【私の帝国ホテル史】帝国ホテル・小林哲也元社長の「入社最初の仕事はトイレ掃除。お客様からの感謝の言葉に奮い立ちました」
財界オンライン / 2022年8月14日 11時30分
こばやし・てつや
1945年新潟県生まれ。69年慶應義塾大学法学部卒業後、帝国ホテル入社。89年セールス部長、92年宿泊部長、97年営業企画室長、98年取締役総合企画室長、2000年常務取締役帝国ホテル東京総支配人、01年副社長、04年社長、13年会長、20年特別顧問。22年6月に退任。
次第に度胸がついたトイレ掃除
「えっ、いきなり便所掃除か……」――。1969年に公募第1期生として帝国ホテルに入社したわたしの最初の配属先は宿泊部客室課ハウス係。上高地帝国ホテルでのトイレ掃除が最初の仕事でした。まずは半年の研修を受け、その後、半年間、トイレ掃除です。まさか自分がトイレ掃除をすることになるとは夢にも思っていませんでした。
【私の帝国ホテル史】帝国ホテル・小林哲也元社長の「わたしの大事にしてきた言葉は『セレンディピティ』」
自宅でトイレ掃除などしたこともありませんでしたが、お客様のお部屋のトイレだけでなく、従業員のトイレも掃除することになりました。最初は戸惑いましたが、綺麗にするためには手を突っ込むしかない。エイやっ! まさに心の中で叫びながら手を便器の中に突っ込んで一心不乱にゴシゴシ磨きました。
また、上高地帝国ホテルは昭和8年の建物だったため、今のように各部屋にバスルームはありません。ですから、大浴場の掃除もわたしの担当でした。銭湯のような大きな湯船が男湯と女湯にあり、そこをデッキブラシで一生懸命磨くわけです。
そんな新人としての日々に戸惑いを感じていたのですが、これを幾度と繰り返していくと次第に戸惑いもなくなりました。むしろ、自分が精魂込めて掃除していくと、それに合わせてトイレがどんどん綺麗になっていく。そして、綺麗になっていくと自分の喜びになっていく。
わたしにとってトイレ掃除はホテルマンとしての原点と言えます。そもそもホテルの仕事の源流はハウスキーパーから来ています。いかにお客様にお部屋を綺麗にお迎えするかが原点なのです。そのために、我々ホテルマンがお部屋や皆さまでお使いいただくパブリック・スペースなどをしっかり清掃するわけです。
当時、上高地帝国ホテルは場所柄、勤務期間は夏の2カ月しかありませんでした。しかし帝国ホテルでは事前にトイレ掃除をしっかりやらせる技術を備えさせるために、帝国ホテル東京の本館で上司3人くらいが掃除の研修をしてくれたのです。凄い会社だと思いました。
わたしが入社したときの同期は大卒が13人。専門学校と短卒が25人ぐらい。あとは70人程度が高卒でした。大卒の中でトイレ掃除を担当することになったのはわたしだけ。あとの12人はウエイターやベルマンなど。ウエイターの同期に話を聞くと、厨房から「おい、試食してくれ」と声がかかり、帝国ホテルの料理が食べられたそうです。
スペイン国王夫妻をお招きして
一方のわたしの方は役得一切なし。それでも救いとなったのは、お客様からの声でした。あるときパブリック・スペースのトイレを掃除していると、お客様が声をかけてくださった。「大変なお仕事ですね。でも、皆さんが綺麗にしてくれるから、我々は気持ちよく使わせてもらっています」と。
男性のお客様だったのですが、この言葉を聞いてわたしは奮い立つぐらい嬉しかった。「ああ、こういう仕事を評価してくださるお客様がいらっしゃるんだ」と。この言葉がわたしのモチベーションをバンッと上げてくれました。忘れられないエピソードになりました。
わたしは縁のある出会いを意味する「セレンディピティ」という言葉を大事にしているのですが、このお客様の存在がなければ今のわたしはなかったでしょう。そもそもわたしが帝国ホテルに入社したのも「人が好き」だったから。世の中には人間しかいないのですからね。
福沢諭吉も『学問のすゝめ』の中の「文明之概略」でこんな言葉を使っています。それが「人間交際、すなわち学問なり」。要は明治時代を迎えて身分制度がなくなるまで、武士や商人の間に真の交流などありませんでした。しかし、明治維新が発足すると、福沢諭吉は士農工商それぞれが交流することが大事であり、人が交流し続けることによって文明が構築されていくと説いているのです。
交流――。わたしが53年にわたる帝国ホテルでのホテルマン人生を過ごしてきた中で、様々な世界のVIPをお迎えしてきましたが、最も感動したのがスペインのファン・カルロス1世国王をお迎えしたときです。
わたしが2004年に社長に就任し、08年にカルロス国王が国賓として日本にお見えになりました。その宿泊場所として帝国ホテルがお迎えすることになっていました。国王がいらっしゃる1週間ほど前、ある外交官の方と昼食をとりました。
「今度、ファン・カルロス1世国王がお見えになりますが、お泊りは帝国ホテルですよね?」
「はい、その通りです」
「小林さん、ファン・カルロス1世国王は以前、新婚旅行で帝国ホテルにお泊まりになったことがありますよ」
「えっ、本当ですか?」
「小林さんに嘘を教えたら申し訳ありませんから、念のため一度オフィスに戻って確認してから、もう1回お電話します」
後日、その外交官の方から電話が入りました。
「小林さん、間違いありません」
驚きました。調べてみると、ファン・カルロス国王が新婚旅行で訪れたのは46年前の1962年。当時、ギリシャ王女であったソフィア王妃とご結婚され、アテネでの結婚式を挙げた後、そのまま世界歴訪の新婚旅行に出かけられました。
その途中に日本にもお立ち寄りになられたのですが、そのときの宿泊先が帝国ホテル東京だったというのです。わたしはすぐに広報に連絡し、当社が発行している会報誌『IMPERIAL』のバックナンバーを調べさせました。すると、同年11月号の『IMPERIAL』に確かに新婚旅行時のお二人のお写真が掲載されていたのです。
「これはお二人にとって良い思い出になるはずだ」。そう考えたわたしは、お二人がご宿泊される予定の一番大きなお部屋「インペリアルスイート」にお二人が載っている『IMPERIAL』を置いておきました。そしてお二人が来られる当日、わたしはVIP専用の玄関でお二人をお迎えしました。
お出迎えの際、「Welcome back, your majesties.(おかえりなさいませ、両陛下)」と申し上げると、ソフィア女王陛下が「Yes, yes, we stayed here 46 years ago.(ありがとう。わたしたちは46年前にここに泊ったことがあります)」とおっしゃった。ゾクゾクッときました(笑)。このときほど帝国ホテルに勤めていて良かったと思ったことはありません。
お部屋までついていくことはできませんでしたから『IMPERIAL』のご感想を聞くことはできませんでしたが、きっと喜んでいただけたのではないかと思っています。その証拠に、お二人からは国王が立ち姿、女王陛下が椅子に座っているお写真をいただきました。その写真はずっとわたしの執務室に飾りました。こんな経験は普通のサラリーマンではできません。
上皇陛下からのお言葉
しかも「セレンディピティ」はここで終わりではありませんでした。お二人の訪問から7~8年後、今度はファン・カルロス国王の皇太子であるフェリペ6世国王が国賓として帝国ホテルにお泊まりになったのです。ホテルマン冥利に尽きます。このときは今の定保英弥社長がお迎えしました。
ホテルに勤めていると、このような歴史的な局面に遭遇することができるのです。もちろん、国内でも印象に残ったケースがあります。それが今の上皇陛下です。清子内親王(現、黒田清子さん)の結婚式にご臨席されるためにいらっしゃった時のことを鮮明に覚えています。皇族の方が結婚式を民間のホテルで行うことは稀なことでした。
お二人は天皇皇后陛下というよりも1人の娘の父と母としての面持ちで、我々に対して「お世話になります」とお言葉をかけてくださいました。直接、天皇陛下からお言葉をいただけるとは夢にも思いませんでした。
セレンディピティ─。この言葉は脳科学者の茂木健一郎さんの著したコラムを読んで知りました。もともとはスリランカ語を起源とする英語なのです。当時のセイロンに『セレンディップの三人の王子たち』という昔話があり、いろいろな冒険を通じて人々と出会い、ハッピーエンドを迎えるという物語。まさにわたしの帝国ホテルマン人生もその通りでした。
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