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オリエンタルランド取締役会議長・加賀見俊夫の「夢を持ち、常に事業を変化・進化させていく」

財界オンライン / 2023年9月6日 7時0分

加賀見俊夫・オリエンタルランド代表取締役・取締役会議長

企業経営には試練が付きまとう。そうした試練を乗り越えてこられたのは、「夢を持ち続けてきたから」とオリエンタルランド代表取締役・取締役会議長の加賀見俊夫氏。東京ディズニーランドが開業したのは1983年(昭和58年)。以来40年が経つ。この間、東京ディズニーシーの開業を含め、日本最大のテーマパークに成長。オリエンタルランドの実質創業者と言っていい髙橋政知氏(同社2代目社長)も「日本に本格的なテーマパークを」と夢を持ち続けた人。今から60年前の会社創設から髙橋氏の右腕として行動を共にしてきた加賀見氏は「髙橋さんという存在がなかったら、今の当社はありませんでした」と述懐。創立間もない頃、資金不足になれば、自らの家屋敷を担保に資金を調達。担保流れで自宅を手放す事態にも遭遇。その後、新しい産業発掘に熱心な日本興業銀行(当時、現みずほフィナンシャルグループ)は中山素平・会長(当時)ら首脳陣が支援。人と人のつながりがあっての同社発展である。時代の転換期にあって、テーマパークの役割とは何か─。

テーマパークを創るという『夢』こそが・・・

 東京ディズニーランド(TDL)がオープンしたのは1983年(昭和58年)4月15日。今年、2023年は開設40周年に当たる節目の年。

 そのTDLを運営するオリエンタルランドの経営に会社設立(1960年=昭和35年)からずっと携わってきた加賀見俊夫氏(代表取締役・取締役会議長)は次のように今の気持ちを語る。

「土地造成の時代を含め、しょっちゅう右往左往してきた企業ですが、TDL、東京ディズニーシー(TDS)などのテーマパーク、イクスピアリといった商業施設やホテルなどの宿泊施設をつくってきました。なぜ、この会社がここまでやって来られたのかという経緯を言えば、やはり夢を持ち続けたということですよね」

 TDL、TDSは日本を代表するテーマパークとして成長。

 オリエンタルランドは米ウォルト・ディズニーと提携、そのノウハウや知的所有権使用の対価を払いながら、TDLを開業。そして、早くも5年後には、『海』をテーマにしたTDSの事業化構想を打ち出した。

 米ウォルト・ディズニーは自分たちの事業コンセプト(概念)にはないものだからと、当初、TDSの事業化に反対。

 しかし、当時の社長、髙橋政知氏(1913-2000、オリエンタルランド2代目社長)は「日本は四方を海に囲まれた国。日本は日本らしいコンセプトで勝負したい」と米側の説得に取りかかる。両社の間には一時、冷やかな空気が流れた。

 欧州をはじめ、世界規模でテーマパークを運営する米ウォルト・ディズニーもこの髙橋氏の訴えを最終的に受け容れた。

 その国独自のコンセプトで一大テーマパークを創り上げるのは世界のディズニーでは初めてのことであった。

 加賀見氏は、オリエンタルランド設立(1960)から、髙橋氏の右腕として働き、苦難も共にしてきた。加賀見氏はTDL開業当時は常務として髙橋氏を補佐。

「髙橋さんがいなければ、この会社は存在できなかった」と加賀見氏は述懐する。

 TDLができてから40周年だが、オリエンタルランドとしてはテーマパーク事業を始める前に、実に20年余に及ぶ土地造成という難事業を抱えてきていた。

 東京の東部・葛西地区とは江戸川を挟んで対岸になる千葉県浦安市。その浦安市の東京湾に面する遠浅の海岸地区の埋め立てを計画するところから事業は始まった。

 事業は、『天の時』、『地の利』、『人の和』の3要素に強い影響を受ける。


『天の時』、『地の利』、そして『人の和』があって

 まず、『天の時』としては、開園時が1983年(昭和58年)で、日本は2度目の石油ショックを体験し、製造業中心の〝重厚長大〟経済から、〝ソフト・サービス〟経済への転換が始まろうとしていたとき。いわば、〝経済のソフト化〟へのトバ口に差しかかっていた時期である。

『地の利』は、浦安・舞浜地区はまさに東京に隣接し、首都圏の消費者人口のみならず、全国から顧客を集められるという立地条件であること。現に、JR京葉線で、東京駅から舞浜駅までの所要時間は20分弱と非常に近い。地下鉄・東京メトロ『有楽町線』を使えば、新木場駅でJR京葉線に乗り換えて2駅目ということでアクセスが便利。

『人の和』ということで言えば、「この会社は夢から始まった」と加賀見氏が語るように、まず実質創業者の髙橋氏自身が夢を持つ事業家だったということ。

 髙橋氏は1913年(大正2年)生まれで2000年(平成12年)に86歳の人生を閉じるが、まさにTDLの生みの親と言っていい存在。

 旧制山形高校を経て、東京帝国大学(現東京大学)法学部出身の髙橋氏は父君が戦前、台湾総督を務めていたという人物。「本当に豪放磊落な人、そして公私にけじめをつける人でした」と加賀見氏。

 オリエンタルランドは、千葉県と東京都がエリアの京成電鉄と三井不動産、そして朝日土地興業の3社出資で1960年(昭和35年)に設立。朝日土地興業は後に三井不動産が吸収し、京成と三井両社が大株主としてオリエンタルランド社の経営を進めることになった。

 当時、京成電鉄社長の川﨑千春氏(1903-1991)と三井不動産社長の江戸英雄氏(1903-1997)は旧制水戸高校の同窓という間柄。オリエンタルランド社の初代社長は川﨑千春氏が務めた(在任期間は1960年から1977年まで)。2代目社長として登場するのが髙橋氏である。

 江戸氏が、「この仕事に打ってつけの人物がいる」と川﨑氏に紹介したという話が伝わる。

 もともと、ディズニーランドを日本に誘致しよう─という発想を打ち上げたのは川﨑千春氏。

「川﨑さんは、一族が芸術家揃いで、川﨑さん自身もバイオリンを弾かれるし、油絵も天下一品のものを描いておられました」と加賀見氏が言うように、川﨑氏自身も『夢』を持つ経営者であった。

 ちなみに、川﨑氏の従兄は有名画家の川﨑小虎。小虎の長女・すみの夫が東山魁夷という画家が家系を連ねる。

「日本の子どもたちに、夢を与えたいと思ってのテーマパークの発想ですね」と加賀見氏。

 川﨑氏は、谷津遊園にバラ園を造ろうと、米国にバラの種木を買い付けに出張。その途次、フロリダのディズニーランドを見学し、「ああいうテーマパークを日本にも」と感じ入ったという。


人と人のつながり

 人と人のつながりということで言えば、加賀見氏は慶應義塾大学法学部を卒業して、1958年(昭和33年)京成電鉄に入社。

「入社試験時に、当時専務の川﨑さんとの出会いは、その時が初めてでした。そこで、川﨑さんから変な質問を受けたんですよ」と加賀見は振り返る。

 もともと川﨑氏は経理畑を歩いた人物。それもあってか、面接の時に、「君、為替手形と約束手形の違いは分かるか?」と質問してきたというのである。

 加賀見氏は法学部出身でもあり、学生時代にそういう事は勉強していないので、正直に「分かりません」と答えた。

 このやり取りで、すっかり自分は不合格だなと観念していたら、後日、「合格」の通知が家に届いた。

 入社して半年間は駅での現場研修。押上駅、船橋駅のトイレ掃除までやり、京成電鉄での生活が始まった。

 もし、加賀見氏が直観したように不合格であったならば、今の加賀見氏の人生はなかったわけで、人と人の出会いは実に機微で、人の縁には不思議なもの、奥深いものがあると感じさせられるエピソードである。

 半年の研修が終わると、配属先は経理課だった。

「ああいうやり取りをしたのに、配属先が経理だなんて、川﨑さんはひどい人だと思いました(笑)」。そして「なぜ、自分は経理課なのか?」と当時の人事部長に訊ねると、次のような答えが返ってきた。

「新卒の配属で文句を言ってきたのはお前が初めてだと言われましてね。そして、一番会社の内容が分かるのが経理だと。だから、一番初めに勉強するために配属したんだ」

 そう言われて、加賀見氏は発奮し、「それなら経理のベテランになろう」と東京・神保町の村田簿記学校へ通い始めた。

 月・水・金の週3日、講座を受けるために仕事が終了次第、通い続けた。

 都合3年間の簿記学校通いだったが、このことはのちのち、オリエンタルランドで経理担当になった時に随分と役立つことになる。

「だから、(東京湾の)埋め立て工事が始まっても、経理の知識でいろいろ判断できましたね」と加賀見氏は語る。

 加賀見氏が京成電鉄に入社して、その後の人生を決める出来事が次々と起きる。

 テーマパークを運営するオリエンタルランドは、先述のように、1960年(昭和35年)の設立。加賀見氏が京成電鉄に入社して2年が経ち、3年目を迎えた時のことである。

「オリエンタルランドに行ってくれ」─。東京湾にテーマパークをつくる、そのために埋め立ても行うということでオリエンタルランドは設立された。まだ、テーマパークという言葉はあまり使われていない時代である。

 このオリエンタルランドの経営に髙橋政知氏が専務として参加してくる(1961)。

 ここで加賀見氏は髙橋氏と初めて会う。豪放磊(らい)落、曲がった事は大嫌いという一本筋の入った髙橋氏の人となりに、加賀見青年はたちまち心酔。

 日本に本物のテーマパークをつくろうという夢を持つ髙橋氏と会い、「この人に付いていく。髙橋さんのために、全部捧げよう」と一心同体で臨むことを決意。

 ここで加賀見氏は、京成電鉄からの出向というポジションを捨て、オリエンタルランド社員になることを決断。

 この転籍に、両親をはじめ、周囲は猛反対。

「ええ、京成電鉄は安定した会社だ。オリエンタルランドはいつ潰れるか分からない会社。そんな会社にどうしていくんだと言われましたけれど、やる以上はもう全身全霊でやろうと」

 この時の決断を加賀見氏はこう振り返るが、髙橋氏との出会いがこの決断を促した。


開園前20年に及ぶ埋め立て事業に没頭

 加賀見氏は1936年(昭和11年)生まれだから髙橋氏とは23歳の差。親子ほどの年の差ということで、2人の関係もうまくいったと言える。

「髙橋さんは夢がある人。強引で、お父さんの血を引いているんですよ」と加賀見氏。

 オリエンタルランドは今でこそ、わが国最大のテーマパークを運営する会社ということだが、会社設立から20年間は東京湾の埋め立て事業一筋の会社。

 髙橋氏と加賀見氏の〝親子コンビ〟の仕事は、この浦安の漁民たちとの交渉から始まる。漁業関係者の生活がかかる漁業権買い取りといえば、難交渉である。

 その交渉を2人は粘り強く関係者と対話しながらまとめ上げていった。豪放磊(らい)落ながら、人への気配り、目配りを絶やさない髙橋氏、そして経理畑を歩み、めんみつ緻密に丁寧に仕事を進める加賀見氏という役割分担での仕事の進め方。

 漁業関係者との対話は、酒を交えてのものになる。話を盛り上げるのは酒豪の髙橋氏の仕事。一方、下戸で酒の飲めない加賀見氏は沈着に対話を進め、その進行記録を頭の中にきちんと留めおくのが仕事。


資金調達では散々な苦労

 埋め立てに20年の歳月をかけて、次はいよいよテーマパーク建設ということだが、難交渉の末、米ウォルト・ディズニー社との提携交渉がまとまったのが1979年(昭和54年)4月。会社設立から約20年が経っていた。

 テーマパークはその施設も壮大で莫大な設備投資がかかる。装置産業の色彩が濃く、建設資金をどう捻出するかが次の〝関門〟となった。

 このことで、親会社2社(京成電鉄、三井不動産)との関係も微妙なものになっていく。

 TDLの建設開始は1980年12月。当初の総工費は約1000億円だった。着工までにこの金額は膨れ、最終的には1800億円にまで膨張。機械装置や建設資材、人件費の高騰が背景にはあった。

 もっとも、質の高いテーマパークをつくるという髙橋氏らの思い。米ウォルト・ディズニーもブランド価値を壊したくないということで、建設費を削れないという事情も加わった。

 翌1981年になると1500億円になるのではないかとの見積りも出て、親会社からは「1300億円を突破しないように」といった注文が来る。

 その頃、京成電鉄は経営状態が厳しく、三井不動産からも注文が付けられるなどして、まさにオリエンタルランドとしては、「四面楚歌の状況」(加賀見氏)。

 オリエンタルランドの初代社長は、京成電鉄トップだった川﨑千春氏が務めていた(在任期間は1960年-1977年)。その川﨑氏は辞任し、髙橋氏が1978年に2代目社長に就任。

 公有水面の埋め立てから始まった同社の事業だから、千葉県庁の了解を取り付けなければならない。何しろ、約860ヘクタール(約260万坪)の土地造成ということだから、その土地利用の可否をめぐり、国会で質疑が交わされるという経緯もあった。

 こうした試練の中を踏ん張り通せたのも、髙橋氏や加賀見氏などプロジェクトを推進する関係者の『夢』があったからである。

『夢』を何とか実現しようと、必死にそれこそ覚悟を抱いて踏ん張るということ。

 例えば、髙橋氏は会社のために、自らの家屋敷、その他の財を差し出すということもあった。

「僕が一番記憶に残っているのは、自身が所蔵していた絵画や骨董などを銀行からお金を借りるために、担保に差し出した。それも担保流れになってしまったことです」

 高級住宅地で知られる東京・松濤(しょうとう)地区(渋谷区)。その松濤にあった髙橋氏の自宅も担保で取られ、失ってしまった。だから、「髙橋さんの財産がなかったら、うちの会社はなかった」と加賀見氏。


興銀が協調融資団結成で力強い支援

 そういう髙橋-加賀見コンビに力強い援軍が現れた。

 日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)である。

 当時、興銀は特殊銀行で、自ら債券を発行して資金を調達、日本国内の基幹産業に資金を流す役割を担っていた。〝銀行の中の銀行〟といわれ、金融界の中でも一目置かれる存在。

 その興銀の頭取、会長を務めた中山素平氏(1906-2005)。戦後の旧山一證券救済や新日本製鉄(日本製鉄)合併などを実現させ、企業救済や産業再編で行動力を発揮し、〝財界の鞍馬天狗〟といわれた人物。

 TDL開業時は興銀相談役だが、会長時代から、オリエンタルランドを支援。そして、同行には副頭取の菅谷隆介氏という人物がいた。

 TDL開業前にオリエンタルランドが資金調達で苦労した時に、興銀が三井信託銀行(現三井住友信託銀行)と一緒に幹事行となり、都銀を説得、協調融資団を結成したことがある。

 その時にリーダーシップを取って動いてくれたのが当時副頭取の菅谷氏であった。

 菅谷氏自身、学生時代から宝塚などの歌劇や音楽など芸術分野にも親しみ、テーマパークにも関心を寄せていた。また、興銀自身もいわゆる重厚長大の製造業中心の融資からソフト・サービス産業の育成を図ろうと、軸足を変えようとしていた時期。

 オリエンタルランドは資金調達の一環として、スポンサー企業を募った。ディズニーのキャラクターや知的財産を使う替わりに、スポンサー料をもらうという仕組み。今でこそ、人気のある企画だが、当初、スポンサー企業を集めるのに苦労した。

 そこで、早々と応じてくれたのが松下電器産業(現パナソニック)。創業者の松下幸之助翁(当時相談役)に「テーマパークはこれからの日本経済に不可欠なものになります」と伝えたのが中山素平氏。

 中山氏は時代の潮流変化に対応して、テーマパークの登場を説いた。この松下電産のスポンサー企業参入を契機に他業種の有力企業も続々と参入。

 髙橋-加賀見氏の「本格的なテーマパークを日本に創る」という夢に、人のつながり、人の輪がこうして広がっていった。


常に、事業を変化・進化させていく!

「わたしどもの会社の事業としては、常に変化していかないと会社は潰れてしまう。だから進化する方法は何か。その方法さえ間違えなければ、企業というのは存続していくのかなと思っております」と加賀見氏は、事業の変化・進化が大事と強調。

 オリエンタルランドはTDLが開業して5年後にTDSの事業構想を打ち上げた。『海』をテーマにしたテーマパークで、本家のウォルト・ディズニーにはない事業コンセプト(概念)であった。米側は当初難色を示したが、これも「日本は海に囲まれた環境にある」として、オリエンタルランドは自分たちの『夢』を語り続け、説得した。

 そして、TDSは2001年(平成13年)に誕生。TDL、TDS合わせて入園者はピーク時に3256万人(2018年)を数えた。事業の進化の成果だ。

 しかし、コロナ禍で打撃を受けて入園者も激減し、700万人台になった。2021年3月期は上場後、初の最終赤字決算(541億円の赤字)となった。

 オリエンタルランドで働く人は約2万人。人に夢を持って貰う使命を持つ同社は社員をキャストと呼ぶ(このうち正社員は約3割)。コロナ禍の赤字転落時にも、同社はキャストの雇用を守り切った。

 そして、23年3月期は807億円の最終利益を計上。24年3月期も増収増益の見込み。株価も上向き、時価総額ランキングでも10位に上昇(9兆5486億円・8月8日現在)。

 ちなみに、時価総額1位はトヨタ自動車(39兆5393億円)。2位ソニーグループ(16兆3625億円)。3位キーエンス(14兆6994億円)。あと4位NTT、5位三菱UFJ、6位ファーストリテイリング、7位ソフトバンクグループ、8位三菱商事。9位東京エレクトロンという順位。

 コロナ禍を体験した今、感染者対策もあって、入園者数の拡大をただ追う考えは影をひそめ、今は、入園者数に〝上限〟を設けるという関係者の考え。

 同社の中期計画では、2024年度で2600万人程度を見込むとする。『質』の追求だ。

 TDL、TDS、そして商業施設のイクスピアリなどの次として、新ステージのテーマパークづくりへ動くオリエンタルランド。24年春開業の新エリアの投資額は3200億円に及ぶ。

『夢』を追う作業は続く。

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