【母の教え】手塚正彦・日本公認会計士協会前会長(会計教育研修機構理事長) 「情熱を内に秘め、信念をぶらさない母の姿がわたしの生き方にもつながって」
財界オンライン / 2023年5月1日 18時0分
企業や非営利組織の不祥事が頻発する中、「コーポレートガバナンス」が叫ばれ、その役割を増している公認会計士。全国3.3万人の会計士を束ねる日本公認会計士協会の会長を務めた手塚氏はケガや大病を患った〝波乱万丈〟の少年期を送った。そんな手塚氏を支えたのが母の量子さんだった。根っからの人好きで働き者。そんな母から手塚氏は会計士にも通ずる姿勢を学んだという。
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小学校の教師だった母
振り返ってみると、根っからの人好きで働き者─。長野県上田市出身の昭和5年生まれの母・量子を一言で言い表すと、こんな女性だと思います。母は90歳を超えた今も元気ですが、自ら人と交流しようとしなくとも、自然と人を惹きつける人でもありました。
母の実家は農家で、7人きょうだいの次女。上田でリンゴをはじめ、米や桑も育て、貯水池には鯉も飼っていました。幼い頃から家事を手伝いながら、両親に代わって弟妹の世話をしていたそうです。
それでも勉強に一生懸命だった母は、松本の師範学校を卒業後、信州大学に進学。大学を卒業すると小学校の教師となりました。今でも毎年、教え子から母宛に贈り物が届いたりします。それだけ生徒からも慕われる教師だったのでしょう。
教師を辞めて富士通のエンジニアだった父・勝已と結婚した母は、兄とわたしが幼稚園を卒園するまでとにかく子育てだけに身を捧げてくれました。時は1960年代の高度成長期です。真面目で仕事一筋だった父はますます多忙となり、わたしが小学3年生になる頃には栃木県小山市に単身赴任に。家のことは母が一手に担いました。
そんな母から冒頭のような人柄を感じたのは、わたしが小学校に進学してからでした。母は自ら料理学校や洋裁学校に通い出したのです。もともと料理や手芸、裁縫などが好きだったのでしょう。これらの習い事は15~16年は続けていました。
セーターなどの兄とわたしの洋服は、ほとんど母が作ってくれました。また、料理も最高で、ハンバーグからカレー、さらにはグラタンなど、母の手料理を毎日楽しみにしていました。まさに手づくりの愛情を注いでくれたのです。
ちなみに、母の料理好きについては、それが高じて自宅で料理教室を開くほどでした。これは自分で始めたのではなく、周りから料理教室をやって欲しいというお願いを受けて始めたもの。とにかく母には自然と人が集まってくる。そんな不思議な魅力がありました。
人を惹きつける母の性格はPTAでも発揮されました。もともと教師をしていたということもあり、周囲からPTAの役員に推された母は、1年間の約束だったのに、請われて3年間務めました。副会長にも就き、大人数の保護者と教師とのパイプ役となっていました。
また、PTAで知り合った洋裁の上手な友達に勧められて始めたのが服飾・ファッション専門学校の文化服装学院の通信教育。卒業式では総代として約600人の学生の前で答辞を読み上げました。折しも家の改築中で、昼間は職人の応対に追われ、夜通しで答辞を書き、完成は朝の5時だったそうです。
働き者という観点では、知り合いから頼まれて内職の手伝いにも精を出していましたし、友達に誘われて近所のアパレルメーカーの倉庫でパートとして働いていました。10年間ほど続けていましたが、自分で稼いだお金で友達と旅行に出かけていました。
さらに驚いたことに、1984年からコロナ禍の2021年までボランティアを続けていたのです。しかも、一人暮らしの高齢者と食事会をするというもの。自分の特技を社会に役立たせていたのです。50代になってから始めたわけですが、自身が高齢者になっても、37年間もずっと続けていたのです。
教育者だった母ですが、兄やわたしに「勉強しなさい」と言ったことはほとんどありません。やりたいことはやらせてくれました。おっとりとした長男の兄と違って、わたしは典型的な次男坊。母にはとかく心配をかけました。わたしはスポーツが得意だったのですが、このスポーツを巡っては母の心配の種が尽きることはなかったと思います。
小学校から野球を始め、小学4年生でレギュラーになりました。そこそこの腕前だったこともあり、本気で野球選手を目指していました。超一流は無理でも一流半ぐらいにはなれるのではないかと(笑)。小学5年生の終わりには地元の少年野球で「オール横浜」のメンバーに選出されました。ところが直後に、右肘を痛めて投げられなくなりました。
このときは、もらっていたユニフォームをなかなか返しに行けないほどショックでした。長年、どろどろのユニフォームをいつも洗ってくれていた母は、夢を絶たれたわたしのしょんぼりした姿を見て、心を痛めていたと思います。それは子どもながらに感じていました。
母にかけた心配はこれで終わりではありませんでした。野球を諦めたわたしが6年生で出会ったのがサッカー。こちらもそれなりにできたものですから、ずっとサッカーをやりたいと思って頑張りました。
すると今度は中学3年生のときに特発性腎出血という病に見舞われたのです。医師からは腎不全や人工透析になる可能性もあると宣告。母も心配して効果のある漢方薬を調べて飲ませてくれたり、食事も減塩のメニューにしてくれたりしました。
お陰で一度は病気が治ったと思ったのですが、高校2年生の全国大会の予選のときに再発。無理をして大会に出場し続けたのですが、試合に負けてしまった上に、再発した病気は慢性腎炎になっていました。結果として大学生になってもやりたかったサッカーの道は絶たれました。
会計士の使命に通じる生き方
就職でも母に心配をかけました。大学の卒業を控え、就職活動を始めようと、主治医に就職について相談をすると、「病気は完治していないので、激務は控えなさい」と言われました。そして「何か資格を取ってみたらいかがですか」と言うわけです。それで数ある資格の中で、わたしが目指したのが公認会計士でした。会計士は合格率も低い狭き門。さぞかし母は不安に思ったことでしょう。ただ、「やめなさい」といった後ろ向きの言葉を言ったりはせず、静かに応援してくれました。
会計士試験に合格した後、中央会計事務所に入所し、病気も完治して順調に会計士人生を歩んでいました。2002年には中央青山監査法人の代表社員にもなることができました。ところが、05年に中央青山が監査を担当していたカネボウで粉飾決算事件が起きました。
このときわたしは監査法人の理事となり、危機対応のために、週に3日はオフィス近くのホテルに泊まる激務を1年半続けました。しかしながら、努力の甲斐なく07年に法人は解散を余儀なくされました。きっと、母はとても心配していたと思います。
19年に日本公認会計士協会の会長に就任したことを報告したときも、喜んでくれる一方で、「大丈夫なの?」と、会長の重責を担うわたしの身を案じてくれました。考えてみると、会計士協会の会長に推されたのは、人とフラットにつき合い、レッテルを貼らずに公正な目で人を見る自分の姿勢が認められたからではないかと思いました。そしてそれは誰とも分け隔てなく付き合う母の後ろ姿を見て自然と身についていたような気がします。
母は私に、「~しなさい」とは言いませんでしたが、嘘をついたり、人に迷惑をかけたりしたときには、厳しく叱りました。母は「イエスは誰にでも言える。ノーと言える男になりなさい」という思いで、わたしたち兄弟を育ててきたそうです。奇しくもわたしは、ダメなことにはっきりとノーと言わなければならない会計士となりました。
一方で、生き物が好きなわたしに縁日で売られていたヒヨコを買ってきて鳥小屋で飼うことを許してくれたり、犬好きな兄と私のために、こっそり子犬をもらってきてサプライズプレゼントしてくれたりと、子どもたちには惜しみない愛情を注いでくれました。
情熱を内に秘め、信念をぶらすことなく生きる母を心から尊敬しています。これまで本当にありがとう。そしていつまでも元気でいてください。
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