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【特別寄稿】「北の国から」の脚本家・倉本聰 2023年の「環境サミット」開催に思う

財界オンライン / 2023年1月22日 7時0分

倉本 聰 作家・富良野自然塾主宰

「人類とは恩知らずな、突出して愚かな生命体ではないのか」─。こう投げかけるのはドラマ『北の国から』の脚本を手掛けた作家の倉本聰氏である。SDGsやESGという言葉が飛び交う現代社会。その現代社会の象徴的な課題が環境問題だ。しかしその環境問題は「豊かさが産んだもの」と倉本氏は指摘する。人類の生存を脅かす新型コロナの感染拡大、ロシアによるウクライナ侵攻といった人類の愚行……。我々は今をどう生きるべきなのか。雪深い北海道・富良野の地から都会に住む人々への倉本氏の訴えとは?
G7の環境会議が札幌で開催
 この春、G7サミットが広島で開かれることになり、そのついでにG7の環境会議が札幌で持たれるということになって、どういうわけかその相談が、僕の所に持ちこまれてきた。

 国会議員を仲立ちに環境省の環境局長、札幌市の副市長など偉い方々が雪深い我が家にわざわざお越しになったのだが、その時、僕の申し上げたのは、かねがねこういう大会議の折にいつも感じていた一つの疑問である。それはどういうことかというと。

 人間の産み出した環境の変化。気象変動やら異常気象などなど、そういう重大事を論ずるのに、暖房やクーラーのガンガン効いた快適な文明的空間の中で事を論ずるのはまちがってはいまいか。雪が降ろうが、嵐が来ようが、天然自然の環境の下でこういう重大事は論じられるべきものではないか。

 たとえば三内丸山遺跡の中に今も残っている大集会場のような竪穴建造物を建て、その中央に大きな焚火を焚いて、その火を囲んで学識者やら大臣たちが語らう。照明はかがり火かローソクの灯りのみ。入口に垂れ下ったむしろのすき間からは表の気温や湿度やらが風にのって室内に遠慮なく侵入する。そういう当たり前の気象条件の中で、寒さ暑さに耐えながら地球環境について真剣に語り合う。そういう会議こそ筋ではないのか。

 そう申し上げたら皆様、シンと無口になってしまった。

「そうは言っても」というセリフは「前例にないから」というセリフとともに富良野では禁句、とあらかじめ伝えてあったから、さすがに口にする人はいなかったが、口にしないでも彼らの反応は、はっきり表情の奥に表現されていた。

 霞ヶ関や永田町の主導するこうしたイベントの開催企画として、元々無理なのはよく判っていた。大体、安倍晋三元首相のあの大事件の後である。警察はその威信にかけて、あのようなことの起こらないよう必要以上に神経質になっている。だから札幌でこうした大会議を開くについては、元々警備のしっかり行き届く××ホテルで開催することは既に前提として条件に入っていると、国会議員から聞かされていた。それでも僕が一見、突拍子もない、こういう破天荒なプランを提案したのは、永年真剣に環境問題にとり組んで来た一人の老人としての意地である。

 SDGsだの、カーボンゼロだの、学識経験者はむずかしい言葉で我々庶民を煙にまこうとするが、そもこの問題の起源は一体どこから始まっているのか。

 文明が「便利」をつくりすぎたからである。

文明が人類にもたらしたもの
「便利」とは何か。元々人類は他のけものや植物のように自分の体内にあるエネルギーだけで生き、暮らし、恋をし、子孫を作りつづけてきたのに、次第にその脳が肥大化し、サボルというズルサを知ってしまってから、自分のエネルギーの消費を抑えて他人のエネルギーを利用することを覚えた。いわゆる代替エネルギーである。それは、初めは家畜に始まり、奴隷・捕虜・弱者へと形を変え、それが産業革命以来、化石燃料にターゲットを変えて、石炭・石油・天然ガスから遂には原子力まで範囲を拡げた。

 3㍍歩けばボタンが押せるのに、3㍍歩くためのエネルギー消費をけちり、リモコンというものを発明する。

 そうやってどんどん消費エネルギーを使わないで暮らすと、筋力が落ちて来て何となく不安だから、高い金を払ってジムの会員になり、何の生産性もない重いものを上げたり下げたり、どこにも行きつかない自転車のペダルをひらすら踏んで汗を流したり、理解不能の行動に走る。人類はこういう不思議な生き物になってしまった。

 環境破壊は先進国が作ったもので、それを後進国まで面倒を見させられるのはたまらない、と後進国の方々は言うが、至極もっともな言い分で、同じ日本でも東京と富良野の僕の暮らしでは相当に文明的隔差がある。早い話が乗物というものに、ここ2、3年は殆んど乗っていない。そも公共交通機関などというものが、この山奥にはないのである。

 宇宙衛星から撮影した夜の地球の写真というものがある。これを見ると先進地域と後進地域の差がおどろくほど見事に判別される。先進地区は光に溢れ、後進地区は真暗である。朝鮮半島の下半分、38度線から下の韓国は光の洪水の中にあるが、その上、北朝鮮の夜の大地はおどろく程の真暗闇である。よくあんな真暗な大地から次々とミサイルを飛ばしてくるものだと妙な感慨に耽けさせられる。

暴走を始めたスーパーカー
 ところでわが日本。

 小さな島国が光の洪水である。

 その洪水を見ながらふと考える。

 僕が幼い子供だった頃。即ち1940年代前後の日本を、もしも宇宙から夜、眺めたとしたら、一体どんな情景だったのだろうか。殆んど今の北朝鮮と同じ暗黒の中に沈んでいたのではなかったか。

 1950年代はどうだったろう。

 戦後のあの時代の夜の日本の情景は、40年代とさほど変わっていなかったろう。60年代はどうだったろう。70年代はどうだったろう。思えばこの頃から日本列島は俄かに光を放つようになり、80年代のバブル期にいたって燦然と輝く今の日本になってしまった。そうしてこの頃から世界各地で環境問題が発生し始めた。

 貧しい時代に環境問題はなかった。豊かになって各種の環境問題が生じた。豊かさが明らかに環境を悪くした。そのことに人類は気づき始めた筈だ。

 では何故ここまで様々な弊害を産む豊かさの裏にひそむ危険性を、かしこい人類が放置したのだろうか。

 気づいてはいたと皆、口にするが、手を打つ勇気を持たなかったことは、気づいていなかったと同じことである。

 人類というスーパーカーは、いわば暴走を始めたのである。言い方を変えるなら元々このスーパーカーは、大事な二つの部品をつけ忘れた見事にして偉大な欠陥車だったのだ。二つの部品とは、ブレーキとバックギアである。この二つの大きな倫理的欠陥を放置したのは誰の責任だろうか。というより、この二つの大きな欠陥に、かしこい人類は気づいていたのだろうが、気づいてそれを無視して来たのだろうか。

 人類は地球上の生物の中で、最もかしこい優れた存在だと、いつのまにか自他共にそう思いこんでいる。しかし本当に果たしてそうなのか。何千年も殆んど進化せず、動物園の檻の中でひたすら人に見られることで一生を全うするけものたちの生き方、あるいは森の中で一粒の種から、芽を出し葉を出し花を咲かせ実をつけ、それを種として次世代につなげる、余計な野望を一切持たず、百年、千年同じ生き方で朴訥に生きている植物たちの生。見様によっては彼らの方が、ずっと倫理的哲学的に優れた一生を送っているのではないか。

 たとえば木の葉はその生涯を、光合成によって酸素を作り出し、落葉となって土を作り、水を貯めこんで動物に贈る。しかし贈られる当の人間は、その酸素を1分間に17、18回吸いこむことで生きながら、息を吸うというその行為を、生まれた時から誰にも教えられず、当たり前のようにやっているものだから、すっかり忘れ果て感謝もせずに、落葉は単なるゴミとしか思わない。そうしたことの延長線上に我々の今の豊かさはあるのに、そうした思考は持とうともしない。思えば人類とは、そういう恩知らずな、突出して愚かな生命体ではないのか。

アイヌの人たちに建造物を
 環境問題はそうした人類の真の愚かさが、作るべくして作ってしまった究極の帰結だと僕には思える。

 だからこそ今一度、原点に立ち戻り、天然の温度と風にさらされながら、この大問題にとり組むべきではないか。そういう想いで提案したのである。

     ●

 しかし国家を運営する人たちの思考の方角は全くちがうようだ。

 世界を代表するG7のお偉方にそんな失礼な対応はできない。

 警備の問題はどうするのか。風邪をひかせたらどうするのか。焚火の火の粉が飛んだらどうするのか。大体、三内丸山のような、竪穴式の大会議場を一体どうやって建設するのか。

 そこで当方はこう説明する。

 白老にあるウポポイ民族共生象徴空間。ああいう素朴な建造物をアイヌの人たちに作ってもらえば良い。木材を組み立て、紐やツタで結び、屋根は木の皮や植物で葺く。アイヌのチセの創り方の手法でアイヌのやり方で創っていただく。

 すると先方はとんでもない!という。たとえ数日間使用するだけだからといっても、世界の要人をお招きするものなら、それは権威ある建築家に依頼し、コンペ形式で安全快適な建造物を目指し、大手の信用ある建設会社に入札させて最高のものを作らねばならない。国の威信に関わるものであるから─。

 国の威信!!

 環境問題を真剣に論ずるのに、どうして国の威信が関係ある?

 あなた方はあのオリンピックでの汚職問題を再び再現なさろうとするのか。

 そんなこんなで僕の愚案は、今関係者がそれぞれ持ち帰り、誠意をもって検討中、ということに一応なっている。

 十中八九、採用されまい。

 それも当然だと僕も思う。しかし。

     ●

 環境問題を真に論ずるなら、自然環境の中でやるべきだという僕の考えは全く変わらない。

 かつて東日本大震災が起こった後、復興庁というものが新設されたが、その復興庁の所在地が、災害を受けた東北にではなく、東京に置かれたときいた時、僕は激しい違和感を持った。

 復興を目指すための復興庁の所在地が、窓から外を見れば瓦礫に覆われた被災地であるのと、華やかなビルの林立する東京のどまんなかに設置されるのとでは、働く者のモチベーションが全くちがうのではあるまいか。

 環境問題を論ずる場所の設定にも、全く同じことが言えると思うのである。

 都会には文明が鎮座ましまし、環境問題というきれいな文字だけが、切実さと離れて頼りなく浮遊する。今年は大雪だ、雪害で大変だとテレビの画面が大声で叫んでも、都会の人々は同情はするが、雪の冷たさ、閉じこめられた被害者の辛さは想像するだけで実際には感じない。

 ITに囲まれ、情報馴れしてしまった現代人には、環境問題も今夜の飲み会の約束も同じ比重で心にある、という気がしてならない。

 かくなる上は、お偉いさんたちやお役人にまかせず、トゥンベリさんやマータイさん、本気でこの切実な課題に向き合っている世界の賢者たちを一堂に集めて、原野の中で、吹雪の中で、嵐の中で真剣に話し合える、そういう会議の場を考えてみようか。

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