大田嘉仁・日本産業推進機構特別顧問「どんな環境下でも努力する。稲盛さんは 強さと優しさを併せ持つ人でした」
財界オンライン / 2024年5月8日 15時0分
京セラを世界的な電子・セラミック企業に育て上げた創業者稲盛和夫氏。2010年、政府からの要請により経営破綻した日本航空(JAL)の会長を引き受け再建がスタートした。当時メディアをはじめ周囲からは「再建は困難─」と囁かれたが、わずか2年8か月ほどでV字回復。「君を連れていく。一緒に再建しよう」これはJALに行く際に稲盛氏が側近の大田氏にかけた言葉。再建にあたり、まず最初に取り組んだこととは─。
JAL再建は現場から
─ JAL再建にあたったのは2019年12月から3年間でしたね。
大田 はい。再建当時、稲盛さんは「もしJALの再建を引き受けることになれば、自分の人生で最も困難な事業になる。その時は、京セラから最も信頼できる人間を連れていく」と話していました。それはそうだろうと思っていたのですが、年末になって「お前を連れていく。一緒にJAL再建をやっていこう」と言われ、本当に驚きました。
私の顔には驚きと不安感が出ていたと思います。結果的に元副会長の森田直行さんと併せて3人でJALに行くことになりました。
2010年1月19日に会社更生法適用申請と稲盛さんの会長就任の記者会見が開かれることになったんです。しかしその日、稲盛さんは盛和塾ハワイの開塾式が予定されていました。私がスケジュール変更しましょうと言うと、「なんでや」「先約を守るのが当たり前だ」というので、記者会見はどうするのですかと聞くと「君が代わりに出てくれ」と言われ、仰天しました。
─ 稲盛さんが現れなくて記者の人たちは驚いていましたね。
大田 はい。記者会見は公的な行事で変更はできないけれど、盛和塾ハワイの開塾式は私的な行事で変更可能なので、私はもちろん記者会見に出席されると思っていました。
今から思えば、あまり積極的でなかった私に「しっかりしろ。お前も覚悟をもってくれ」という思いを伝ええたかったのかもしれません。それでも、私を代理に出席させるというのはリスクが高い思い切った判断だったと思います。
当日は、戦後最大の倒産ということで、テレビカメラを含めて大勢の記者がおられて、私は冷や汗をかいていましたが、その会見の場に出たことで責任の重さも改めて痛感しました。
─ 実際に、JAL再建にあたっては、どこから着手したんですか。
大田 JALに行く時、私は管財人代理、会長補佐になり、まずは意識改革を担当してくれと言われました。そう言われたものの、初めての経験で正直何をしていいのか分からず、戸惑うばかりで悩んでいました。しかもマスコミは、再建は絶対に失敗すると決めつけていましたからね。
そんな中で稲盛さんには、私がちょっと逃げ腰になっていると見えたのでしょうね。稲盛さんの代理で記者会見に出席したことで、もうやるしかないと覚悟ができたような気がします。
─ 当時、確かにメディアというか世間も厳しく見ていましたね。
大田 ええ。本当に厳しい記事ばかりで、新聞も週刊誌も見出しを見るのも嫌になるほどでした。この程度のリストラでは黒字になるわけがないと。しかもトップの稲盛さんは78歳と高齢だし航空業界は素人なので、そもそもトップ人事が間違っているという記事が溢れていました。
稲盛さんはJALの幹部の前では明るく振舞われるのですが、一緒にいる時は、「シンドイな」と弱音を吐かれることもありました。体重も減り、ご家族も体調を心配しておられたようです。
私も同じで、周りに知ってる人はいないし、航空業界の用語もわからない。ストレスで最初は体調も壊しました。
─ 大田さんの担当した意識改革は順調に進みましたか。
大田 私自身、京セラで社員教育の経験もなく本当に苦労しました。最初、京セラから応援も出すよと言われていたので、ひと月ほどたって、稲盛さんに「そろそろ応援を出してもらおうと思います」と伝えると「いや応援は出さない。君ひとりでやりなさい」と言われるんですね。
これもショックが大きく、途方にくれました。当然ですが意識改革の進め方のような実務について稲盛さんに相談することもできません。追い詰められ、断崖絶壁に立たされたという感じでした。でも、結果としては、自分で考え、自分で実行するしかないと覚悟を決めることができたので、よかったと思います。
─ とにかく逃げずに、トコトン自らを追い詰めて考え行動していくということですね。稲盛さんならではの考えだし大田さんもそうやってきたということですね。そのときの大田さんの肩書は何でしたか。
大田 京セラでは、取締役常務、JALでは管財人代理、会長補佐、その後専務になります。今思えば、肩書的にも甘えは許されず、高齢の稲盛さんの代わりに責任を果たさなくてはならない立場だったんですね。だから、稲盛さんは私にもっと必死にやれということだったのだと思います。
─ 会長補佐としてJALに入った時の社内の雰囲気はどうでしたか。
大田 まずは元気がない、生気がないと感じました。倒産直後ですから、みんな下を向いているんですよ。難しい入社試験を受けて入りこれまで真面目にやってきたのだと思ったら倒産の憂き目にあった。そういう感じだったと思います。しかも、メディアは2次破綻必至と書き立てている。そういう状況ですから、悲しい顔しているのも仕方なかったんでしょう。
─ 稲盛さんが現場を回って励ましていかれるのを見て大田さんは何を感じましたか。
大田 稲盛さんは忙しくてそれほど頻繁に現場訪問をしていたわけではありません。しかし、1回1回のインパクトが非常に大きいのですね。例えば、会長就任翌日には羽田の現場を訪問しています。
当時の大西賢社長が「会議室に幹部を集めます」と言うと、「違う私が現場を回る」と言って空港にある各職場を回り、一人一人に「稲盛です。一緒に頑張っていきましょう」と挨拶をして回られるんですよ。
─ 羽田の現場をですか。
大田 ええ。社員が椅子から立ち上がると、「いや、仕事の邪魔をしちゃいけないから、座っててください」と頭を下げるんですね。2時間ほどかかりましたので、私もくたくたになりました。80歳手前の稲盛さんにとっては重労働だったはずですが嫌な顔ひとつしませんでした。あのインパクトは大きかったと思います。
─ その時の従業員の反応はどうでしたか。
大田 稲盛さんが突然職場にきて頭を下げて挨拶をされるのを見て、みなさん最初は非常に驚いている感じでしたね。
おそらくそれまで社長はおろか、役員さえも職場に来ることもなければ、一人一人にねぎらいの言葉をかけることもなかったんだと思うんです。ところが、あの稲盛さんが来て、一人一人に一緒に頑張りましょうと声をかけてくれているというので、皆、本当に感激していた様子でおられました。
社長の大西さんも「あれには参った」と言っていました。この最初の現場訪問の様子は、瞬く間にみんなに知れわたったようです。
現場を大切にするというトップはいっぱいいますが、社員を集めて訓示を垂れるようなことはあっても、稲盛さんのように現場に入り、一人一人に声をかけて回るような人はいないと思います。
─ 大田さんは30年弱と長い間稲盛さんの近くで仕事をしてこられたわけですが、稲盛さんという人を、リーダーとして改めてどういう人だと捉えますか。
大田 器が大きくて、よく考えて行動できる人。実践の人だと思います。器が小さい人はちょっとしたことで、文句を言ったり、機嫌が悪くなったり、人に任せることができなかったりすると思うんです。
稲盛さんの場合は、そんなことは全くない。思いが深くて、強くて、明るく、当然、経営リーダーですから厳しく振る舞うところもありますが、本当は優しくて、本当に器が大きいイメージです。だからみな安心してついていけるのでしょうね。
もう一つ言うと誠実で、言行一致の人です。どんな約束でも守る。変なお世辞は言わない、飾り気のない、至誠の人なのだと言えると思います。
─ これは持って生まれたものなのか後天的なものなのかどちらだと思いますか。
大田 わたしはご苦労・ご努力の結果だと思います。最近思うのですが、稲盛さんは旧制中学受験に2回失敗していますよね。子供心に大変な屈辱ですよ。
しかもその時に当時死病と言われた結核にもかかっています。そのあとの大学受験も、就職試験も失敗ばかり。稲盛さんの前半生は、挫折と屈辱に満ちているのですね。
しかし、それに屈せずに前向きに必死な努力を続けた。稲盛さんの座右の銘は、西郷南洲の「敬天愛人」ですが、私はようやくその意味が分かってきたように思っています。
稲盛さんが伝えたかったのは「人生ではこれでもか、これでもかと災難が襲ってくる。それでも天を恨んだり、人を憎んではいけない。運悪く、厳しい環境に置かれても、それでも天命を信じ、天を敬い、決して恨み言は言わない。それでも人を憎まず愛すべきだ」という気がするのです。その厳しい経験を通じて、自分の哲学を作られただけではなく、人の心の苦しさ、悲しさ、喜びも分かるようになったのだと思います。人の心が分かるから、本物のリーダーになれたのでしょうね。
─ 〝財界〟誌でもよく発信いただいて、稲盛さんの著書「君の思いは必ず実現する」でも書かれていますが、苦境の中で諦めずに努力し続けるのが大事なんだと。
大田 はい。稲盛さんは常に苦労を重ねながら、困難を乗り越えられてきた人物であると思っています。
叱られた場面での気づき
─ 稲盛さんに一番怒られたことで覚えているのは何ですか。
大田 意外なところで言えば、会長室で一緒にうどんを食べている時に、自分で七味をかけ、そのままにしていたんです。すると「なぜわたしに渡さないんだ。謙虚さがなくなったんじゃないか? 謙虚さは魔除けだぞ」と叱られました(笑)。
気が利かないのは謙虚さが足らないからだ。謙虚さがなくなると、誰も協力してくれないどころか、甘い話にすぐ乗ってしまい、結局大失敗してしまうぞ、と注意されたんです。確かにそうだと大いに反省しました。
それから、京セラ創業50周年記念ビデオを作った時のことです。創業当時、稲盛さんは次々と新製品を開発していたので、私は稲盛さんに「やはり天才的な技術者だったんですね」と話すと、いきなり怒られましてね。「わたしは天才ではない。必死に努力をして来ただけなんだ。そのことはいつも君に話していたのに何もわかっていなかったのか」と激しく怒られました。
─ 成功したのは努力の結果であって努力が大事だと。
大田 はい。創業当時から寝食を忘れて一生懸命仕事に打ち込んできたからこそ結果が出た。才能ではなく努力が大事だという最も大切なことをなぜ一番近くで見ていた君がわからないのかと。
─ 逆に褒められたことは何ですか。
大田 京セラコミュニケーションシステムという売上げが1000億円を超える子会社があったのですが、業績が悪化した時期がありましてね。その立て直しを頼まれ、わたしは会長になりました。
社員みんなの頑張りによって約1年で10%程の利益が出るようになった時「ありがとう。さすがだ。これからも京セラのために頑張ってほしい」と言われたのを覚えています。JAL再建(2013年)の時は特に褒められてはいませんが、「君となら何でもできそうな気がする。次は何を一緒にしようか」と言っていただいたときは本当に嬉しかったですね。
─ 強さと優しさの両方を持つ努力の人でしたね。(了)
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