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【追悼】元内閣官房副長官・石原信雄さんを偲ぶ

財界オンライン / 2023年2月13日 15時0分

石原信雄・元内閣官房副長官

「国のあり方を真摯に追い求め、また国の行く末に、常に思いを馳せる人」─。

 1926年(大正15年)11月、群馬県生まれ。52年(昭和27年)東京帝国大学法学部卒業後、地方自治庁(現総務省)に入庁。84年自治事務次官に就任、87年から99年まで内閣官房副長官として竹下、宇野、海部、宮澤、細川、羽田、そして村山の7人の首相に仕えた。仕えた首相の数は戦後で最多記録。

 国政に当たる政治家が何より信頼を置く人であった。政治家と官僚の関係について昨年春、石原さんにインタビューをすると「官僚はそれぞれの所管行政についてのエキスパート。その知識と経験を持ってお仕えする。政治家は国民の最大の利益を実現するために役人が持っている専門知識を生かす」と語り、「政治の方が上の立場にあるのですが、政治がおかしな方向に行ったなと思ったら、行政は政治に改めてもらうための意見を言うべき。主従関係というのは信頼関係があってこそですから、双方が争ってはいけないですね」と啓発。

 そして省庁間で政策を競うことは大事だが、「競うことと対立することは違う」という考えから、石原さんは官房副長官時代に「お互いに相手のあら探しをし、批判するのは止めよう」と言い続け、それを実行してきた。

 退官後は、一般財団法人地方自治研究機構会長を長く務め、各省庁の幹部やOBも足繁く石原さんのもとに通う姿が多くみられた。

 石原さんが役人の世界に入ったのは、ちょうど敗戦国・日本が主権を回復した1952年(昭和27年)のこと。茨城県総務課勤務を振り出しに、鹿児島、そして岡山の3県での自治の現場を体験。56年から59年までの昭和30年代初期に勤務した鹿児島県では「薩摩弁に慣れるまで相当苦労しました(笑)。大隅半島南端の佐多岬に行くまでに相当な時間がかかり、病人が出た場合、戸板に乗せて運んだりしていましたね。まだまだ日本が貧しいときでした」と述懐。

 戦後、日本は経済発展し、GDP(国内総生産)で世界第2位の座に就いた。その後、中国に抜かれて世界第3位に、最近では1人当たりGDPで台湾に抜かれるという低迷ぶり。「ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われたことに安住して競争社会から協調社会になってしまったことが海外との競争に乗り遅れた原因だと考えています」と啓発し続けた。

 また、日本の立ち位置について「日本の果たす役割は大いにあります」と強調。米中対立についても「お互いが疑心暗鬼になっている。争って、どちらかがどちらかを全面的に支配することなどできません。両方が共に争わず、人類全体の幸福を高めるためのやり方として何があるのか。それを徹底的に話し合うべきだと思います」と語り、日本の果たすべき役割はそこにあると説き続けた。

 正しい競争と協調。何より共に栄える道を探し続けた官僚人生。自治医科大学の創設や海外からの留学生支援など時代の大きな節目に新しい行政の仕組みづくりに奔走してきた。

 常に国のことを案じ、世界との共生・共存を追求するリーダーであった。ご冥福をお祈りしたい。

合掌。

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