【私の帝国ホテル史】帝国ホテル・小林哲也元社長の「わたしの大事にしてきた言葉は『セレンディピティ』」
財界オンライン / 2022年8月1日 7時0分
こばやし・てつや
1945年新潟県生まれ。69年慶應義塾大学法学部卒業後、帝国ホテル入社。89年セールス部長、92年宿泊部長、97年営業企画室長、98年取締役総合企画室長、2000年常務取締役帝国ホテル東京総支配人、01年副社長、04年社長、13年会長、20年特別顧問。22年6月に退任。
塩野七生氏とのエピソード
「人生は、運と縁とえこひいき」――。『週刊プレイボーイ』を100万部雑誌に育て上げた名編集者・島地勝彦さんが言っていた言葉ですが、わたしの53年の帝国ホテルでのホテルマン人生は、まさにその通りでした。
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1969年に入社して最初の配属は宿泊部客室課ハウス係。わたしのキャリアはトイレ掃除から始まりました。その後、帝国ホテル東京総支配人、社長、会長とキャリアを歩んできました。同時に、様々なお客様とも知己を得ることができました。
例えば、著書『ローマ人の物語』で有名な歴史作家・小説家の塩野七生先生。30年ほど前でしょうか、当社が発行している会報誌「IMPERIAL」にご登場いただくため、インタビューする機会をいただいたのです。
インタビュー開始早々、わたしが「塩野先生、この度は極めてお忙しいところ、お時間をとっていただき……」と言い出すと、塩野先生は「ちょっと待って」と。「小林さん、先生と呼ぶのはやめてください」とおっしゃった。それを聞いたわたしはすっかり魅了されました(笑)。
塩野先生に関しては、前述の島地勝彦さんからも面白いエピソードを聞きました。訪問前に塩野先生へのお土産を何にするか悩んだ挙句、帯留めを用意してお渡ししたそうなのですが、お土産を見た塩野先生は「明後日、アルマーニのパーティーに呼ばれて着ていくものを迷っていたのだけど、いま決めたわ。着物にします」とおっしゃったとのこと。とても粋ですよね。
わたしは「セレンディピティ」という言葉を大事にしています。「まずは行動し、人と会い、縁に気づき、その気づきを受け入れ、受け入れたらそれを発信する」。塩野先生とのご縁も、まさにセレンディピティでした。
また、わたしは高校時代からバンド活動をしていて音楽も嗜んでいたことから、音楽を愛する経営者とも交流がありました。コーエーテクモホールディングス会長の襟川恵子さんのご主人で同社社長の襟川陽一さん、大和証券グループ本社名誉顧問の鈴木茂晴さんといった方々とはそれぞれバンドを組んでいました。そのバンドでは、わたしはギター兼ボーカルを務めました。
その音楽に関わる思い出として印象に残っている出来事もあります。それが1966年6月29日、世界の音楽史上に永遠にその名を刻む英国のロックグループ、ザ・ビートルズの最初で最後の来日です。実はビートルズを巡っては裏話がありました。
ビートルズは帝国ホテルに宿泊するはずだった?
来日したビートルズが宿泊場所として選んだのが「東京ヒルトンホテル(現ザ・キャピトル東急ホテル)」ですが、実は当初は帝国ホテルに宿泊する予定だったのです。ところがそれを後に社長となる犬丸一郎さんがお断りしたのです。このことは、東京ヒルトンホテルの総支配人だった方から聞きました。
「哲ちゃん、ビートルズがうちに来た、来たと言ってくれているけれど、実は犬丸さんが断ったからうちに来たんだよ」と。
犬丸さんには、ビートルズのファンがホテルの周りに集まり群衆ができると周辺の方々やご宿泊されていらっしゃる方々にご迷惑をかけてしまうかもしれない。そんな判断があったのでしょう。後日、犬丸社長に真意を尋ねました。すると「そんなこともあったかな」。はっきりとは言いませんでした。
ただ、断ったのには理由があったのです。犬丸さんの脳裏には1954年に来日した米国の大女優、マリリン・モンローが帝国ホテルに泊まったときの大変な苦労が思い出されたのでしょう。マリリン・モンローが大リーグのスーパースター、ジョー・ディマジオと結婚し、その新婚旅行で来日してきたのです。
すると、マリリン・モンロー見たさに帝国ホテルの周りを群衆が囲み、日比谷公園などを中心に大混雑となりました。当初、2人ともプライベートの新婚旅行でしたから静かに過ごそうとしていたのですが、あまりにも取り囲む群衆が多かったものですから、2人がバルコニーに出て挨拶をしたのです。凄まじい大歓声だったようです。
そんな裏話を聞くことができたのも、わたしが帝国ホテルを就職先に選んだことで、帝国ホテルとの”縁”ができたからに他なりません。そもそも、なぜわたしが就職先に帝国ホテルを選んだのかをお話しましょう。
高校時代、野球部の練習をサボってふと手にしたのが『親鸞』という本でした。読み出したら止まらなくなり、ついに読書に目覚めたのです。そして読書を通じて「人間って面白いな」と人間に興味を持ったのです。
それで就職活動をするに当たって、できるだけ人間と関わり合いの多い仕事がしたいと考え、それならホテルがあるなと思いました。そして、ホテルと言えば帝国ホテルだろうと。後から知ったのですが、それまで帝国ホテルの採用は紹介が主。当時は採用人数が少なかったのです。
ところが私が入社試験を受けた1969年は、翌年の本館のオープンに備えて建て替えの最中。1923年に建ったフランク・ロイド・ライトの建物を壊し、270室から約800室に拡大する予定でした。部屋数が増えますから人員も必要になります。とても紹介採用だけでは間に合わなかったのです。
そして、わたしは公募第1期生として採用されました。この頃の日本はまさに高度経済成長期。翌年のオープン時の1970年には大阪万国博覧会が控えていました。ですから、景気も良くて帝国ホテルとしても拡大しているところだったのです。
帝国ホテルでも建て替えによって現本館がオープンした1970年の上期平均稼働率が92%。新本館の客室数777室に加え、別館の150室と東館の350室の計約1300室で92%ですから凄い状況でした。
ところが、山高ければ谷深し。同年下期の平均稼働率は一気に60%台まで低下しました。いわゆるポスト万博です。万博に合わせてドンッとインバウンドの訪日客が来たのですが、万博が終わるとパッといなくなった。
部屋数も多かったこともあり1970年通年の平均稼働率は76.8%。もはやこの段階で利益が出ない状況となっていました。さらに翌年の1971年になると稼働率が下がり、1972年通年では69.7%にまで落ち込みました。ところが1972年から潮目が変わります。
わたしはここで帝国ホテルの凄さを知ることになりました。というのも、この年から年間の平均稼働率が80%を超えてくるのです。1973年に第1次オイルショックが起き、1974年には田中角栄内閣の列島改造政策による地価・物価の高騰、賃金の上昇、金融緩和による過剰流動性が重なり、インフレが一気に加速。狂乱物価と呼ばれる現象が起こりました。
以下、本誌にて
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