ほどの家がありました。ただ、河原ですから年に何回かは水が出るわけです。その時には家を畳んで丘に上がっていたのです。父の時代には、そういう暮らしをしていましたが、「早くそういう暮らしから脱却したいと思って頑張った」と話をしていました。
─ 横田管長は何人兄弟ですか。
横田 男4人兄弟の2番目です。父は兄には「鉄工所をやりなさい」、私には「左官屋になりなさい」、3男には「大工になりなさい」と言っていましたが、誰も言うことを聞かず(笑)、4男が跡を継ぎました。
─ こうした生活の中で、どこで仏門との出会いがあったんですか。
横田 結構早かったんです。父が信心深かったというわけではありません。父は鉄工業に転換した後、ちょうど高度経済成長期に当たり、事業は軌道に乗りました。父の自慢は「街で3階建て以上の鉄骨はみんな自分が手掛けた」ということでした。
また、祖母の自慢は、新宮の街で最初にテレビを置いたのがうちだということでした。しかし後で聞いたら、それはお店が宣伝のために置いてくれただけだったらしいんです(笑)。いずれにせよ、いい時代に巡り合ったのだと思います。
そんな私がなぜ、仏教に関心を持つようになったかというと、2歳の時に祖父が亡くなったことです。肺がんでした。そのお葬式に子供ながらに触れたのが、私の記憶の始まりです。「人間は、こうやって死ぬものなんだな」と感じたことを覚えています。
医療と仏教がつながる時代に
─ かなり早い段階で人が死ぬことについての記憶が残っているんですね。
横田 特に火葬場に行ったことを鮮明に覚えています。今、火葬場は自動ドアが開くような形で綺麗ですが、身体を焼くというリアリティがありません。当時はそんな綺麗なものではなく、まさに「焼き場」でした。
我々で棺を入れて、パタンと蓋を閉めました。じきに煙が出るわけですが、それを見ながら母が「おじいさんは煙になって空に行くんだよ」と言うのです。私は「そうか、空に行くのか」と思ったものです。
その年の夏、初盆が来たわけですが、その時のことが人生を決定付けました。熊野川ではご先祖の御霊を流す「精霊流し」が行われています。当時は特に一家の主が亡くなると船をつくり、それに提灯や灯籠を飾って、向こうの世界に行くまでのお弁当を包んで川に流すという盛大なものだったんです。
お坊さんにも来てもらって、みんなで手を合わせて船を見送るわけですが、この時に母が「おじいさんは、この船に乗ってあちらの世界に帰って行くんですよ」と言ったんです。そういうものかと思って手を合わせていたのですが、船が船大工ではなく素人が作ったものでしたから目の前で沈んでしまったんです。
─ この時にどう思ったんですか。
横田 大人は嘘をつくんだなと思いましたね。あてにならないと。おじいさんはどこに行ったかわからないじゃないかというのが、私の一番の疑問でした。
─ もし船が自然に流れていたら抱かなかった疑問ですね。
横田 そうです。そうしたら素直に育ったと思います(笑)。私はそれ以降、「死ぬ」ということを考えるようになりました。
その後、小学3、4年生の時に同級生が白血病で亡くなったんです。それまで、死ぬということは考えていましたが、だいぶ先のことで今日明日の話ではないと思っていました。遠い先の話だと思っていたのが、同級生が亡くなったことで、ひょっとしたら、自分も死ぬ可能性があるということを身近に感じるようになったんです。
学校ではそういうことは教えてくれませんし、大人に聞いても相手にしてもらえない。そこで自分なりに図書館に行って本を読んで調べたり、お寺やキリスト教の教会に話を聞きに行くなど、いろいろ試行しました。
その中の一つに禅宗のお寺がありました。そこで坐禅をしたのが10歳の時です。この時に「何かが違う」と思ったんです。ひょっとしたら、禅を学べば死の問題が解決するのではないかと感じました。
─ 早熟の少年ですね。自分で死、そして生きることを考えていたわけですね。
横田 ずっと考えていました。そんなことを考える小学生なんて変わり者ですよね(笑)。死ぬことが一番の問題ですから、仲間と遊ぶわけでもありませんでした。私は45歳で円覚寺の管長になりましたが、それまでは全くの変わり者で、人から相手にされてきませんでした。
ただ、祖父が亡くなってから50年、私は「日本肺癌学会」で「死」について講演をして欲しいというご依頼を受けました。これは感慨無量でした。祖父が肺がんで亡くなって以降、死について考えてきたわけですから。一つのことを50年やっていると、こういうこともあるのだなと思いましたね。その2年後には「世界肺癌学会」からもお声がかかりました。
他にも、鎌田實さんが名誉院長を務める諏訪中央病院では毎年、「死」について話をさせてもらっています。
─ 医療と仏教がつながる時代になってきた?
横田 そうかもしれません。なぜ、病院が「死」について話をして欲しいというご依頼をしてくるかというと、例えば90歳のおじいさんがご自宅で具合が悪くなって、救急車で駆けつけて心臓が止まっていたらマッサージをしなければなりません。肋骨が折れても、心臓が動かなければショックを与えなければならないのです。
現場の医師としては内心、このまま安らかに逝かせてあげた方がいいのでは? と思うこともあるそうですが、ご家族が意思を示さない限り、やり続けなければならないわけです。こうした現実の中で、患者さんがご家族には元気なうちに死について考えて欲しいという主旨でした。
ただ、諏訪中央病院は鎌田さんの教育が行き届いているために、こうした話ができますが、一般的に病院の中では死の話はタブーです。今後、私たちも含め、皆さんとともに死をどう受け入れるかを考えることが、これからの時代の大きな課題だと思っています。
葬儀に見るつながりの断絶
─ 「人生100年時代」と言われ、人々が長く生きるようになり、死に向き合うことが必要になったともいえますね。
横田 そう思います。以前の医師は、そんなことを考えなくてもよかったわけですが、ありがたいことに医学の進歩でみなさんが長生きする時代になりました。しかし、これからの若い世代がそれを支えていけるかというと非常に大変な時代です。
─ 人生観や哲学の問題ですが、医療を受けずに死んでいくという人も出てきています。
横田 死を考えて死を受け入れる。死から逃げていたら、いつまででも生き延びかねない時代になってきましたからね。
─ 家族は医学の力で延命して欲しい、財務省的考え方からすれば、それによって数兆円の国家財政の負担がかかる。しかし、金と命のどちらが大事だと言われると難しい問題です。
横田 先程の「人生100年時代」の中で、元気な100年ならばいいのですが。先日、JFEホールディングス名誉顧問の數土文夫さんにお会いした時に「健康寿命」、そしていつまで仕事で世の中の役に立つかという「職能寿命」、そして「資産寿命」が大事だというお話をされていました。
かつては大手電機メーカーに入社すれば、生涯年収が保障されているようなものでしたが、今では夢のまた夢です。次の世代、その次の世代の資産寿命がどうなるかはわかりません。その意味でも死というものを、どこかで真剣に考えざるを得ない時代です。
─ 死を前向きに捉え、受け入れて生きる時代とも言えそうですね。ただ、先程横田管長がお話されたおじいさんの野辺送りですが、かつては形は違えど、全国津々浦々、一般的な送り方だったと思いますし、子供もそれを感じてきた。しかし、今はそれが違ってきているような気がします。
横田 コロナ禍の問題にもかかわってきますが、ある時期から「家族葬」が普及してきました。今、ご家庭でおじいさんが亡くなったといって、学校を休ませてくれるのでしょうか。
コロナ以前から、このつながりが絶たれつつあったと感じています。これは仏教の精神で一番大事な部分ですが、人間はつながりの中で生きるもので、つながりの中でしか存在し得ません。これは仏教の真理です。
これを断ち切ってしまって、例えばお葬式はほんの数人が参加する家族葬が主流というのが今です。しかしお葬式は、故人にお世話になった人たちがきちんとお焼香に行ってお参りして、それで心にけじめがつくというためのものです。これが何もないと、皆さんの心にけじめがつかないわけです。
かつては皆さん、冠婚葬祭を大事にしておられましたが、今は個人で、内々でという風潮が強まりました。それにコロナが追い打ちをかけた形になっています。コロナの感染が拡大しているうちは仕方がなかったかもしれませんが、これが落ち着いたら冠婚葬祭はきちんと行うべきだと思います。
私の経験上も、最近は2桁の人が参列されるお葬式が減っていることを実感しています。かつては、よほどの事情がある人が数人のお葬式を行っていましたが、今はお子さんもきちんといて、かつそれなりの立派な企業に勤めている家でも、数人で行ってしまう。
─ 企業経営でも同じことが言えますね。1人で経営はできません。社員やお取引先、お客様がいて、そのつながりの中で経営があると。
横田 その通りですね。近年は、日本に元来あるものをあまり評価しない風潮があり、つい外国の方がいいように見えてしまうのだと思いますが、その国の風土に合ったものはあると思います。日本には日本の良さがあります。
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