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やまと社長・矢嶋孝行「日本と着物の文化をアップデートし、新きもの文化を創っていきたい」

財界オンライン / 2024年11月1日 15時0分

矢嶋孝行・やまと社長

「私たちが文化だと思っているものは、他の文化の影響を受けています。文化というのは、いろいろな文化と文化の接点から生まれているはずです」こう語るのはやまと社長の矢嶋孝行氏。西洋化した現代社会の中で、着物をどう世界に広めていくか─。異文化、他業界との交流をヒントに「きものをもっと開かれたものにして、世界をワクワクさせたい」と矢嶋氏。日本文化の伝統を守りつつ、時代に合った革新の提案が求められる着物業界で、やまとが向かう先とは─。


着物屋のチェーンストア誕生

 ─ 矢嶋さんは代々続く呉服店の4代目です。創業は1917年(大正6年)ですから、世界史的にはロシア革命で世界が激動している頃でしたね。

 矢嶋 はい。私の父から聞いている話ですと、東京都文京区小石川の辺りで本当に小さい着物屋から始まったんです。

 この会社の実質的な創業者の私の祖父である矢嶋榮二が、第二次世界大戦で台湾から復員し、矢嶋呉服店で仕事をし始めました。そのときに女性が着物を引き取ってほしいと来られたそうです。質屋ではないので、そういう引き取るということはやらないんですよというような話をしたそうですが、その女性はこの大切なきものをきもの屋さん以外には持っていきたくないんですと。

 昭和40年代に榮二が取材で答えている新聞記事を読んでいくと、あの当時に理念だ、ビジョンだといえることは幸せなことだ、ということが書いてありました。

 ─ 戦後、日本中が食うや食わずの状態の頃ですね。

 矢嶋 ええ。そういう大変だった時代に、着物を持ってきた女性を見た榮二は、もう二度と戦火が訪れないようにと平和の願いを込めて、社名を「やまと」に変更しました。

 例えば1人の女性・男性に100万円のきものを買っていただくよりも、10人に10万円のきものを届け10人を幸せにしたいと考えている。榮二の時代から、そういう会社を目指しましょうという理念があるんですね。

 当時というのは、チェーンストアという考え方がまだ日本にはなかった頃です。戦後14年後の1959年に矢嶋榮二はチェーンストアがあったアメリカに視察に行っています。

 ─ 日本でチェーン店をやるための視察だったんですか。

 矢嶋 いえ、そんなことは全く考えていなかったと思います。とにかく視察に行こうということで、当時の様子は祖母から聞いたことがあるのですが、1ドル300円の時代です。祖母は自分の夫をアメリカに送り出すというのはとても不安だったようです。この前まで戦争していた国ですから、もう二度と会えないかもしれないという気持ちで送り出したそうです。

 榮二は現地で、チェーンストアというものを見たときに「これは着物でも同じことをやれるのではないか」と思ったというのが、やまとのチェーンストアの始まりです。

 ─ 昭和60年頃まではダイエーが日本一のチェーンストアでしたね。

 矢嶋 はい。そのダイエー創業者の中内㓛さんと同じような頃に榮二もアメリカに行っているんです。ですから中内さんとも関係性を持っていたのではないかと私は推測しています。

 ─ おじいさんはどんな人でしたか。

 矢嶋 寡黙であまり喋らない人でした。すごく身長が小さいのですがものすごくパワフルだったと聞いています。

 当時は物流コストが違うから、東京と地方で同じものが違う値段で売られている時代でした。だから、榮二はチェーンストアが必要だという考え方を持っていたようです。松下幸之助の考えと同じく、水やガスと同様に全国の人々が公平に使えることが豊かさだと。だから着物も全国同じ値段で売りたいと。

 ─ 当時では斬新な考え方ですね。

 矢嶋 そうですね。当時やまとが地方にお店を増やしたときに、業界では「やまとはどさ回りをし始めた」と言われたということを聞いています。着物というものは、ラグジュアリーなもので高く販売しようという流れがありました。われわれは100万円する着物も当然扱いますが、高く売ろうという意識は決してなく、どさ回りといわれようとも、われわれのポリシーはたくさんの人に良い着物を届けるということだけでした。

 ─ いいものをつくる、いいものを売る、この概念、経営理念は代々受け継がれていると。

 矢嶋 はい。そこはずっと変わらない当社の価値だと思っています。だから、当社には代々社長が日本中の産地に行くのが当たり前の文化としてあります。新幹線もない頃、社長が最も川上の作り手のもとに行くのはとても珍しいことでした。産地との共存共栄の考え方を強く持っていたからです。

 わたしは外から来た者なので、いろいろな組織を見てきていますが、社長が産地まで行くというのは実は珍しいことで、面白い会社だなと思っています。他業界の社長からも「なんで矢嶋さんは産地に行くの?」「何しに行くの?」とよく聞かれます。

 ─ 南の沖縄や奄美大島まで行かれるんですか。

 矢嶋 行きます。奄美の伝統工芸品である大島紬は後継者育成事業を龍郷町と一緒にやっています。一代目から代々、善吉、榮二、孝敏の資産を出し合ってつくられた一般財団法人「きものの森」というものがありまして、日本の着物のものづくりを、次の時代に残すための財団なんですね。

 例えば国ときものの森財団がお金を出し合って、織物の後継者育成の学院をやっています。そこを卒業された方々はやまとの商品以外もつくるわけですが、それで良いというのが財団のスタンスです。

 ─ 織り方を継承していく場所ということですね。生徒数は今どれぐらいですか。

 矢嶋 8名です。毎年2~3名しか入ってこないので、これを10名入校を目標にしたいと思っています。やはりこの国にものづくりの風景を残したいですし、そこでつくられた織物や染め物が人を幸せにする。そして、その織物や染め物が世界を面白くするということをやっていきたいです。


洗い場で気づいた経営哲学

 ─ 経営者で尊敬している人はどんな人ですか。

 矢嶋 吉野家の安部修仁さん(前会長)です。時代もありますが、安部さんは「最後までリングに立っていたやつが勝つんだよ」と言われていて、本当にそのとおりだなと。安部会長はBSE問題のときに矢面に立たれて、外食業界を牽引された方だと思いますし、吉野家の再建も本当にご苦労された歴史を知っていますので。

 あるとき安部会長に「なぜ吉野家で働き続けることを選択したのですか」と聞いたことがあるんですね。

 ─ なんと言いましたか。

 矢嶋 「おやじの牛丼に惚れたんよ」と言っていました。「おやじ」というのは二代目社長の松田瑞穂さんです。その仕事を好きかどうか、単に儲かるという話ではなくそういうロマンがあるのが素敵だなと。

 あるとき安部会長と話していて「孝行君、いいことに気づいたね」と言われたエピソードが一つあります。わたしは沖縄のリゾートホテルのレストランの皿洗いをやっていた頃があります。ここで、レストランは洗い場が勝負だということを学んだのです。

 ─ なぜそう思ったのですか?

 矢嶋 レストランで原価率が高いものの一つはお皿です。お皿の枚数は限られていますから、これをどうマネジメントするかが大事なんです。ピーク時になると、皿が全部出てなくなってしまうことがあるので、どれだけのペースで皿を洗うかが勝負です。

 例えばディナーの時間帯には皿を2回転させなければいけないことがある。メインディッシュの皿がなくなりやすいので、1回転目の前菜の皿は洗わず、メインの皿を先に洗うことが大事なのです。デザートの時間になれば小さいスプーンがなくなります。デザートを食べるときもコーヒー・紅茶をかき混ぜるために同じスプーンが提供されるのでなくなるんです。ということは、ティースプーンを早く洗わなければいけない。そのときにメインディッシュの皿を洗っている場合ではないんです。こういうことを洗い場が気付けるかどうかが、非常に重要だと気付いたんです。

 ─ お皿がないとサービス全体が止まってしまうと。

 矢嶋 はい。自分なりにそこを改善しながら仕事をすることが楽しかったんですよね。

 わたしは洗い場ですが、接客するみんながティースプーンがないのがわかってくるので、洗い終わったティースプーンをスタッフが取りやすい場所に置くんですよね。そうすると「今日、矢嶋さん洗い場にいるんだ」みたいな感じで、そういう小さな工夫に気付いてくれる現場のスタッフがいるわけですよ。

 そうすると「次、この皿くれ」「次、これ、足りなくなるから」みたいなことを言いながら、ホールスタッフが下げてくるんです。このムード感をレストランにつくれるということを実感したときに、洗い場でもレストランを動かせるんだなと思ったんです。つまり現場力ということです。

 それを現場のアルバイトから社長になられた安部会長が「それはすごい重要な気づきだ」と言ってくださったんです。


新しい文化を生み出すために

 ─ 今後やまとという会社をどういう方向にもっていきたいですか。

 矢嶋 私たちは「KIMONO DREAM MAKERS」ということばを掲げていて、「きものでエキサイティングな世の中をつくる」というビジョンを掲げています。さらに「きものと日本文化をアップデートし続ける」ということも言っています。着物ってどこか特殊な存在、閉鎖的な存在、敷居が高くて間口が狭くて、どこかちょっと近づきがたいという印象がある方も多いのではないかと思います。

 けれど、実際はそうではなくて、開かれたものにしていきたいし、着物を通して世界を本当にワクワクさせたいんです。

 ─ 最近矢嶋さんはパリにも行かれましたよね。

 矢嶋 はい。昨年10月に「YAMATO FRANCE」という会社をつくりました。きものをアップデートする上ですごく重要だなと思うのは、ほかの文化との接点をつくることです。

 自分たちが世界へ出て行っていろいろな意見を言われると、新たな存在の仕方やアイデアが出るような気がするんです。今、私たちが文化だと思っているものは、他の文化の影響を受けて文化になっています。文化の変化は、他国からの情報伝達や文化の影響を受けてアップデートされていると思っています。当然守っていくべきものも大事にしながら、慎重に動いていきたいと思っています。

 今はパリにポップストアを置いて、いろいろと刺激を受けながら革新できることを考えていて、来年には本格的に実店舗を出そうと思っています。

 ─ 他企業とのコラボが多いのもそういう理由ですか。

 矢嶋 はい。例えばわたしたちが100年続く着物屋として、スノーピークやアニエスベー、パリのアーティストの「Nathalie Lete(ナタリー・レテ)」とコラボするということ自体が、我々からのメッセージにもなると思っています。

 スノーピークと一緒につくった「OUTDOOR * KIMONO」は、バスローブみたいなものなので、解釈を変えれば日本人だけでなくて全ての人が着られるし、それがアウトドアシーンでも、海や川で泳いだあとに服を着替えるのではなくて、その水着の上からバスローブを羽織るように「OUTDOOR * KIMONO」を着ればいいのではないかというようなことも考えてのアイデアでした。

 ─ コラボでいろいろな発想が生まれると。

 矢嶋 ええ。それからまだ商品化できていませんが、高齢化社会が進んで行く中で、例えばパジャマを着るという行為は、足が不自由な方にとって危険な行為だったりします。ズボンをはくときに頭を下げる行為は、血流が一気に頭に上がるのでとても危険ですよね。

 着物は構造的に足を上げずに頭も下げずに着られますから、もう一度着物を部屋着にしてみませんかという提案ができないかなと思っています。

 介護が必要な方々にとっても、ベッドの上に浴衣を置いてそこに寝てしまえば簡単に着せることができます。それだけではなく、浴衣は昔の日本文化ですから、機能面だけでなく情緒的な価値も見いだせる。

 やはり服は着てわくわくするものがいいですから、人の気持ちも前向きにできるようなものをつくっていきたいと思っています。

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