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【母の教え】堀切功章・キッコーマン会長CEO「母の口癖は『働かざる者食うべからず』。聖書に由来する勤労精神という基本軸を学びました」

財界オンライン / 2023年5月22日 11時30分

堀切功章・キッコーマン会長CEO

食卓に欠かせない「しょうゆ」。そのしょうゆを中心に海外売上高が約7割に上るキッコーマン。同社は1917年に千葉県の野田や流山の醸造家8家が合同して誕生した。堀切家もその1つ。長男や夫の死を乗り越え、先祖代々の「家」を守ることに身を捧げた母の後ろ姿から堀切さんは生きるための指針を学んだという。

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家業を陰で支えた母

 昭和の良妻賢母─。わたしから見る母・糸子の印象です。母は大正13年5月13日生まれ。実家は良質な水が湧き出る千葉県の酒々井町にあり、母は清酒「甲子正宗」ブランドで江戸時代から続く造り酒屋の飯沼本家の長女でした。

 母方のわたしの祖母は病弱だったようで、母が酒蔵の台所を切り盛りしていたようです。今は変わったかもしれませんが、それこそ当時は清酒の仕込み時期になると、各地から杜氏の人たちが仕込みに来ていました。

 ですから毎年、新酒の仕込みから出荷までの半年間、飯沼家には大勢の人が住み込みで働いたわけです。そうした人たちの食事の世話などをしなければなりません。祖母に代わって母がその中心的な役割を担っていました。

 そんな母は東京家政学院を卒業しました。学生時代から成績も良く、スポーツでも卓球の選手として活躍していました。わたしが子どもだった頃は、家の裏に卓球小屋があり、わたしも母やきょうだいと、よく卓球をしていました。父・紋次郎は戦争で足をケガしていたので、一緒にやった記憶はあまりありません。ただ、父も若い頃は水泳やアイスホッケーの選手として活躍していたそうです。

 母は真面目で意思が強く、わたしにとっても人間として学ぶべきところが多くありました。わたしにはきょうだいが5人おり、わたしは次男でちょうど真ん中。父が子どもをたくさん欲しがったと聞いています。家が栄えるためには、まずは家族が多くないといけない。そんな思いを持っていたようです。

 母が堀切家に嫁いだのは戦後の昭和22年のことです。堀切家も江戸時代から千葉県流山で、みりんやしょうゆの醸造を手掛けていたため、わたしが子どもの頃は屋敷も工場の中にあり、工場で働く従業員とは家族のような関係でした。よく従業員の子どもたちも家に呼んで一緒に遊んだりしていました。キッコーマンの創業8家の各家には家訓があり、そこには必ず「従業員を家族と同一視しなさい」という内容が入っています。ですから、その精神は当時から脈々と受け継がれているわけです。

 母は太平洋戦争の不遇な時代に育ったので、料理や裁縫など何でもできる人でした。ですから、家のことは家族で分担してやることが当たり前で、わたしもよく家事を手伝わされました。母の口癖は「働かざる者食うべからず」。食べるためには子どもであろうと分相応に働きなさいという考えでした。




 わたしの担当と言えば、薪割り。みりんやしょうゆを入れていた木箱を斧で割り、その薪をくべてお風呂を沸かしたり、かまどでご飯を炊いたりしていました。それ以外にも自宅の裏庭には畑があり、鶏も飼っていたので、トマトやきゅうり、トウモロコシ、イチゴの収穫といった農作業や鶏の餌やりなどを子どもたちで分担してやっていました。

 そんな自宅での手伝いができたのは小学校進学前まで。兄も姉も、そしてわたしも小学校は東京にある慶應義塾幼稚舎に通ったのです。流山の自宅から通うことは無理なので東京に家を借りました。そしてここで〝もう1人の母〟とも言うべき人にお世話になったのです。当時の堀切家のお手伝いさんの1人で、我々の衣食住の面倒を全部見てくれました。

 この熊井ゑいさんは流山市の八百屋の娘さんで、若い頃から堀切家に住み込みで働いてもらっていました。わたしたちのことを実の子どものように育ててくれまして、わたしたちは彼女のことを「ばあや」と呼び、母も「おえいさん」と呼んで全幅の信頼を寄せていました。

 ですから、小学生になると母に会うのは週末だけ。こちらが流山に帰るときもあれば、母が上京してくれるときもありました。先ほど申し上げたように母は学業も優秀だったので、子どもたちに対しての教育にも熱心でした。兄と姉はピアノ、私はバイオリンのレッスンや英語教室にも通いました。

 母も子どもと離れて暮らすのは寂しかったのでしょう。週に何回かは東京に来ていました。母が来るとピアノのレッスンなどを夜中までやるので、兄や姉は大変だったと思います。母が来てくれるのは嬉しかったのですが、寝ている真横での練習でしたので、なかなか眠れませんでした(笑)。

 ところが堀切家に悲劇が襲います。兄が高校1年生のときに急性心不全で急逝してしまったのです。バドミントン部での練習が終わり、整理体操をしているときに倒れてしまった。兄は跡取りとして育てられていた人でしたから、母も期待していたのです。それだけに父も母も大きなショックを受けていました。

 私からすると兄はとても真面目で少し神経質なところもありましたが、すごく勉強家でした。跡取りにふさわしい兄だったので、父の期待も大きく、兄に対してはすごく厳しかった。それを横目で見ていましたので、兄とは絶対にケンカをしませんでした。怒られるのは兄だからです。わたしが悪くても怒られるのは必ず兄だったのです。

 兄の死後、父の厳しさが自分にくるのかなと思ったのですが、それはほんの3カ月ほど。その後はマイペースな生き方を許してくれていました。高校も大学も自由にさせてくれましたし、父から「跡を継げ」と言われたことは一度もありませんでした。

 そんな兄の死は母にも大きな影響を与えました。母は自ら立ち直るためにキリスト教に入信。千葉県の松戸にある教会に通って洗礼を受けました。キリスト教の教えでは、死は神のもとへ祝福されていくという考え方です。ですから、兄は亡くなっても神のもとに召されたということになります。兄は死後洗礼で洗礼名を受けました。

 また、父も肝臓癌で入院をしているときに病院で洗礼を受けました。これも母が希望して父が承諾したからです。ですから、今は親子3人で同じキリスト墓地で眠っているのですが、その墓碑は習字の師範でもあった母が自分で書きました。『私たちは新たな命のうちに歩む』と。

 母は2008年に84歳で亡くなりました。息子を早くに失くし、夫も自分が40代半ばで死去。その時、姉やわたしはまだ学生でしたから、4人の子どもを抱えながら家を守っていくのは大変だったと思います。それだけ非常に芯の強い人だったのだと思います。




 母から教わったことは「自立」です。わたしは大学時代にスキー同好会に入り、スキー三昧の日々を送りました。合宿も1カ月にわたるものですから合宿費が馬鹿にならない。しかし母は、学費は出してくれましたが、「それ以外のことは自分で何とかしなさい」という方針でした。

 ですから、合宿費やスキー用具などに充てるお金は自分で工面するしかありませんでした。そのためアルバイトをずいぶんやりました。デパートの内装工事やビルの解体、家庭教師、夏休みはデパートの配送センターなどです。様々な労働現場を知るという点では非常に大きな経験となりました。お陰で社会に出てからも役に立ちました。

 わたしは現場主義で、どんな仕事をするにしても全ての答えは現場にあるとしているのですが、その考えはこの原体験があるからかもしれません。ただ母からは「あんた、いつ勉強しているの?」と言われていましたが(笑)。

 自分に人生を捧げてくれた母が2人いた─。このことは自分にとっても大きな幸せだったと思います。晩年は、ばあやも流山に戻り、母と一緒に暮らしていました。母にとっても心の許せる人と共に過ごした日々は幸せだったと思います。

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