【産業競争力を高める!】三井不動産新社長・植田俊の「需要創造を図る産業デベロッパーとして」
財界オンライン / 2023年5月9日 7時0分
「われわれのビジネスは、不動産デベロッパーではなくて、産業デベロッパー」と三井不動産社長・植田俊氏。日本全体が産業競争力を高める必要性を求められる今、みんなでイノベーションを起こし、需要創造力を切り拓いていくため、「そのお手伝いをするプラットフォーマー」という位置付け。高度成長期には、工業用地が足りないという社会の要請に応えようと、埋め立て事業に進出したり、”霞が関ビル”の建設などで超高層ビル時代を牽引。”失われた30年”や1990年代末の金融危機は、不動産業界の変革とも重なり、新たな資産運用・資金調達としてのセキュリタイゼーション(証券化)などの手法取り入れに植田氏も若い時から関わってきた。変革期をどう生き抜くかという今、「その産業がより成長するコミュニティづくりへ、よりポジティブに関わっていきたい」と植田氏。その需要創造経営のポイントとは。
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日本の産業競争力を高めるお手伝いを!
今、日本で一番求められているものは何か? という問いに、三井不動産新社長の植田俊氏は、「産業競争力の向上だと思います」と答えて、次のように語る。
「みんなでイノベーションを起こして、圧倒的な付加価値を付けていく。何より、需要創造の経営が大事だし、その力を高めていく。そういう意味で、われわれのビジネスは不動産デベロッパーではなく、産業デベロッパーだということです」
不動産デベロッパーではなくて、産業デベロッパー。単に不動産(土地)を取得して開発し、オフィスビル、商業施設、ホテルやリゾート施設を造るという、いわゆる不動産業にとどまらず、コミュニティづくりを通じて、産・官・学連携を進めるなど、イノベーション(変革・革新)を起こしていく。
その根本となる産業競争力を高めるためのお手伝い、サポートをしていく『プラットフォーマー』であるという植田氏の認識である。
「もちろん、ビルであったり、商業施設であったりとハードの建物も建てたりしていますので、そういう意味では、当社は一般的に不動産デベロッパーというジャンルに入るのだと思いますが、その本質は産業デベロッパーだと思っています」
過去の歴史をヒモ解きながら、植田氏が語る。
「高度成長期には、工業用地、工場用地が足りないという中で埋め立て事業に着手して、社会の要請に応えてきましたし、ホワイトカラーの働く場所が必要だということで、日本初の超高層ビル・霞が関ビルを造りました。また、そこで働かれるワーカーの方々の、今で言うクオリティ・オブ・ライフ(生活の質)を高めるための住宅や商業施設づくりを進めていった。さらに言うと、最近では東京ドームを始め、スポーツ、エンターテインメントの領域、こういった産業にも進出。要は、社会の要請に応える形でやってきたという意味においては、産業デベロッパーというのが当社の本質だったと思っております」
霞が関ビルディングが竣工した1968年(昭和43年)はまさに高度成長の真っ只中。ちょうど、この年は日本が西ドイツ(当時、現ドイツ)をGNP(国民総生産、現在はGDP=国内総生産でその国の経済力を計測)で抜き、米国に次ぐ自由世界第2位の座に就いた年。
36階建て、高さ147メートルの日本初の超高層ビルは、躍進・ニッポンを象徴するものであった。それまでは、ビルの高さは31メートルまでに制限されていたが、建築基準法の改正で、31メートルを超えるビルの建設が可能になった。法改正や規制緩和が民間の投資を引き出す〝走り〟になった霞が関ビルの竣工であった。
それから55年が経つ。日本の現状はどうなっているか。
GDPで日本が中国に抜かれたのが2010年。人口減、高齢化・少子化という構造問題を抱え、世界第3位の座も危うい状況。1人当たりGDPではOECD(経済協力開発機構、加盟国は38カ国)の中で27位というポジションだ。
〝縮小する日本〟、〝失われた30年〟といわれ、日本再生をどう図るかという課題解決のポイントは何か?
やはり、生産性を上げていくしかなく、それには、「イノベーションを起こして、付加価値を付け、需要を創造しないといけない」という植田氏の問題意識。
「今まではどちらかというと、受け身的に、例えばオフィスで言うと、テナントさんが何をやっているのかというのは、特段われわれにとって、そんな大きな関心事ではなかったんです。今はやはり、テナントさんが貸室の中でやられている本業に関しても、もっとわれわれにいろいろなアプローチをさせていただき、いろいろな組み合わせを作ったり、その産業がより成長できるようなコミュニティを形成していくと」
コミュニティづくり、街づくりのコーディネーター、インテグレーターとしての役割だ。
日本橋をライフサイエンス、そして宇宙産業の拠点に!
具体的には、東京・日本橋での〝ライフサイエンスの街づくり〟である。2016年(平成28年)、三井不動産がアカデミア(大学、研究機関)と産業界が連携できるコミュニティをつくろうと設立した『LINK―J』(一般社団法人)。ライフサイエンス・イノベーション・ネットワーク・ジャパンの略で、発足して7年経った現在、会員数は670社にのぼる。
産業とアカデミアが力を合わせ、文字通り日本中の力を結集して、ライフサイエンスの創造的発展を期そうというもの。再生医療、個別化医療、創薬、医療機器、ヘルスケアをはじめ、予防・未病に関する研究成果を持ち寄り、イノベーションを進めようという動きである。
AI(人工知能)やIoT(モノのインターネット)などのテクノロジーと人との融合、さらには、人間拡張技術、〝Human Innovation(ヒューマン・イノベーション)〟といった言葉が関係者間で飛び交う。
薬の街である大阪・道修町と東京・日本橋との連携シンポジウムなど、年間のイベント回数は2022年では計842回にのぼった。1日に2回以上開催されている計算である。
この7年間に、東京・日本橋に新たな拠点を構えた企業や大学・研究機関は約160社。このうち100社がスタートアップ(新興企業)という構成だ。
「ええ、新たにそういうテナントさんが日本橋にライフサイエンス関係ということで集まって来ていただいております。それこそ、皆さんに非常にかわいがっていただいて、大きなコミュニティに今なっています」
植田氏はこう語り、産業デベロッパーとしての三井不動産は〝場〟の提供を、LINK―Jは〝コミュニティ〟の提供を担うという役割分担だ。
『妄想、構想、実現』のプロセスで日本再生を
東京・日本橋は江戸期から、5街道の起点。奥州、日光街道に加え、中山道、甲州街道、そして東海道の5街道。さらに今後海外との交流を一層深め、「宇宙との繋がりを拡大していこう」と今、「6本目の街道づくり」が進む。
「世界中の人類が抱える課題ですね。ライフサイエンスと宇宙。非常に総合力を必要とする産業に着目して、われわれもお手伝いしていきたい」
第6番目の街道として、宇宙との繋がりを挙げるあたり、これは少々、妄想に近いという見方もあるかもしれないが、植田氏は真剣そのもの。
「わたしは日頃から、『妄想、構想、実現』という言葉を使っているんですが、今、日本に欠けているのは妄想力。こんな事が今できたらいいなあと。せっかく、漫画やアニメのドラえもんなどソフト力があるのに、全体的に妄想力が足りていない。妄想に大義があれば、皆さんがそうだね、面白いねとなり、多くの人が集まって来て、構想になり、実現に向かっていくと」
〝妄想〟から物事が始まり、それがいろいろな視点や角度から考察され、骨太の構想に昇華し、最終的に実現に向かっていくというプロセス(経路)である。
「われわれのライフサイエンスや宇宙もそういうプロセスの中で、妄想から始まりました。日本橋がライフサイエンスの聖地になればいいよね、という妄想から始まっているんですが、それが現実になりつつある」
〝6本目の街道〟として登場した宇宙領域では、JAXA(宇宙航空研究開発機構)との提携も実った。
「これも一日、一日、構想となり、いずれ実現に向かっていくと信じて、われわれは取り組んでいるということです」
『人間が想像できることは、人間が必ず実現できる』─。19世紀のSF作家で『海底2万マイル』を書いたジュール・ヴェルヌ。植田氏はこのジュール・ヴェルヌの言葉が好きだという。
「SFは昔から好きで読んでいましたが、ジュール・ヴェルヌの言葉に注目したのは、わたしがライフサイエンスに関わり始めた、この10年位で共感する言葉として気が付いたからなんです」
人類の想像力は果てしなく広がる。その意味で、将来の展望に期待がかかるが、一方でわたしたちは厳しい現実にも直面。
不確実性のうねりの中で
「どのエリア、どの国でも、あるルールの下で自由にビジネスできるという世界から、今は地政学的なリスクを含めて、分断の時代に変わりつつあるなと」
そして昨今の金融波乱だ。
「2008年リーマン・ショックがきっかけで、世界中が大金融緩和を続けた。それがコロナ禍を経て、インフレが非常に高まり、それに対応するために金利引き上げが始まった。低金利時代からちょっと金利が高くなる。これも大きな時代の変革期だと思っています」
金利高の局面を迎えて流動性の危機を招き、名門クレディ・スイスも経営危機に直面。
「そういう意味では不確実性のうねりみたいなものが来ている。1つの大きな時代の転換点かなと思っています」
植田氏はこういう認識を示し、「個人的にはこれから社長として、どちらかというと武者震いと言いますかね。そんなことを感じている状況です」とその心中を明かす。
緊張感の伴う環境下でどう成長していくかという経営課題。
「われわれは従来から、保有、開発、そして売却を含むマネジメントの3つのビジネスモデルを標榜しています。成長に向けての大きな投資、これは引き続きやっていくと。そうは思うものの、一部では回収したりしながら、全体のバランスシートを考えながら、戦略的にマネジメントしていくことが大事」
姿勢を低く、足腰を強くして、前に進む!
「姿勢を低くして、前に進むことが大事だと。姿勢を低くするということは、足腰を強くして前に進むことと思っています」と植田氏は基本姿勢を語る。
「今われわれは『ビジョン2025』という直近方針を打ち立ててやっておりますが、これもほぼ目途がついてきた。次なるステージとして、次の長期経営方針を立てていく考えです」
『ビジョン2025』は不動産そのものをイノベーションすることと、海外での事業を拡大、つまり国際的な展開を推進していくことが中心課題。定量的には、営業利益で3500億円程度を確保したいとしている(ちなみに、2023年3月期は売上高約2兆2000億円、営業利益約3000億円の見通し)。
中長期の展望に立つと、不測の事態が発生した時にどう対応していくか、リスク管理を含めて、経営の持続性(サステナビリティ)を考えていかないといけない。これは、同社の『産業デベロッパー』に徹するという経営哲学とも絡んでくる。
2007年に完成した『東京ミッドタウン』(六本木)、2018年に開業の『東京ミッドタウン日比谷』、そして今年3月開業の『東京ミッドタウン八重洲』といった〝東京ミッドタウン〟ブランドの街づくり・コミュニティづくりもそうだ。
各東京ミッドタウンはオフィス、商業施設、住宅、ホテル・リゾート、そしてロジスティクス(物流)と、大体5つの商品を揃えているが、これからは6つ目の商品として、ラボラトリー(研究施設群)が加わる。
『柏の葉』、そして『新木場』『葛西』とラボ群を
その6つ目の商品・サービスを提供する拠点としての街づくりを進めているのが『柏の葉』(千葉県柏市)や『新木場』(東京・江東区)、『葛西』(東京・江戸川区)でのラボラトリーづくり。
こうしたラボラトリー型コミュニティづくりの基盤になっているのが、イノベーションを起こして付加価値を付け、需要を創造するという考え方。つまり、供給が需要を引き出すというスマートシティづくりである。
『柏の葉』には、東京大学、千葉大学、医療創生大学などがキャンパスを持ち、大学間での連携、さらには産・官・学連携も押し進めている。
〝柏の葉スマートシティ〟として目指すのは、学術研究資源の活用と国際化。その一環として、千葉大学、三井不動産などが連携して、英国の名門パブリックスクール・英国ラグビー校を招致。今年8月下旬に開校の予定だ。これは、教育の国際化を図る試みとして注目される。
新木場は、材木の集積場として以前は栄えていたが、今は倉庫などが立ち並ぶ地区。
「住宅は基本的にできない都市計画区域で、ゆえに近隣問題などもあまりない。そこで新しい産業を起こそうと、ラボを作りませんかと地元に提案したところ、非常に賛同していただきました」と植田氏が語る。
葛西は創薬メーカー、第一三共が葛西研究所を構えている所。三井不動産がその研究所の一部を借り、マスターリースで小割りにして、研究施設として貸し出す仕組みを開発。研究機関のコミュニティづくりだ。
『産業デベロッパー』として掘り起こす事は、「まだまだ、いっぱいある」と植田氏。
東京もまだまだ変わる
地方の再生もある。
「わたしたちは、例えば富山の小矢部でアウトレットをやったりして、地方も手掛けています。ただ、地方は新たに産業を興していくメカニズム自体が非常に弱ってきているのが事実。しかし、これも東京一極集中対地方という構図の中で語るべきではないと思っています。日本の強みというのは、ある意味で集積の強みだということ。国際競争力が東京にあることは忘れてはいけないと思います」
東京は集積の強さを、地方はその土地の強さをそれぞれ発揮していくということ。
不動産業の本質とは
植田氏が大学卒業時(1983年=昭和58年)に不動産業を選んだのはどのような理由、動機だったのか。
「デベロッパーとしての活力。今はハードだけでなくてソフトも含めて、産業デベロッパーですが、大きいことがしたいと、そういう動機です」
入社した1983年は東京ディズニーランドがオープンした年。運営主体のオリエンタルランドには三井不動産も大株主として関わっていた。
植田氏は入社してすぐ、横浜事務所に配属。「関内に事務所があって、マンション用地の仕入れをする男性4人だけの小さな事務所でした」と言うが、数年後には100数十人の大所帯に成長する。
「スタートアップと同じような感覚で、僕は最初の社会人人生を踏み出した」と本人は述懐。
入社3年目で横浜市神奈川区片倉の農家と粘り強く交渉。
「相手は百戦錬磨の方。自分が持てる全ての能力を使って交渉しました。最後、首を縦に振ってもらった瞬間は今でも忘れられません」
小さな事務所が大きく成長していくプロセスを体験したが、難渋な〝場〟もあった。バブル絶頂期の1989年(平成元年)秋、リゾート事業部に異動。当時は〝リゾートホテル法〟が制定されたばかり。
「悪法とも言われましたが、規制緩和してゴルフ場なども作りやすくなりました」ということで、富士の裾野の静岡・小山町で70万坪(約230ヘクタール)もの地上げに当たった。
相手にする地主は800人、合計2000筆をまとめるという課題を与えられた。最初は張り切ったが、3年目位になると、やっても、やっても先に進まない。「もう止めましょう」とかなり勇気を持って上司に進言したつもりだったが、取り合ってもらえなかった。
そうこうしているうち、1992年(平成4年)三井不動産ファイナンスに出向となる。富士山麓の地上げ問題で楯突いて、「その時は飛ばされたと思った」と植田氏。
そしてバブルの崩壊。子会社に多額の不良債権が発生、その回収を図る仕事が回ってきた。
「不良債権処理は6年半と、これはなかなか辛い仕事でした」
回収できるものは回収したが、その頃は〝半値・8掛け・2割引き〟の世界。残滓がいっぱい残った状態で、三井不動産本体が最後は尻拭いして、約3000億円の赤字決算を出した(1998年度)。
このあと三井不動産投資顧問に出向といった具合に、様々な仕事を経験。
1990年代初めのバブル崩壊から30年余。この間、不動産業界は『不動産の証券化』を取り入れ、事業の質を変えていく。同社では前会長の岩沙弘道氏が社長在任中(1998年から2011年まで)に不動産の証券化を推進。
不動産と金融の融合で、不動産開発の資金調達に際し、間接金融(銀行からの借り入れ)に頼らず、直接金融で、自ら市場で資金調達できる方途を開発。REIT(リート、不動産投資信託)の市場創設などに動いた。
そして、岩沙氏のあとを受けて社長に就任した菰田正信氏(社長在任2011―2023)は土地などの資産を『保有するから活用するへ』の考えの下、〝アズ・ア・サービス〟ということで、『サービス産業としての不動産業』を推進。『東京ミッドタウン』などの街づくりを進めた。
苦境の中から立ち上がる─。色々体験してきて、感ずることとは何か?
「供給するサイドとして、供給するだけではなくて、需要を創造していくことに尽きます」
植田氏が続ける。
「ある時、東京・練馬の物件を買われた方がいて、非常に高買いされているんですね。なぜ、そんなに高く買ったのと、仲介した業者さんに聞いてもらったんです。すると、買ったアニメ会社のトップが『練馬はアニメの聖地なんです』と答えられたと。その会社からすると、もうそこにいないといい仕事ができないと。値段じゃないんですというお話でした」
聖地をつくる─。そこにいないといけないという思いが、事業の付加価値を高める。「産業デベロッパーの使命と役割」を深堀りする時である。
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