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国のビジョン、基本軸をどうつくるか?【私の雑記帳】

財界オンライン / 2024年6月23日 16時30分

国のあるべき姿を求め続けた先人達

クラーク博士の一言

 1つの言葉がその人の人生を決定づけることがよくある。

 有名な言葉が、『少年よ、大志を抱け(Boys, be ambitious!)』であろう。明治初期、札幌農学校(現北海道大学)の初代教頭として赴任した米国人・農業教育者のW・スミス・クラーク博士(1826―1886)が学生たちに向けて言った言葉。

 明治期の日本は文字通り開拓期にあった。自らの人生を自らの手で切り開け─と言い残したクラーク博士の言葉は、札幌農学校第一期生(16人)の胸に響いた。

 博士が初代教頭として農学校で教鞭をとったのはわずか8カ月。

 離任して帰国する博士は、松島(現北広島市)まで見送りに来た数人の学生たちに向けて、先の言葉を馬上から言ったという。映画のワンシーンのような場面だが、この言葉は、第一期生だけでなく、三期生の内村鑑三や新渡戸稲造らに受け継がれていく。

 クラーク博士が空に向かって指を指しながら語りかける立像が札幌市の『羊ヶ丘展望台』にある。そこを多くの観光客が訪ねるのも、それこそ数多くの人々の心に響くものがあるからだろう。


石橋湛山にまで…

 教育の力は実に大きい。〝教える側〟と〝学ぼうとする側〟の呼吸がぴたりと合うと、その効果は絶大なものになる。

 札幌農学校は1876年(明治9年)に開校。博士の勲等を受けた第一期生からは大島正健(1859―1938)、佐藤昌介(1856―1939、北海道帝国大学初代総長)などの教育者が生まれた。

 大島正健は、新島襄の同志社普通学校や私立奈良尋常中学校の校長を務めた後、旧制山梨県立甲府中学校(現甲府第一高等学校)の校長を務めた。

 甲府中学校からは多くの人材が出たが、石橋湛山(1884―1973)もその一人。石橋湛山は東洋経済新報社で論陣を張ったジャーナリスト出身で、立正大学学長なども務め、政治家にもなった。

 通商産業大臣(現経産大臣)や大蔵大臣(現財務大臣)などを務めた後、首相に選ばれる。しかし、病魔に襲われ、短命内閣に終わった(在任期間は1956年=昭和31年12月から翌57年=昭和32年2月までの約3カ月間)。


国の基本軸をどうするか

 明治維新(1868)以来、西欧に追い付き、追い越せと、『富国強兵』、『殖産興業』を国是としてきたが、日本は次第に軍靴の響く帝国主義的拡張路線に傾くようになっていった。

 その時、湛山は『小日本主義』を訴え、軍部から睨まれる。『小日本主義』は決して縮まるという発想ではなく、明治以来、簡単に言えば西洋の真似をしてきたことを反省し、日本独自の道を探ろうとしたことにその真髄がある。アジアとの共生もその一つであろう。

 いずれにせよ、クラーク博士、大島正健、そして石橋湛山と続く人と人のつながりを見ると、時代の流れと共に、その時代環境の中で、苦悶、苦闘してきた人の姿を見ることができる。

 国のビジョン基本軸をどうつくるか─。人としての生き方、国のあるべき姿を求め続けた先人たちの日々の営みである。


米国の国力低下に…

 今、世界中が分断・分裂の状況にある。ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとイスラム軍事組織・ハマスとの戦闘、その他にも、各国・各地で紛争が多発。

 第2次世界大戦終結から約80年が経つ。この間、朝鮮戦争、ベトナム戦争、キューバ危機、イラン・イラク戦争と争い事は続いてきた。

 人は、基本的に争う生き物なのか─という問いかけは今も続くが、誰もその〝解〟を見いだせないまま、悩みを抱え、今日まで来ているのが現実。

 戦争・紛争の世紀とされた20世紀。20世紀末には旧ソ連邦崩壊、東西ドイツ統合、EU(欧州連合)の発足と、新しい胎動が見られた。

 東西陣営の対立、資本主義対社会主義の対立という冷戦構造が崩壊(1989)した後、世界を牽引するのは米国とされてきたが、その米国も近年、国力が低下。

 第2次大戦後、自由主義陣営のリーダーとして、世界を引っ張ってきた米国も今や衰退期に入った─という見方も出始めた。


問われる日本の主体性

 他国の世話を見る余裕を失ったということか、トランプ前大統領時代は、『米国ファースト』と、何より米国にとって損か得かという基準で経済運営や外交が推し進められた。

 その背景には、米国内の白人の比率が50%位に低下し、白人層の〝不安〟や〝焦り〟があると言われる。

 米国と同盟関係を結ぶ日本も米国の政治の影響を受けることになる。安全保障面で、日米同盟は大事な基本軸となるが、それだけではなく、隣国・中国や台湾、さらには韓国、北朝鮮との関係をどう構築していくかも大事なテーマ。

 ナショナリズムが台頭する中、どのような論理体系で新しいグローバル秩序を構築するのか。ここは日本の主体性と国としての力量が問われる大事な時である。


セメント産業は面白い!

「セメント会社として、新たな可能性を切りひらくことは幾らでもあります」と前向き経営を志向するのは太平洋セメント社長の田浦良文さん(1960年=昭和35年生まれ)。

 国内のセメント需要のピークは年間8600万トン強(1990年)あったが、今は4000万トンを割っている状況。

 一般に成熟産業の代表格みたいに思われているが、カーボンニュートラル(温暖化ガス排出量実質ゼロ)関連にしろ、リサイクル関連領域にしろ、「可能性はいくらでもあります」と田浦さん。

 現に、太平洋セメントは米国やアジア地域に進出、今は全売上高の4割近くは海外市場でまかなっている。セメント需要は日本の場合、公共工事と民需で半々だが、米国は住宅需要を中心にした民需が約7割、公共工事向けが約3割と民需中心。

 同社は米国の西部5州(ワシントン、オレゴン、カリフォルニア、ネバダ、アリゾナ各州)を中心に事業を展開。今や5州でのシェアは4割を占めるほどに成長、貴重な収益源となっている。

 田浦さんは1983年(昭和58年)に九州大学工学部で化学工学(エンジニアリング)を専攻。30歳前後でタイ国の駐在を命じられて赴任。

「自分で仕事を見つけて来い」といわれ、当初は戸惑ったが、ユーカリの木を製紙原料にする手立てを見つけ、製紙会社への販路開拓をしたり、商社機能の領域を切りひらいてきた。

「モノをつくって、完成した時にお客様が喜んでおられる姿を見られるのが最高の幸せ。そうした感動を社員に味わってもらう経営を心掛けたいと思います」

 トップの前向き精神は社員や取引先の士気を高め、幸せにする。

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