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【私の帝国ホテル史】帝国ホテル・小林哲也元社長の「帝国ホテルは誕生から既にブランド。さすがと言われるホテルづくりを」

財界オンライン / 2022年8月26日 15時0分

こばやし・てつや
1945年新潟県生まれ。69年慶應義塾大学法学部卒業後、帝国ホテル入社。89年セールス部長、92年宿泊部長、97年営業企画室長、98年取締役総合企画室長、2000年常務取締役帝国ホテル東京総支配人、01年副社長、04年社長、13年会長、20年特別顧問。22年6月に退任。

初の日本人の総支配人は5代目

「帝国ホテルは誕生から既にブランドだった」――。わたしは社内でも常にこう言い続けてきました。1890年に東京・日比谷の地に開業した帝国ホテルは日本の近代史と共に歩んできたと言っても過言ではありません。

【私の帝国ホテル史】帝国ホテル・小林哲也元社長の「入社最初の仕事はトイレ掃除。お客様からの感謝の言葉に奮い立ちました」

 江戸幕府は幕末に欧米列強から迫られ、修好条約を締結。それが大変な不平等条約でした。ですから、明治維新を経て発足した明治政府は、この不平等条約を何とか是正し、欧米列強に追いつくべくアクセルを踏みながら進んできたわけです。

 伊藤博文、岩倉具視など、政府の要人になった人々は欧米に留学し、西洋式を学びました。その中で気づいたことが、日本が近代国家であることを世界中に知らしめるためには、賓客をお呼びするための西洋式ホテルが必要だということでした。

 時の外務卿の井上馨が発案し、日本の近代経済の泰斗である渋沢栄一に相談。各財閥に声をかけて帝国ホテル設立へとつながっていきました。最初の帝国ホテルは木骨レンガ造りのネオルネッサンス風で、当時の新進気鋭の渡辺譲という建築家が設計。瀟洒な建物となりました。

 ただ、初めての本格的な西洋式ホテルということで、オペレーションを熟知している人間はいませんでした。ですから、最初の総支配人はアメリカ人。次の総支配人はスイス人、次はドイツ人、その次はそのドイツ人の弟と、外国人の総支配人の下でオペレーションがなされていったのです。

 初めて日本人の総支配人になったのが5代目。林愛作という古美術商人でした。林は米ウィスコンシン州立大学に留学し、山中商会という古美術商に入社。同社は幕末から明治にかけて日本の古美術を世界中に売りまくった男・山中定次郎が創業した会社でした。林はそのニューヨーク支店に勤務したのです。

 実はこの林が浮世絵を愛していたフランク・ロイド・ライトに出会ったのです。このライトこそ、帝国ホテルの2代目本館の設計を手掛けた人物で、林がライトに依頼したのです。1923年にライトの設計した建物はオープン。開業日の9月1日に発生した関東大震災も無傷で生き残ることができました。



米国のライト設計の家を見て

 ちなみに、ライトを巡っては、わたしにとって忘れられない出来事があります。わたしは1974年から国際営業を始めていたのですが、86年に米国のケンタッキー州でトヨタ自動車さんが初の米国工場を建設しました。その4年くらい前から打ち合わせなどで来日してきた州政府の知事やスタッフの方々は帝国ホテルにご宿泊されていたのです。

 そんな縁もあって、ケンタッキー州の方々にお礼を言うため、ケンタッキー州を訪れました。州政府の営業部長だったテッド・サウアーさんと仲良くなりました。わたしも名が哲也だったので、愛称として「テッド」と呼ばれていたので、彼とは距離が近くなりました(笑)

 米国滞在の際に彼から「うちに泊まりに来なよ」と誘われ、泊めていただいたのです。するとテッドは「歩いていける距離に、フランク・ロイド・ライトが設計した家がある。興味はありますか?」と言う。

 実際に見に行くと、ライトが設計した家は気品のある佇まいをしていたので、外観を見ただけで感動しました。しかしそれだけではありません。家の前に看板が立っており、そこには次のように書かれていたのです。

”This residence was designed by Mr. Frank Lloyd Wright. He also designed a famous Imperial Hotel in Tokyo, Guggenheim Museum in New York.(この邸宅はフランク・ロイド・ライト氏によって設計されました。彼は東京の有名な帝国ホテルやニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館を設計しました)”

 鳥肌が立ちました。グッゲンハイム美術館よりも前に帝国ホテルの名があったのですから。帝国ホテルに就職し、ホテルマンになって良かったと心の底から思えた瞬間でした。

 わたしは「セレンディピティ」という言葉を大切にしています。人との出会いや縁を大切にするという意味ですが、帝国ホテルの創業期も当時の人々のセレンディピティが紡いできたと言えるでしょう。ですから、帝国ホテルは誕生した時点からブランドであり、それを先人たちはしっかり理解し、帝国ホテルのブランドを希釈させず、毀損させない努力を続けてきたのです。

 わたしもこれを自らの使命として捉えてきました。わたしが取締役総合企画室長だった2000年、世の中はミレニアムという記念すべき年を迎えていましたが、景気はさほど良くはありませんでした。そしてその年、帝国ホテルは110周年を迎えたのです。

 厳しい環境下のときこそ、原点に返ることが重要だと思いました。帝国ホテルにする評価は「さすが帝国ホテル」か、「帝国ホテルともあろうものが」の2つしかありません。そうであるならば、全てのお客様に「さすが帝国ホテル」と言っていただこうということで運動を始めました。

「さすが帝国ホテル推進活動」――。これがその運動の名称です。それまでもサービス向上運動という形で取り組みはしてきたのですが、継続的に、永遠にできるサービス向上運動をやらなければいけない。そんな思いを込めて、この名称にしました。

 そして、「さすが帝国ホテル」と言われるための「帝国ホテル 行動基準」も策定しました。この一番の眼目は、お客様が我々に給料をくださっているということを、社員全員が一致して認識しなければならないということです。そのためには、いくつかの実行テーマがあります。

「挨拶」「清潔」「身だしなみ」「感謝」「気配り」「謙虚」「知識」「創意」、そして「挑戦」。これらの実行テーマについて、分かりやすい説明を書いた小冊子を全員に配り、月ごとに実行テーマを選んで重点的に取り組むなどしていきました。

 わたしどもの行動基準の中で「私たちは生活の基盤の全てをお客様に負っていることを認識し、お客様の感動を自らの感動とする者だけが、帝国ホテルスタッフとしての評価を受けられるのです。」という言葉があります。お客様から給料をいただいている、そのお客様にいかに喜んでいただくか。それが我々の仕事であり、それをもっと深く認識して日常のサービスをしましょうと。それが一番大事なのです。

「さすが帝国ホテル推進活動」では、お客様から指名されてお褒めいただくなどの従業員が年間に40~50名表彰されます。その中から投票で年間大賞を贈るようにもしました。表彰に値すると思う人を上長が選定し、部長会で審議します。表彰が決まると、社長自らが本人の職場に出向き、職場のギャラリーがいる中で、この人はこういうことをやって、お客様から「さすが」と評価されましたと講評します。ここがポイントです。

「あの人はこういうことやって表彰されるんだったら、わたしも今度やってみよう」。徐々にこういった気持ちが広がっていきました。これが組織の活性化や従業員のモチベーションアップにつながっていくのです。



人は驕ってはならない

 そして、何よりも重要なことがあります。ホテルマンである前に、まずは1人の人間です。人間力を鍛えることがとても大切になります。明治期の文学者・内村鑑三は「興国とは謙のたまものであって、亡国は傲慢の結果である」という言葉を残しています。傲慢や驕りは個人も潰すし、会社も潰す。ひいては国をも潰してしまう。だからこそ、人は驕ってはなりません。

 これからの帝国ホテルを支えてくれる次世代の人たちには、この考え方をしっかり守って、2024年から36年にかけて実施予定の「帝国ホテル 東京」の建て替えを迎えて欲しいと願っているところです。

 53年のホテルマン人生を振り返り、本当に楽しかった。まさにホテルマンは、わたしにとって天職だったと確信しています。セレンディピティ――。今を生きる若い人たちには、是非とも数奇な出会いを大切にしながら、目の前の仕事に精一杯取り組み、悔いのない人生を過ごしてもらいたいと思っています。(了)

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