親父のニュース

眼を瞑って、そう、大きく、大きく息を吐くのよ

文春オンライン / 2017年05月25日07時00分

担当医の説明が一通り終わると、外の廊下の長椅子で親父がしょぼくれて座っていた。普段は意味もなく「ガハハハ、ガハハハハ」と豪快に笑っている男であったのに、長年連れ添ったお袋が病床に臥すと途端に意気消沈するものらしい。改めてみると、親父もずいぶん老け込んだ。私が子供のころは怖いぐらいに筋肉質の大男だったのに、30年の歳月を経て風船が破裂したようにしなびた老人 [全文を読む]

金田正一氏 がんの父に捧げた長嶋デビュー戦「4三振」秘話

NEWSポストセブン / 2016年10月03日16時00分

実はこの時、ワシは名古屋に住む親父を球場に招待していた。親父は胃がんにおかされており、東京の医者に診せるために後楽園に呼んでいた。 球場は4万5000人の超満員だった。三塁側のスタンドから親父が応援する中、ワシは長嶋の初打席を三振に打ち取った。続く3打席も三振を奪い、4打席4三振。ワシの圧勝だった。 開幕戦の翌日、親父は都内の日赤病院に入院した。もう親父 [全文を読む]

風間杜夫 脳梗塞で倒れてから12年に及んだ父の看病、死を語る

NEWSポストセブン / 2015年01月27日07時00分

* * *「おれはな、どこかで潔くポックリ死んでやる」 そう言っていた親父が脳梗塞で倒れたのは、25才でぼくが所帯を持った翌年だった。親父が倒れた頃からぼくの仕事は忙しくなった。もう少し元気でいてくれれば、小遣いもあげられたし、飲みにもうまいものを食べにも連れていってあげられたのに。 リハビリもする気はなく入退院を繰り返し、体も動かず口もきけず、頭だけは [全文を読む]

メザシの土光さんは家庭でどんな父親だったか 長男が述懐

NEWSポストセブン / 2016年09月22日16時00分

親父は若い頃から苦労ばかりした人だった。ぼくは社会に出て働き始めてから、“親父の真似はとてもできないな”と思ったよ」 こう語るのは、土光敏夫氏の長男で、現在は、敏夫氏の母親が創立して同氏も力を入れた学校法人橘学苑の理事長を務める陽一郎氏。不世出の父親を息子が振り返る。 「親父は戦前、戦中、戦後とずっと忙しくしていた。体を動かすのが好きで、若い頃は留学先 [全文を読む]

ジャーナリスト大谷昭宏氏 裁断の名人だった父について語る

NEWSポストセブン / 2015年02月09日07時00分

その頃、既製服の普及で、高級紳士服店が立ち行かなくなると、親父は勤めを辞めて、自宅で注文を請け負うようになった。 修業を積んだ職人は強い。既製服が全盛になっても、仕事に困ることはなかった。内閣総理大臣を務めた幣原喜重郎氏や、朝日新聞副社長で自由党総裁を務めた緒方竹虎氏、作家の野村胡堂氏といった、いい常連客が親父の仕立てる紳士服に袖を通していた。 親父は裁 [全文を読む]

目黒祐樹が語る「兄・松方弘樹の最期」――阿川佐和子のこの人に会いたい 前編

文春オンライン / 2017年04月16日17時00分

年を重ねるごとに、兄貴にも親父にも似てきたって。 阿川 立ち入った話で恐縮ですが、松方さんのパートナーだったと報じられている山本万里子さんも密葬にはお出になったんですか? 目黒 はい。そうです。これも本人の意向だと思いますが。とにかく迅速に密葬を済ませました。 阿川 そうですよね。ぜんぜん漏れることなく、見事に隠されたなという印象がありました。 目黒 う [全文を読む]

歌手・山川豊「半農半漁で一家支えた海女の母の姿が今も残る」

NEWSポストセブン / 2016年07月21日07時00分

船の上の親父がその役目だった。 ところが、酒を飲んでいると合図を見過ごしてしまうことがある。僕が何度も親父を揺すって引き揚げさせたのを覚えています。親父はアワビが捕れないと「もっと捕ってこい」と頭を竿で叩き、おふくろはまた潜る。捕れない日は家に帰ってからも親父が荒れた。 月1000円の給食費にも事欠き、おふくろが親戚に頭を下げて借りてくれたこともあった。そ [全文を読む]

森村誠一氏 空襲で初恋相手の遺体を目にし作家になると決意

NEWSポストセブン / 2015年08月14日07時00分

「とうとう来た、逃げろ」という親父の怒声で、家族全員、外に飛び出しました」(森村さん、以下「」内同) 熊谷空襲――B29約80機が8000発ほどの爆弾を熊谷市一帯に落とした。中心街は3分の2が消失し、266人の命を奪ったといわれている。 「いったん、家の近くを流れる星川のほとりまで逃げました。そこで飼い猫のコゾを家に置いてきたのに気づいたんです。妹が『捜し [全文を読む]

大谷昭宏氏 「親が残すものは教育だけ」亡き母の言葉を明かす

NEWSポストセブン / 2015年02月10日07時00分

* * * 1909年、三重県伊勢市に生まれた親父は高等小学校を卒業すると、14才で故郷を離れ、縫製職人をめざして銀座の老舗の米田屋洋服店に奉公に入った。 「100人の職人の中で、店で仕事をしたのはおれぐらいだ」 ぼくが物心つくころ、丸ビル内の店舗で接客を担当していた親父はいつもそう自慢していた。昔気質の職人は気難しいものだが、親父は陽気な人だったから、 [全文を読む]

風間杜夫が父の思い出語る「座卓をひっくり返したことも」

NEWSポストセブン / 2015年01月23日07時00分

おふくろがそばにいてくれて心強かったが、ときには親父がおふくろに代わって、撮影所で仕事をするぼくに付き添ってくれた。 親父は新東宝という映画会社で配給の仕事をしていた。娯楽の少ない時代に映画会社の配給の営業は羽振りがよかったらしく、ぼくが生まれ育ち今も暮らす、世田谷区上馬の自宅の土地も、終戦直後に親父が手に入れたものだ。 明治生まれの気難しい親父で躾にも厳 [全文を読む]

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