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【青春座談会】我らが母校・東海高校の良さと伝統を語ろう!

財界オンライン / 2023年10月8日 11時30分

左から、高岡本州・エアウィーヴ会長兼社長、廣田康人・アシックス社長、加藤勝彦・みずほ銀行頭取、柴原慶一・アンビスホールディングス社長

勉学以上に「人としてのあり方」を学んで─。愛知県名古屋市にある東海高等学校は、浄土宗の教えに基づく情操教育、生徒の自主性を尊重する校風で知られる。また、進学校として著名で、国公立大学医学部への進学者は全国でもトップクラスの実績。今回はアシックス社長の廣田康人氏、エアウィーヴ会長兼社長の高岡本州氏、アンビスホールディングス社長の柴原慶一氏、みずほ銀行頭取の加藤勝彦氏が、東海で培った精神について語り合った。


浄土宗を軸とした情操教育を行って

 ─ 東海学園は1888年(明治21年)の創立ですから135年の歴史がありますね。アシックス社長CEO兼COOの廣田康人さんは校風をどう捉えていますか。

 廣田 「質実剛健」と言われていますね。浄土宗の教え、仏教精神に基づいた教育が行われている学校です。例えば、食事の前にはきちんとお祈りをする、年に1回は全学年で浄土宗の総本山である「知恩院」(京都)に行き、おつとめをするといった行事もあります。

 また、中学1年生は三重県伊勢の二見浦(ふたみがうら)で「水練会」と称する4泊5日の水泳合宿に行きます。これは100年以上続く伝統行事になっています。

 今日集まった4人は皆、中学から入っていますが、中学時代は校則が厳しく、高校になるとガラッと変わって、かなり自由になりますから、この差は大きかったような気がしています。

 ─ 中学の厳しさが高校で一変したわけですね。エアウィーヴ会長兼社長の高岡本州さんにとっての東海高校は?

 高岡 廣田さんが言われたように、中学では3年間、宗教を軸とした情操教育が行われます。何よりも、周りは全員、男ですから小学校からのギャップをすごく感じましたね(笑)。

 強烈に覚えているのは、中学の入学式で先輩方が迎えてくれたのですが、その際に新任の先生の紹介がありました。音楽担当の女性の先生が紹介された時、2年生、3年生から万雷の拍手と歓声が起きたのです(笑)。これが男子校なんだと感じた瞬間でしたね。

 ─ 男子校ならではですね(笑)。アンビスホールディングス社長CEOの柴原慶一さんは男子生徒ばかりであることについてはどう受け止めましたか。

 柴原 男子校だというのは、まず一番大きな印象でした。中学受験の時、当然男子しかいないわけですが、私は学校のことを知らなかったので母に「男子しかいなかったよ」と話したら「今日は男の子だけの受験日なのよ」と言われました(笑)。

 入学式も男子しかいかなったので「これは男子の入学式なんだな」と思っていましたが、翌日学校に行ってようやく、「母にだまされた」と気づいたんです(笑)。とはいえ、男ばかりの生活もまた楽しく、やんちゃ放題だったなという思い出です。

 ─ みずほ銀行頭取の加藤勝彦さんは、どういった縁で東海中学に入りましたか。

 加藤 私の父は7人きょうだいで6人が男なのですが、全員が東海出身だったんです。しかも全員が柔道部。子供の頃から東海しか選択肢がなく、入らなかったら大変なことになるという環境で勉強していました。

 当時は学園OBの先生方がほとんどだったんですが、「君は加藤君の甥なんだな」という先生ばかりで、個人的にも独特な雰囲気だなと思っていました。

 また、中学時代は集団行動、規律を学ぶ時期でした。構内には学校関係者の御霊(みたま)を祀る「明照殿(めいしょうでん)」という施設がありますが、前を通る時には必ず帽子を取って一礼するというのも、その1つです。

 OB会を開催した時など、お酒を飲む前に食事の前の挨拶を覚えているかという話になりますが、みんな覚えていますし、法然上人の遺訓とされる「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」も諳んじることができます。こういうことが自ずと身についたのは東海に通ってよかったことの1つだと思います。

 皆さん言われるような男子校ならではの盛り上がりも感じました。そうした同じような経験を持つ方々が様々な分野で活躍していますから、そのご縁の広がりやありがたさを卒業してから実感しています。

 ─ 加藤さんが言われた「明照殿」もそうですが、仏教に基づく人格教育が行われているということですね。

 高岡 私は同期のメンバーと4年に1回、同窓会を開いているのですが、最近になると物故者も出てきます。その際、宴会の前に「明照殿」に集まり、先生にも来てもらって物故者を弔っているんです。

 柴原 「明照殿」は神聖な場所だという感覚がありますね。印象に残っているのは、私の学年は他の学年より50人ほど多いんです。現在の「明照殿」は再建されたものなのですが、私が入学した時期が、そのための寄付金を必要としたタイミングだったのだろうと(笑)。

 人数が多いので、教室では机の列が収まりきらず、教卓より前に机があり、黒板の文字が見えずに困っていました(笑)。


人生を模索する中、それぞれの思い出

 ─ 中・高の6年間は多感な時期ですが、廣田さんにとっての青春は?

 廣田 中学時代は私も含め、何となく悶々としながら過ごしていましたよね。そんな中、高校1年生の時の担任だった宮崎宏一先生から「1日1冊本を読みなさい」と言われたんです。

 1日1冊は実際には難しいのですがチャレンジしてみようということで、星1つの岩波文庫(かつては星の数で定価を表示していた)を買ったり、図書館で借りたりして、乱読ではありましたが、とにかく大量の本を読みましたね。

 私は通学時のバスを、ターミナル駅である金山駅で乗り換えていたのですが、そのバスを待つ時間に近くの書店に立ち寄って、そこでいろいろと本を眺めていたという思い出があります。

 ─ 本に親しむ日々だったということですね。

 廣田 ええ。また、途中で辞めてしまいましたが中学、高校とスキー部でノルディックスキーをやっていたんです。志賀高原などに合宿に行きましたし、先輩が厳しかったことが思い出されます。この時に体力、忍耐力が養われた感じもしています。

 他に、近隣に金城学院という女子の名門中高一貫校があり、バスや地下鉄で生徒を見かけるのですが、男子校の我々にとっては憧れの学校でしたね(笑)。

 柴原 我々の世代も同じです。ただ、金城学院の学園祭に行くと、東海学園の先生が門の前で見張っていて入れませんでしたね(笑)。

 高岡 私の金城学院の思い出は、通学の時のバスです。バス停で前に2、3人の金城生が並んでいる後ろに並んでいたら、後からその友達がやってきて「こんにちは」と言って割り込んでくる。こちらはズルズルと後ろに下がるんですが何も言えない。最終的には30人くらい前に並ばれていましたね(笑)。

 ─ バス停の思い出ですね(笑)。高岡さんは学園生活ではどんなことが思い出されますか。

 高岡 東海には名物の先生がおられて、その方々は戦争帰りのような人達ばかりでした。例えば剣道部には陸軍中野学校出身の達人がいましたし、柔道部には確か8段だったと思いますが、赤帯を締めるような達人がおられて、この先生方の話は抜群に面白かったですね。

 この柔道の先生は授業になって我々クラスのメンバーが元気そうだと見れば、「もうよし。今日は外で野球をやろう」といって運動場に出てしまう(笑)。

 その意味で、東海では勉強という以上に、そういう先生方と接した気持ちだったり、人としてのあり方を教えてもらったような気がしているんです。

 ─ 加藤さんは剣道部だったそうですが、思い出は?

 加藤 東海剣道部は最終的に職業として剣道を選ぶようなライバル校の選手達と、常に競っていました。彼らは朝から晩まで竹刀を振っているのに対して、我々はどうやれば効率的に勝てるかを考え続けた6年間でした。

 東海の剣道部は代々、インターハイに出ていたのですが、私達の代は最弱、谷間の世代と言われていました。個人でインターハイに行った仲間が1人いましたが、団体戦ではあと1人勝てばというところ、決勝で私が負けたことで行けなかったんです。無念でしばらくは夢にも出ましたが、下馬評からすれば望外の好成績でした。そうしたこともあって、我々の代は団結力が強いんです。

 ─ ずっと剣道をやってよかったと思うことは何ですか。

 加藤 私が語るのもおこがましいのですが、剣道は立ち上がった時の間合い、距離感が非常に大切なんです。今感じるのは、お客様や仕事に対する距離感を意識しているかなということです。そして、剣道では中途半端に打っても絶対当たりませんから、しっかり振り切るということも、できているかは別にして常に意識していることです。

 そして団体競技と個人競技であり、個人の強さが団体の強さになるのですが、我々は個々の強さで強豪に劣っても、5人のうち誰か3人勝てばいいという考え方で、相手との相性を考えて順番を入れ替えたり、相手のタイプを見ながら練習していました。スポーツ剣道かもしれませんが、結果を出すという意味では大いに勉強になりましたね。

 ─ やはり中・高の6年間は人格形成の大事な時期だということですね。東海は医師になる人が多い学校でもありますが。

 廣田 仲間にはいろいろな人間がいて、今でも付き合っていますが、おっしゃるように半分は医師になります。

 高岡 国公立の医学部に進学する人数は、この10年以上、東海がナンバーワンです。開成や灘が東京大学の理1、理2に行こうという風潮がある中、東海は名古屋大学を始めとした国公立の医学部を目指している。私は理系でしたが、周りがみんな医学部に行くのが当たり前という中、数少ない技術系でした。


人生を生きる上での「気づき」

 ─ 廣田さんは大学卒業後に三菱商事に入社しますが、そうした人生の決断に東海での生活は影響しましたか。

 廣田 それは間違いありません。時代背景もあります。私が中学入学の年が東大紛争、翌年にアポロ11号が月に行き、大阪万博、札幌冬季五輪があり、73年のオイルショックの年が高校2年です。世界情勢が揺れ、日本も影響を受けた時代に中学、高校を東海で過ごした。このことは大きかったと思いますね。

「世界の中の日本」を意識した時代だったと思います。ここにおられる皆さんも尽力されて、今また日本が元気になるかもしれないという状況です。日本を大きな成長軌道に乗せるために、少しでも貢献したいという思いは今も持っています。

 ─ 柴原さんは医師の道を選んだわけですが、最初から意識していたと。

 柴原 私は医学部に行こうとは考えておらず、進路に迷っていたんです。家が小さな会社を経営していたのですが、中学時代に経営がうまくいかなくなりました。それで高校に進学する際に親から「公立高校に移ってくれないか」と言われたんです。

 先生方が「もったいない」といって引き止めてくれたことなどもあり、何とか進学できました。ただ、その経緯で何とも言えない不条理な気持ちになり、高校に行ってからは閉塞感というか、将来に希望がないと感じながら生活していました。ですから強い進路希望がない、流されるままに勉強する日々です。

 それでも友人と過ごすのは楽しかったですね。忖度なく付き合える友人の存在はありがたかったです。

 大学は医学部に入りましたが、それでも、悶々としていました。そこで5年時に1年間、米国に留学しました。自分を見つめて、殻を破りたいという思いで日本を飛び出したんです。

 ─ 留学で自分の気持ちの変化は?

 柴原 80年代後半のカリフォルニア大学バークレー校には、様々な事情で国を追われ、身一つで米国に逃れてきたアジア系の移民2世が数多くいました。身を立てようと死に物狂いで勉強している彼らを見て、甘えている自分が恥ずかしくなったんです。

 ─ 留学で気づきが多かったと。加藤さんはどういう思いで過ごしていましたか。

 加藤 私は周りに前向きな仲間が多く、受験でも学校のイベントでも、その雰囲気に乗せられていた部分がありました。いいことも悪いこともある人生の中で、やらなければいけないことに対して前向きに取り組む姿勢が身についた6年間だったと思っています。

 ─ 高岡さんは家が事業を営んでいて、それを引き継いだ上で自分で新たに事業を起こしたという足取りですね。東海で培ったものは生きていますか。

 高岡 ええ。私の父は社員を300~400人抱える企業を経営していましたから、それを継がずに医師になるという選択肢はない、という気持ちで中学、高校時代を過ごしていました。

 今日、皆さんとお話をしていて、東海の仕組みは海外の「ボーディングスクール」に近いのではないかと。つまり学業と同時に、人格形成のための体験を重視する学校だということです。

 仏教という軸の下で勉強、生活のしつけを教えられるわけです。部屋に入る時には礼をするわけですが、なぜするかではなく礼をする。今の日本には、こうした絶対的なしつけのようなものが少ないですよね。一方、海外の著名な起業家にはボーディングスクール出身者も多く、企業のパフォーマンスもいい。

 東海出身者も、医療の世界、あるいはビジネスの世界で日本のリーダーになるような人達も出てきている。ただ、どこかで会うと6年間の濃密な生活を経験した「香り」を共有している。これは財産だと感じます。

 ─ 何か学生時代の失敗談などは?

 廣田 大した話ではありませんが、我々の時代は例えば窓ガラスを割った、宿題を忘れたなど悪いことをすると坊主刈りにさせられました。クラスの半分くらいが坊主の経験があります(笑)。今の時代だと難しいのかもしれませんが、非常にあっけらかんとした雰囲気で、失敗も笑いに変えるような感じでした。

 ─ 今の東海学園生と接する機会はあるんですか。

 加藤 今年の1月に私がOB会で講演をした際、高校の先生も来られていて、私が話をした名古屋のスタートアップの話に興味を持たれたんです。そこで、当行のスタートアップ担当常務が東海高校で講演会を行いました。終わってから話を聞くと、「今のうちから実践できる起業への準備、勉強はあるか」や「起業のリスクと成功する上で大事なことは何か」など質問のレベルが高く、非常に驚かされたということがありました。医師を目指す生徒は多いわけですが、起業への関心も非常に強いですね。

 高岡 学園祭も盛り上がっているそうです。中でも「カヅラカタ歌劇団」といって、宝塚を逆に読んだ名前の男子高校生、中学生が宝塚を演じる演劇部の公演が非常に人気で、チケットが買えないほどだと聞いています。私も1回見たいですね。


日本の成長に向けたそれぞれの思い

 ─ ところで廣田さんは今、アシックスの社長として人々の健康ニーズに応え、世界に打って出ていますね。

 廣田 寿命は延びていますが、その中で健康寿命と寿命の差をいかに縮めるかが非常に大きな課題になっています。これには運動習慣が重要ですから、我々は何らかの形で運動ができる環境づくりを日本のみならず全世界で進め、その先駆者になりたいと考えています。

 心身の健康は、やはり体を動かすことによって生まれます。スポーツを通じて、心身ともに健康な一生を過ごせるような世の中に貢献していきたいと思います。今、この流れは全世界的に来ていますから、ビジネスとしてもしっかり捉えていきたいと思っています。

 ─ 海外売上高比率は8割を超えていますが、今後さらに世界にどうアピールしますか。

 廣田 ブランドですね。アシックスのブランドをしっかり認識していただく。日本の「匠の技」、我々が最もこだわっている品質の良さを中心にして、ビジネスを拡大したいと思います。

 世界で勝負して感じるのは、日本の品質に対する信頼です。そして「ジャパンクール」で、日本の製品はかっこいいと思われている。その信頼を裏切らないようにしたいですね。海外のライバルは強力ですが、追いつけるようにしたいと思います。

 ─ 高岡さんは「眠りの世界に品質を」という標語を掲げて寝具の世界に新風を吹き込みましたね。

 高岡 私が40代半ばで始めた事業ですが、寝具がレッドオーシャンのビジネスだったところに、我々は「睡眠の質」という概念を提示してブルーオーシャンに変え、日本では順調に成長してきました。

 そして、我々はオリンピックをサポートしていますが、選手は最も睡眠にこだわる人達です。08年の北京五輪から選手達への供給を始め、14年のソチ五輪からオフィシャルスポンサーになりました。4年に1回の、人生で最も大事な時の寝具として選んで欲しい、そこで睡眠の質を高め、翌日のパフォーマンスを上げて欲しいという思いです。

 東京五輪では選手村全室に寝具を供給し、世界の寝具メーカーと競合した中で次のパリ五輪でも選手村の全ベッド、約1万6000床を供給します。

 ─ パリ五輪ではどういう寝具を供給しようと?

 高岡 SDGs(持続可能な開発目標)が強く言われる五輪になるでしょうから、「寝具のSDGs」を実現するための準備をしています。同時にこれは我々にとって海外市場への再チャレンジの機会でもあります。

 多くの方に「上場した方が楽なのでは?」、「海外に行かずとも日本で十分収益を上げられるのでは?」と言われます。自分でもなぜ挑戦するのだろうと思いますが、中学、高校のミッションドリブンな教育が影響しているのではないかとも感じることがあります。

 ─ 柴原さんは研究者から経営者の道に転じて、「医心館」という終末期の患者さんのケアをする「ホスピス」という業態を介護業界で確立して上場しています。今後の事業の展開は?

 柴原 日本は少子高齢化社会を迎え、病院で最期まで診るという時代から、自宅もしくは施設で看ましょうという時代へと変わりました。

 その中で末期がんなどで余命宣告されている方や、人工呼吸器を装着された方々が、退院を余儀なくされるも安心して療養する場がないという社会問題があります。その問題を解決しようというのが我々の事業です。

 私は大学を卒業してから約20年、基礎研究に携わっており、臨床医としての経験は1年ほどしかありません。今の事業は研究者の時に思いついたシンプルなアイデアを形にしたものです。

 ─ どんなアイデアですか。

 柴原 医師の世界では、寝当直という隠語があります。これは、私のような臨床経験の少ない医師でも必要とされる医師不足に悩む過疎地の病院で、単に当直室で寝ているだけの当直を指します。ある寝当直をしていた夜に、私などが当直代をいただくなど申し訳ないなと、また、そもそもどの病院にも例外なく医師が常駐している必要性ってあるのかなと気づいたんです。

 そこで医師の機能は外部の開業医にアウトソーシングし、残された病床の看護体制をより強化した在宅施設をつくれば、僻地における一部の病床機能の代替が可能となり、医師不足に端を発する医療課題を解決できるのではないかと思いついたんです。

 ゼロベースで、物事の隙間や矛盾を作業仮説として見つけ出し、その仮説を実証する過程を事業として捉えるのは、まさに研究者の発想だったと思います。

 ─ この事業は今広がっているんですね。

 柴原 2つのミッションのもと、日本全国で展開していきます。ホスピスを展開し、主には末期がん患者の療養の場をつくっていくというのが1つです。

 もう1つは、僻地で構造的な経営難に喘ぐ病院の経営を、「ホスピススキーム」によって改善していくことです。僻地の医療はこれまで医療従事者の献身によって支えられてきました。でも私たちは、僻地の医療課題をビジネスの力で解決できることを、実際に赤字の医療機関を収益化して見せることで、実証したいと考えています。

 ─ 日本の金融は転換期にありますが、加藤さんが頭取として取り組みたいことは?

 加藤 私の仕事は廣田さんが世界のライバルに追いつく、高岡さんが海外で挑戦する、柴原さんが全国に展開する、その取り組みをサポートすることです。

 廣田さんがおっしゃっていたように、日本には今、チャンスが来ていると思います。海外を回っても、投資家は非常に日本を見ています。日本は資源のない国ですから、外に出ていくことが必要です。その時に、我々はそのためのファイナンススキームだけではなく、情報提供などで差別化を図っていきたい。

 ファイナンスという本業で、皆さんをお支えするのと同時に、「貯蓄から資産形成」の流れを後押しするのも重要な使命です。この資産形成は銀行だけではできませんから、みずほの銀行、証券、信託という機能をいかして、安心をご提供するというのも大きな柱になります。

 ─ 頭取就任から2年目ですが、手応えを感じていると。

 加藤 我々は2年前にシステム障害を起こしましたが、みずほが安心してお使いいただける便利な会社だということを、お客様にご理解いただくことや社員にも伝えていくことが私の使命です。徐々にですが、手応えを感じています。

 ─ 海外からの日本への期待をどう受け止めていますか。

 加藤 日本には優れた技術と経営があります。これを例えばアジアの社会課題解決に結びつけていく。日本の技術に対しては、アジアからの関心が強く、ぜひ一緒に取り組んで欲しいというお話は来ていますから、それに必要なファイナンスを手掛けていきたいと思っています。

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