なぜあの世界的な写真家は製薬会社の巨悪と闘ったのか? アメリカで社会問題化する「オピオイド危機」とは
CREA WEB / 2024年3月31日 7時0分
映画ライターの月永理絵さんが、新旧の映画を通して社会を見つめる新連載。第7回となる今回のテーマは、「大きな力に抗う」。
社会にも家庭内にも存在する「権力」。大きな力に抵抗するとき、私たちはどうするべきなのだろうか。現在公開中の映画『美と殺戮のすべて』と『アイアンクロー』(2024年4月5日公開)は、そのヒントをくれる作品です。
写真家ナン・ゴールディンの姿を追うドキュメンタリー
日々、個人の声は政府や大会社のような巨大な権力にはとうてい届かない、と実感することばかりが続いている。ひとりひとりのあげた声は、それがどれほど切実なものであろうと、たいていは大きな声でかき消され、資本の力で踏み潰される。大多数を前には少数はどうしたって無力だ。とはいえ、選挙というシステムはもちろん、デモ活動や不買運動など、ふだん小さき声として扱われる市民の側にも、抵抗の手段は残されている。
抵抗のための運動、というと思わず尻込みしてしまう人もいるかもしれない。でも、抵抗の手段といってもさまざまで、自分の生き方を貫くことや、身近な誰かを尊重すること、誰かの支配から逃げ出すことなど、きっといろんなかたちがあるはず。まずは「大きな力に抗う」人々を描いた映画を通して、それぞれの抵抗のありかたを学んでみたい。
まず紹介したいのは、ローラ・ポイトラス監督の『美と殺戮のすべて』。1970年代から活躍してきたアメリカの写真家のナン・ゴールディンの姿を追ったドキュメンタリー。写真家として著名なゴールディンが、近年、アメリカで社会問題となっている「オピオイド危機」に声をあげ、巨大な資本を相手に戦ってきたことを、私はこの映画で初めて知った。
薬の中毒性を隠し「安全」と謳った製薬会社
「オピオイド危機」とは、オピオイド系の医療用鎮痛剤の過剰摂取問題のこと。アメリカでは、製薬会社パーデュー・ファーマ社が、1995年からオピオイド系鎮痛剤「オキシコンチン」を積極的に販売しはじめたのを機に、依存症や過剰摂取による中毒死が急増し、社会問題となっているという。問題は、パーデュー・ファーマ社が、強い中毒性があることを隠し、「安全で効き目のいい薬」として薬を大量に販売してきたことにある。病気や怪我の痛みを和らげるために医師に処方された鎮痛剤を使っていたら、いつのまにかひどい中毒に陥っていた、という例が多発したのだ。この問題は、2019年に公開した、ジュリア・ロバーツとルーカス・ヘッジズ主演の『ベン・イズ・バック』という映画でも扱われていた。
ナン・ゴールディンは、自身が手術のあとオキシコンチンを処方され酷い中毒症状に苦しんだ経験から、仲間たちとともに「P.A.I.N」という団体を設立し、パーデュー・ファーマ社および、会社を所有するサックラー家の責任を求め、さまざまな抗議活動を開始する。製薬業で成功をおさめた大富豪サックラー家は、美術館や大学への寄付を盛大に行ってきた有名な篤志家でもある。いいかえれば、文化や芸術を熱心に支援する裏で、人々を騙し麻薬をばら撒くことで財を築いてきた人々だ。
ゴールディンが抗議活動の先鋒に立ったのは、まさに相手がサックラー家だったからだといえる。写真家として著名な彼女の作品は、サックラー家が寄付し、その名前を冠された世界各地の美術館にも展示されている。そこで彼女は自分の知名度をぞんぶんに利用し、美術館という場で派手な抗議パフォーマンスを行う、という戦略をとる。映画の冒頭、サックラー家の名前が冠されたメトロポリタン美術館の展示スペースで、「P.A.I.N」の仲間たちはオキシコンチンのラベルが貼られた薬品容器を一斉にばら撒き、「サックラー家は人殺しの一族だ!」と叫ぶ。それは強烈な抗議活動であり、ひとつのアートパフォーマンスのようでもある。
美術館での抗議活動といえば、先日、国立西洋美術館での企画展「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか? ——国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」の内覧会で行われた、アーティストたちによるパレスチナ侵攻への抗議活動が記憶に新しい。抗議の内容は異なるにせよ、彼女たちはみな、美術館という場で芸術と資本との関係を問い正し、芸術家はつねに政治的な存在であるとメッセージを発してみせた。こうした公の場でのパフォーマンスは、ただ当事者に声を届けるのが目的ではない。多くの人々の目を引き、取材に来たメディアに自分たちの姿を晒すことで、問題をより広く周知していくことにもつながる。
映画『美と殺戮のすべて』は、ゴールディンと、サックラー家およびパーデュー・ファーマ社との戦いを追うとともに、彼女の生い立ちや写真家としてのキャリアをふりかえる。若くして姉を自殺で失い、それを機に両親との関係が崩壊したゴールディンは、10代で家を出て遠くの学校で生活を送るようになる。そしてそこで出会った仲間たちの関係が、その後の人生に大きな影響を与えることになる。1970年代以降、ゴールディンは、自分の身近な人々を被写体にした写真で大きな注目を集めていく。なかでも彼女の名前を一躍有名にしたのは、「性的依存のバラード」シリーズ(1978-86)。麻薬、性、暴力とともに生きる人々の姿が克明に記録された写真たちは、彼女自身の日常から生まれたものだ。
マイノリティとの深いつながりが彼女を戦いに駆り立てた
映画のなかでもっとも痛ましいものとして映るのは、1980年代から90年代にかけておきたHIV/エイズ危機。性的マイノリティの人々と親密な関係を築き、そのコミュニティのなかで生きてきたゴールディンにとって、HIV/エイズ危機は、親しい人たちの命を次々に奪っていく、無慈悲な戦争のようなものだったはずだ。
HIV/エイズ危機をめぐる描写のなかで、ある市民運動家たちの姿がクローズアップされる。ゲイの劇作家ラリー・クレイマーらが1987年に設立した活動団体「ACT UP(アクトアップ)」は、HIV/エイズの蔓延に有効な手立てを講じようとしない政府にしびれを切らし、政府や製薬会社らを相手に、大胆な抗議活動を行うようになる。ニューヨークで始まったその活動は他の都市にも伝わり、ヨーロッパにも波及した。そのひとつである「ACT UP Paris」の姿を描いた映画が『BPM ビート・パー・ミニット』(2018)で、ロバン・カンピヨ監督自身の経験をもとに、90年代のフランス・パリでのACT UP Parisのメンバーたちの戦いが描かれる。治療薬の開発を求め、製薬会社に乗り込み血のりを投げつけるパフォーマンスを行い、エイズ=同性愛という偏見と戦いながら若者たちに性行為での感染を防ぐ方法を周知させる。メンバーたちが、命をかけて政府や製薬会社と戦い、自分たちを見殺しにする社会に抗う様子に、ただ圧倒される。
ナン・ゴールディン自身が「ACT UP」に参加していたわけではないようだが、現在の彼女の戦いと過去の痛ましい記憶が交互に映ることで、現在の「P.A.I.N」の活動が、いかに「ACT UP」の活動から強い影響を受けたものであるのが、よくわかる。
同時に、ゴールディンがなぜサックラー家という、美術界でも巨大な力を持つ大富豪に立ち向かうのかも見えてくる。おそらく自身もバイセクシュアルであり(映画では、女性と男性、両方との恋愛経験が語られる)、10代の頃からゲイやレズビアン、ドラァグクイーン、トランスジェンダーの友人たちと家族同然につきあい写真の被写体にしてきた彼女は、性的マイノリティと呼ばれる彼らが社会のなかでいかに蔑ろにされ、暴力に晒されてきたかを、いやというほど目にしてきたはずだ。HIV/エイズ危機では友人たちの多くを失った。数が少なく弱い立場に置かれた人々は、社会のなかで、いつだって真っ先に見捨てられ、命すら奪われる。そんな現実を見つめてきた彼女にとって、巨大な資本によって名もなき人々の命が奪われていく「オピオイド危機」を見過ごすことなど、できるはずもなかったのだ。
ナン・ゴールディンとその仲間たちが、どんなふうに大きな力に抗い、弱き人々の命を救おうとするのか。そしてLGBTQのコミュニティとの深いつながりが、どのように彼女を戦いに駆り立てたのかを見つめ、自分なりの戦い方を考えてみたい。
家族による支配から逃げるのも“抗う”ことである
さて、最後にまったく趣向の異なるもう一本の映画を紹介したい。1980年代に人気を博した実在のプロレスラー一家フォン・エリック家の人々をモデルにした、ショーン・ダーキン監督の『アイアンクロー』。ここで大きな力として君臨するのは、巨大な組織や政府ではなく、一家の父であるフリッツ・フォン・エリック。悪役レスラーとして苦労しながら家族を養ってきたフリッツは、子供たちを自分と同じプロレスの道で成功させようとする。だがその父の強い思いが、子供たちを追い詰め、やがて悲劇に至る。
家族を支配するのは、父という権力だけではない。ここにあるのは、男たるもの誰よりも強くなければいけない、経済的な成功と社会的な名誉を手に入れなければ一人前ではない、という、いわば「力」と「成功」の呪いとでもいうべきものだ。さらに「男らしさ」という呪縛が、彼らをがんじがらめにしていく。
映画は、ザック・エフロンが演じる次男(長男は幼い頃に亡くなっている)のケビンを中心に、彼ら兄弟が一家を支配する呪縛とどう戦うのかを描く。強くなりたい、成功したい、父に認められたいと懸命に努力し疲弊していく兄弟の姿を見るのは、あまりにつらい。けれど彼らが悲劇の先に見つける答えを、しっかりと受け止めたい。大きな力に抗うには、必ずしも正面から戦うことだけが解決ではない、ときにはそこから逃げることも抵抗なのだと、この映画は教えてくれる。
文=月永理絵
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