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「原爆の父」オッペンハイマーの伝記映画が、現代のアメリカに突き付ける原爆の記憶と核の現実

ニューズウィーク日本版 / 2024年4月22日 17時20分

原爆が広島と長崎に投下されたことで、10月に「私の手は血塗られた」とトルーマンに語ったが、5月には日本への投下に反対はしていなかった。

死去する2年前の65年には、「私たちは極めて明白な結果を予想しないものだ」と語り、「ロスアラモスでの原爆(開発)は、その最たるものだった」と述べている。

原爆投下の決定に深く関わった人たちの道徳的・知的反応もまた、「極めて明白な結果」を予期していなかった。

それでもマンハッタン計画に携わった物理学者のイジドール・ラビやレオ・シラードなどの科学者は、日本への原爆投下に反対したし、投下後は動揺を示した(第2次大戦で米極東陸軍司令官を務めたダグラス・マッカーサーは原爆を「フランケンシュタイン的な怪物」と考えていたとの記録がある)。

核戦争の真のおぞましさが明らかになるにつれて、アメリカの政府と軍は、爆風やキノコ雲、そして広島と長崎の破壊の報道を容認する一方で、放射能に関する報道は全力で検閲し、抑え込もうとした(放射能の問題に注目が集まり、アメリカは化学兵器を使ったという批判が起こることを懸念する声もあった)。

映画『オッペンハイマー』のシーンから、アインシュタインと ©UNIVERSAL PICTURES. ALL RIGHTS RESERVED.

原爆のもたらした痛ましい現実を世間が知ることになったのは、ジャーナリストのジョン・ハーシーが被爆者を追った46年発表の生々しいルポルタージュ『ヒロシマ』(邦訳・法政大学出版局)のおかげだ。

だが翌47年には、スティムソンがハーパーズ誌への寄稿「原爆投下の決定」で、原爆の投下は100万人のアメリカ人の命を救ったという政府の見解を再び主張した(ちなみに100万人という数字に根拠はなかった)。

こうして、アメリカ人の原爆の記憶を支配するストーリーが確立された。それは終戦50周年を迎えた95年も健在だった。

このときワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館は、広島に原爆を投下した爆撃機「エノラ・ゲイ」を展示することを計画したが、そこに被爆者や戦後の核軍拡競争への言及は一切なかった。

また、終戦50周年の記念切手の図案には、きのこ雲のイラストの下に「原爆は戦争の終結を早めた」と書かれていた。昔ながらの原爆の説明から、賛否両論の相反的な要素はすっかりなくなったかのように見えた。

映画『オッペンハイマー』にも、この単純化された説明が垣間見られる。日本の被爆者のことも、トリニティ実験や戦後のマーシャル諸島やネバダ州などでの核実験で被曝した人たちのことにも全く触れていない。

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