【倉本 聰:富良野風話】東京愛
財界オンライン / 2024年7月30日 7時0分
僕の生まれたのは1935年(昭和10年)、東京・代々木の駅前である。厳密に言えば順天堂病院産院で生まれたから生地は御茶ノ水駅前といった方が正しいかもしれない。39年、杉並区善福寺に引っ越し、戦中戦後をそこで過ごし、77年、北海道に移住するまでずっと善福寺で過ごしたから東京生まれの東京育ち。いわば生粋(きっすい)の東京人である。
戦前の東京を知っているし、戦時中の東京、空襲で破壊された瓦礫の東京、緑が失われ、ミニ開発で土がなくなり、ゴチャゴチャの住居の集団となり、昭和の末期かバブルの時代にその混沌がいったん整理され、ビルがニョキニョキ立ち、一見小洒落たコンクリートとアスファルトの、町から街への大転換があり、僕の生育した西荻窪から吉祥寺界隈で言えば、点在していた畑や雑木林、そして農家の茅葺(かやぶ)き屋根、即ち国木田独歩の謳った武蔵野の風景が物の見事に一掃されていった東京・山の手の今昔の姿をしっかり覚えている生き証人である。
昭和10年代の善福寺には、今で言う豪邸が立ち並び、それがその頃の流行りだったのか、何故かどの庭にもヒマラヤ杉の大木があった。10年程前、ふと思い立ち、昔わが家のあったあたりを歩いてみたのだが、界隈は見るも無惨に小分割され、その間に何本か昔なつかしいヒマラヤ杉が残っていた。あの木だけが当時の善福寺を知るものの哀しい記憶の残骸だった。
町は流れて、移り変わるものである。
最近どこかで「東京愛」という言葉をきいたが、今の方々の東京のイメージは僕の世代の東京とは、かけはなれたものになっているにちがいない。僕のイメージするあの頃の東京は、今や老人ホームの侘しい孤室で、死にそこねた老人が明け方ぼんやりと呆けた頭で見る、夢と現実のはざまの風景だろう。
関東ローム層のあの土の匂い。
沼を覆っていた葭(よし)の群落。その中で鳴いていたヨシキリのさえずり。カイツブリや鴨の夜明けの合唱。秩父山系の伏流水がもたらす井の頭、善福寺、石神井からの湧き水。そうした情景をふるさと東京の記憶として持つものは、もう稀少種でしかないにちがいない。
そういう意味で、あの頃の東京を、凍結したまま、まだ持ちつづけている自分は倖せな人種であるのかもしれない。
コンクリートの都庁のビルをプロジェクションマッピングで浮き上がらせて、それを美しいと自讃する都知事を僕は気の毒に思えてならない。海をゴミで埋め、その上に築いたコンクリートの塊をダイバーシティと自慢する人々を僕は哀れに思えてならない。
土もない、匂いもない、風もない、緑もない、こうした無機質なヒートアイランドの空間を、只便利という一点からのみ見て、僕らはいつまでふるさとと威張れるのだろうか。
東京愛という空しい言葉を、本当に東京人は持ちつづけられるのだろうか。
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