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三井不動産・植田俊社長に直撃!「異なる分野同士を交ぜ、つなぐ役割を発揮し、日本でイノベーションを起こしていきたい」

財界オンライン / 2023年5月8日 11時30分

植田俊・三井不動産社長

「我々はイノベーション、付加価値、産業競争力を高めるお手伝いをするプラットフォーマー」と話す、三井不動産社長の植田俊氏。不動産会社ではあるが、オフィスに入居する企業の事業をさらに活性化させるためのサポートをするのが重要な使命だという認識。それがひいては日本全体の競争力につながるという思い。「もう一度、リスペクトされる日本に」という植田氏が目指すものとは─。


産業競争力を高めるプラットフォーマー

 ─ 今は経済の先行きが不透明な混沌とした時代です。時代の変化に合わせて事業の姿を変えてきた三井不動産ですが、植田さんは社長として、現在の事業をどう定義していますか。

【あわせて読みたい】三井不動産「東京ミッドタウン八重洲」の〝丸の内にない魅力〟とは何か?

 植田 私は我々のビジネスを不動産デベロッパーというよりも、イノベーション、付加価値、そして産業競争力を高める。そうしたお手伝いをするプラットフォーマーだという位置づけをしています。

 我々の過去の歴史を紐解いても、高度経済成長期には工業用地が足りない中で埋め立て事業に進出して社会の要請に応えましたし、その後ホワイトカラーが働くべき場所が必要だという時には「霞が関ビル」を始めとした超高層ビルを他社に先駆けて造ってきました。

 ─ 今は東京・日本橋で新たにイノベーションを起こすための取り組みを進めていますね。

 植田 ええ。日本橋には「ライフサイエンス」関係の企業が約160社集まっており、そのうち100社近くがスタートアップです。お陰様で今、大きなコミュニティになっています。

 さらに今年、新たに「宇宙」をテーマに取り上げ、2月には宇宙関連産業を活性化させるオープンプラットフォームとして一般社団法人「クロスユー」を設立しました。この活動ではJAXA(宇宙航空研究開発機構)さんとも連携し、五街道の中心である日本橋から、6本目の街道を宇宙にという思いで取り組んでいます。

 ライフサイエンスも宇宙も、世界中の人類が抱える課題です。この分野は総合力を必要とする産業ですが、我々はそこに着目して、先程申し上げたイノベーション、付加価値、産業競争力を付けるための前向きな取り組みのお手伝いをしようと。

 この発想において、私は日頃から「妄想、構想、実現」という言葉を言っています。今、日本に特に欠けているのは、「こんなことができたらいいな」という「妄想力」です。

 私の好きな言葉は、19世紀のSF作家で『海底2万マイル』などの作品を書いたジュール・ヴェルヌが言った「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」という言葉です。


深い専門領域の間を埋める「ジェル」のような役割

 ─ ライフサイエンスや宇宙といった分野は、国力に直結する産業だと思いますが、植田さんは日本の強さをどう考えていますか。

 植田 日本はまだまだ基礎的な技術力があります。特にライフサイエンスで言えば、様々な分野が細かく分かれていますが、それぞれ深いところに素晴らしい技術を持っています。

 今回のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)もそうですが、元々日本はスポーツでもチームプレーが得意だと思います。にもかかわらず、今はそれぞれの分野が非常に分断して存在していて、分野同士の交わりができていない。

 欧米の方が業界、業際を超えてコミュニケーションを取る場、コミュニティをつくることに努力してきた結果として、産官学を含めて、分野同士のクロスオーバーが進んでいます。

 ─ 日本は異なる分野同士の交ざり合いができていないと。

 植田 ええ。例えばライフサイエンスと一言で言っても医学的な領域から、ICT(情報通信)、DX(デジタルトランスフォーメーション)、AI(人工知能)を活用するテック的な分野などいろいろなものがあります。

 やっと日本でも今、それが交ざり始めてきましたが、非常に劣後してきたと。本来強いにもかかわらず、総合力として強くなりきれていないということが、非常に課題だと思います。

 我々が日本橋で取り組んでいるLINK―J(一般社団法人ライフサイエンス・イノベーション・ネットワーク・ジャパン)も、皆様に可愛がっていただいています。それは我々自身が薬をつくることも医療をすることもありませんが、深い専門領域の間を埋める「ジェル」のような役割を果たしているからだと思っています。

 皆さんを交ぜ、つないでいく役割として、今まで存在していなかった存在だという形で、非常に重宝していただいているのだと考えています。


東京の強さ、そして地方の掘り起こし

 ─ インテグレーターのイメージですね。植田さんは、この日本橋での取り組みを主導してきたわけですが、現在の手応えは?

 植田 手応えはあります。逆に皆さん、こういうコミュニティに飢えていたと思うんです。もう一つ、面白かったのは、コミュニティができてくると、「もっとこういうものが欲しいんだ」という声が、そのコミュニティの中から出てくることです。

 その一つが「ラボ」です。これは研究所、研究施設ですが、従来は大手の製薬会社さんが、地方などで閉じられた研究所の中で、ある種「秘薬」をつくって、その特許で十数年間、利益を上げるというようなビジネスモデルでしたが、今は3万分の1の確率と言われるなど、なかなか新薬ができないんです。

 米国では、それをどうやって解決しようとしていたかというと、スタートアップを含めたオープンイノベーションです。ということは、地方で閉じられていてはいけないんです。都心で、しかも身軽に動ける賃貸型の「ウェット・ラボ」が必要とされ、米国では一般的になっています。

 これまで日本にはありませんでしたが、我々が提供したところ、供給が需要を引き出すような形になりました。今、国内では柏の葉、葛西、新木場で展開していますが、非常に好評です。

 単にハードをつくるだけではなく、コミュニティと一体になって、皆さんがお互いに混じり合って成長していける形にならないと発展はないと思っていますが、今我々はその両輪を持って取り組むことができています。

 ─ 日本全体の産業競争力を引き上げるという観点では、どういう考えを持っていますか。

 植田 もちろん我々は地方でも様々な取り組みをしています。ただ、日本は新たに産業を起こしていくメカニズム自体が非常に弱っているという課題があります。これは「東京一極集中」対「地方」という構図の中で語るべきではないと思っています。

 ある意味では日本の強みであり、東京の強みは「集積」です。東京には国際競争力があるということは忘れてはいけないと思うんです。また地方では「コンパクトシティ」という言葉がありますがエリア単位であるまとまりをつくることが重要になります。

 例えば、我々は米国でニューヨークやサンフランシスコといった東海岸、西海岸だけでなく、「サンベルト」という北緯37度から少し下のダラスやアトランタで住宅などを手掛けていますが、この地域も非常に人が増えてきています。

 その中にはジョージア工科大学がキャンパスを開いてオープンイノベーションを進めています。これによって卒業生がそこにとどまるんです。ニューヨークやサンフランシスコに比べて給与は7割くらいでも、生活費が5割程度と安い。しかも様々なエンターテインメントが存在しています。

 こうなると地元に産業やエンターテイメントがあるということで高度人材が自分の活躍の場を見出すことができるようになり、居続けてくれるのです。こういった一つの「産官学」、あるいは「産公学」、地方自治体との特徴ある連携を進めていくことが大事になります。

 また、当然インバウンド(訪日外国人観光客)をいかに集めるかという要素では、それぞれの地方で特徴があると思います。米国の例では人口が増えていることが大きいですが、人口が減ることを前提とするのであれば、地方の拠点拠点で産業の集積を持ちながら、観光業もその中に位置づけていくことが重要なのではないかと思います。


「不動産証券化」の入り口に立って

 ─ 植田さんは本社のみならず、様々な子会社で幅広い経験をしてきましたね。

 植田 最初は横浜営業所、リゾートでは地方にいましたし、三井不動産ファイナンスや三井不動産投資顧問といった子会社への出向もありましたから、本社にいたことがほとんどなかったんです。

 三井不動産投資顧問では当時三井不動産社長の岩沙弘道(現相談役)が旗振りをしたREIT(不動産投資信託)など不動産証券化の実行部隊でした。例えば、日本ビルファンドは01年に日本で初めて上場したJ︱REITでしたが、この立ち上げの前段階に携わりました。

 また、東京・六本木の「東京ミッドタウン」では、投資家の資金を導入しましたが、この投資家さんを集めてくる仕事に携わりました。この仕事では、様々なファンドを立ち上げたり、投資家さんとお付き合いをさせていただいたりという貴重な経験をさせてもらいました。

 ─ この証券化というのは、不動産の新しい道を開拓したということが言えるわけですね。

 植田 かっこよく言えばそうです。ただ、1990年代後半の日本の金融危機の中で、不動産は値下がりをし続けて、買い手がいない状態になり、不動産が文字通り動かなくなりました。

 この動かなくなった不動産をどう動かすかという一つの手法として証券化がありました。当時、米国にREITやセキュリタイゼーション(証券化)というスキームがあるらしい、ということを小耳に挟んだところからスタートしたんです。

 米国から直輸入した本を読みながら、証券化や、エクイティ(株式発行)とメザニン(借り入れとエクイティの中間)とデット(普通社債や借り入れ)に分けて考えるという手法を学ぶのが非常に新鮮でした。これらが、どういったルールの下にできているのかを一生懸命勉強してスタートした記憶があります。

 後に破綻した日本長期信用銀行(現SBI新生銀行)系のノンバンク、日本ランディックから10物件ほどまとめて購入して証券化を手掛けたことがあります。スキームとしては非常に高度なもので、当時「小学生が大学受験をした」と言われました(笑)。一生懸命ノウハウを吸収した時代だったと思います。

 ─ 新たな可能性を追求した時代だったと。

 植田 そう思って取り組みました。ただ、証券化にも功罪があります。08年にリーマン・ショックが起きましたが、発端となったサブプライムローンは、まさに証券化で、低格付けのものを商品の中に混ぜ合わせて組成したものです。

 そうした商品が世界中にばら撒かれた結果としてリーマン・ショックが起きたと。

 証券化は、様々な性格の資金を持った人たちが不動産投資に参入できるという意味では道を開いたという意義があります。ただ、それが行き過ぎるとバブルの一つの道具として使われて、大きな傷跡を残すという面もあるのだと思います。

 ─ その後は主力のオフィスビルで責任者も務めますね。

 植田 16年にビルディング本部長に就任しました。当時は20年の東京オリンピック・パラリンピックまでに相当なボリュームの貸床ができるという見通しがありました。これは六本木の「東京ミッドタウン」の3個分より少し広いくらいです。

 これを3~4年で埋めるという、当社では経験したことのないミッションでしたが、その後の「働き方改革」やアベノミクスによる企業業績の好調もあり、多くの企業に我々の付加価値をご理解いただいた賃料でご入居いただくことができました。

 その時感じたのは、供給するだけでなく需要を創造することの重要性です。限られたパイの中で奪い合いをするだけでは、縮小均衡に近い負のスパイラルになってしまいます。

 ─ 日本橋で手掛けてきたような「聖地」をつくることも、需要創造の一つですね。

 植田 薬の街である日本橋を、さらに大きく広げてライフサイエンスの聖地にしていきましょうというところから始まりました。その思いに地の利、時の利、人の利という3つの利が揃ったのだと思います。

 私は日本が好きですし、いい時代の日本を経験していますから、やはり世界に負けたくありません。ビジネスで、もう一度リスペクトされる日本にしたいという気持ちを持っています。

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