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【追悼】トヨタ自動車元社長・豊田章一郎さんを偲ぶ

財界オンライン / 2023年3月7日 15時0分

経済人を励まし続けた豊田章一郎氏

トヨタ自動車を世界一の自動車メーカーに育て上げた人、そして生産現場を含む現場で働く人を労う経営者であった。

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 その人生は環境が激変する中をいかに生き抜くかというテーマをもってのものであった。創業家の3代目としての重責と緊張感を持ちながらも、ご本人は人と接する度に、常に謙虚な姿勢で、時にユーモアを交えて問題意識を共有するというコミュニケーションの仕方。

 日本の自動車メーカーとしてトヨタが飛躍する1980年代には日米貿易摩擦の象徴として自動車が取り上げられた。米ゼネラル・モーターズとの合弁設立、そしてケンタッキー州での自前の工場建設を決断。徹底した技術開発と原価低減で、当時の世界最大市場だった米国での現地生産を進めた。

 常に前向きで低姿勢な姿は、後に続く経営者、張富士夫氏、そして息子の豊田章男氏らに受け継がれていった。

 トヨタが日本の企業を代表する存在になっても「常に危機感を持って」と社員に訴えてきた。「トヨタもいつ沈没するかもしれない」という刺激的な表現を伴っての叱咤激励である。

 本誌『財界』誌で豊田さんに、かつて英国の紡績機の名門メーカーの跡地を尋ねたときのことを話していただいた。マンチェスター近くの街・オールダムには、かつて紡績機で世界を制覇したプラット・ブラザーズ社があった。祖父・豊田佐吉翁が憧れた織機メーカーである。しかし、プラット社は産業構造の変化に伴い、衰退の道を辿り、産業の歴史から消えていった。

「なぜ名門企業がおかしくなるのか」という問いかけである。その現実を直視するため、豊田さんはわざわざ自家用機を飛ばして英国の現地に飛んだ。

「オールダムの跡地には草むらが広がっていました」と語るご本人には「トヨタがこうなってはいけない」という想いがあった。トヨタは佐吉翁の織機会社から始まり、その息子・喜一郎(豊田さんの父)が自動車事業を興し、今日に至る。企業に栄枯盛衰は付き物。「トヨタも100年後、200年後はどうなるかわからんと言っているんです」と社内を引き締めておられた。

 緊張感を持ちながらも常に前向きの人生。豊田さんは1994年から98年までの4年間、経団連会長を務める。バブル崩壊後、日本は経済が低迷。97年には北海道拓殖銀行、三洋証券、山一證券が経営破綻。翌98年には日本長期信用銀行が経営破綻に追い込まれるという大変な時期。そういう混乱期に経団連会長として産業界をまとめ、「日本には潜在成長力がある」と全産業を励まし続け、政府には法人税減税、そして所得税減税などの実行を訴え続けた。

 バブル経済崩壊後、企業批判が社会的に広がる時代的空気の中で「企業が儲けることを悪いという風潮がありますが、企業は大いに儲けて、その代わりしっかり税金を払う方が大事です。企業が一生懸命やって儲ければ、企業数は多いのだから国の財政は良くなります」と経営者を励まし続けた。

 そして本業の自動車について「このような時代でも売れる車があります。前向きにやっていくとき」と研究開発を激励。

 強さと優しさを兼ね備えたトップリーダーであった。

合掌。

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