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「用務員さんになりたくて」キリン執行役員が年収2000万円を捨て移住したワケ

プレジデントオンライン / 2020年12月14日 9時15分

キリンホールディングスを退職し、長崎国際大学野球部の総監督になった栗原邦夫さん - 写真提供=文藝春秋

東京を離れて、「第2の人生」を謳歌している人がいる。キリンホールディングスの執行役員だった栗原邦夫さんは、56歳で早期退職し、長崎国際大学の「野球部総監督」に転進した。総監督の主な仕事は、野球指導ではなく、学生の就職先を探すこと。なぜ栗原さんはさらなる出世を目指さなかったのか。ジャーナリストの秋場大輔氏が迫った——。

※本稿は、秋場大輔『ライフシフト 10の成功例に学ぶ第2の人生』(文藝春秋)の一部を再編集したものです。

■「若い人たちとスポーツで関わりたい」という夢があった

知り合いに大手企業を退職後、母校の大学でヨット部監督になった人がいる。だから知人に「大手ビール会社のキリンビールで執行役員になった人が長崎で野球部の監督をしている」と最初に教えられた時はさして驚くこともなかった。

しかし詳細を聞くにつれ、俄然興味が湧いてきた。当のご本人、栗原邦夫さんは「若い人たちとスポーツで関わりたい」という夢を叶えるため、わざわざキリンを早期退職したというからだ。栗原さんの生まれ育ちは東京で、野球部の監督をしているという長崎はもともと縁もゆかりもない土地ということにも興味が惹かれた。

取材のため空路で長崎に向かうと、栗原さんは自宅のある佐世保から車で空港まで片道一時間をかけて迎えに来てくれた。「あなたのことを取材して記事にしたい」と突然連絡した見ず知らずの筆者にそこまで面倒を見てくれるだけでも恐縮したが、取材のつもりで足を運んだのに、「佐世保は初めてですか。案内しますよ」と言って佐世保市の見どころに連れて行ってくれた親切心には、ただただ頭が下がった。

■クラブハウスに室内練習場…新しい設備がたくさん

観光案内を終えた栗原さんはその後、現在の職場である長崎国際大学へ連れていってくれた。案内されたのは、外野にきれいな緑の人工芝が敷かれた野球グラウンドだった。2015年の硬式野球部創部に合わせて作られたという。

2016年にはクラブハウスが完成。2017年には打撃練習ができるピッチングマシンや投球練習ができるマウンドを備えた広さ1200平方メートルの室内練習場が出来上がった。急ピッチで施設の整備を進めているところから、長崎国際大学がいかに硬式野球部に力を入れているかがよくわかる。

グラウンドには今後、ダグアウトやバックスクリーンも作られる予定だという。「どうですか。こんな素晴らしい施設が備わった大学はあまりないと思います」。この日、硬式野球部の練習はお休み。部員がいないグラウンドで筆者とキャッチボールをしながら栗原さんはそう言った。

「監督としてはやりがいと責任がありますね」とボールを投げ返しながら聞くと、ボールと共に「僕は監督じゃなくて総監督です」という答えが返ってきた。「監督よりも偉いんだ」と思っていると、その心を見透かしたのか、栗原さんはさらにこう続けた。

■「僕は用務員さんを目指しているんです」

「一見、偉そうに聞こえる肩書ですけれど、総監督は悩んでいる野球部員の相談に乗ったり、就職先を探したりというのが仕事です。練習メニューを考えたり、試合の作戦を練ったりといった本質的なことは監督の役割で、僕が口出しすることはありません。部員は僕のことを『クリさん』って呼びますよ」

「小学校に通っていたころに用務員さんっていたでしょ。学校の掃除をしたり、登下校時に横断歩道に立って児童を見守ったりしてくれた人。僕はこの大学の用務員さんを目指しているんですよ」

キリンの執行役員ともなれば年収2000万円は下るまい。その後、栗原さんの周辺を取材したが「もっと偉くなる可能性があった」という話も聞いたから、昇進の道も残っていたのだろう。しかし栗原さんはその地位をあっさり捨て、ご本人が言うところの豊かな生活を求めてライフシフトをした。決断の背景には何があったのだろうか。

■自分版「私の履歴書」を作ってみたら

きっかけは2005年、今も元気に東京で暮らす栗原さんの母親が入院した時のことだった。栗原さん47歳。病室で付き添いをしていた時に、ふと「私の履歴書」を作り始めたという。日本経済新聞の名物コラムを自分版という視点で書いたものだ。「もともといつかは作ろうと思っていたんですけれど、きっかけがなくてつい先延ばししてしまっていました。あの日、付き添いで病院に行ったけれど、お袋は寝ていて、やることもなかったので、それならば今やるかと思ったんです」

真新しいノートにそれまでの人生を綴った。共に町工場に生まれた両親の三男であること。9歳と7歳離れた兄2人は頭が良くて慶應義塾中等部に入学したこと。それに比べて自分は出来は良くなかったが、兄達よりも野球はうまかったこと。そんなことから書き出した。

グローブとボールとホーム プレート
写真=iStock.com/fstop123
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fstop123

栗原さんはお兄さんが慶應に通っていた影響で神宮球場に六大学野球の早慶戦を見に行き、いつかこの舞台に立ちたいと思った。思いが通じ、晴れて慶應中等部に合格、大学を卒業するまで野球漬けの日々が始まった。大学でセカンドレギュラーの座を獲得したのは野球生活に終止符を打つと決めていた最後の年、4年生の春だった。秋のリーグ戦に向けて野球の傍ら就職活動を始めたが、第一志望はキリンビール。親が町工場で生計を立てていたため、生産現場でものづくりをする会社が良いと思ったのだという。

■3年後、5年後…ライフイベントを書き出して見えたこと

採用試験の前日、立教大学との試合があり、神宮球場で初ホームランを打った。採用試験で「球場のベースを一周する時に御社の看板が見えたので、運命だなと思いました」というようなことを言うと、面接官は非常に喜び、トントン拍子で内定が出た。「これまで恵まれた人生を送ってこられたのは野球をやっていたおかげだ」と思った。

次に栗原さんは「家族年表」の作成に取り掛かった。目標は決まったが、それをどのような時間軸で達成するかを考えるためである。

白いきれいな紙のメモ帳
写真=iStock.com/Nuthawut Somsuk
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Nuthawut Somsuk

まず横軸に自分、妻、2人の息子の名前を書き、縦軸に暦年を書く。来年、3年後、10年後に妻や子供は何歳で、その時期にそれぞれがどのようなイベントを迎えるのかを書いた。この作業をしたことで、長男や次男が大学を卒業する年に自分はいくつになっているかといったことが「見える化」し、子育てがいつ終わるのか、それまでに教育費がどれくらいかかるのかといったことを具体的に把握することができた。

実際に早期退職でキリンを卒業したのは56歳の時だから、栗原さんは約10年がかりでライフシフトをしたことになる。「私の履歴書」と「家族年表」の作成はそのための下準備といえたが、実際にこれまでと大きく異なった生活に踏み出すには、さらに準備が必要だった。

■故郷か住み慣れた赴任先、選んだのは

一つは住まいである。キリン在職中、栗原さんは長く社宅に住んでいたが、社宅にも定年制があり、次の転勤時は借りられない年齢になっていた。そこでライフシフトに備え、持ち家を買うことにした。

さて、どこに住むか。

栗原さんはキリンビールで34年間に及ぶビジネスマン人生を送り、通算すると10年以上を九州で過ごした。家族の生活基盤は九州にある。一方、東京は生まれ育った故郷で当時入院を経験した母親もいる。兄が2人いるとはいえ、そばに居てあげたいという思いもあった。

栗原さんは迷った挙げ句、九州を選んだ。当時、子供は高校生と中学生。東京に家を買えば家族の生活は大きく変わり、馴染むために多大な労力がかかると思ったのが最大の理由だが、住まいの価格、物価も含めた日々の生活費という観点から考えても、九州に魅力を感じた。

特に似たような条件の自宅を購入した場合、東京を選べば多額の住宅ローンを抱えることになり、ライフシフトがしにくくなるということを考慮した判断に驚く。多くの人は、つい足元の環境だけを踏まえて物事を判断してしまうだろうと思うからだ。

先を見越せたのはやはり「私の履歴書」や「家族年表」を作ったからなのだろうか。栗原さんに「それにしても用意周到ですね」と聞くと、こんな答えが返ってきた。「確かにこの2つは大きかったと思います。ただ履歴書と年表は志を明確にし、決断をするための作業で、それを踏まえてマンションを買うなど実現のための準備は別の作業です。決断と準備のどちらが大変かというと僕の場合は準備でした」

■何度も長崎へ通い、リクルート活動

大変だったという準備はまだあった。「会社を辞めた後の人生は、スポーツを通じて子どもたちの成長を応援したい」と志して将来設計をしたが、それをどこで実現するかを決めることだ。

キリン在職中、九州での生活が長かった栗原さんは42歳で長崎支社長に就任。約5年後の2005年秋に東京へ単身赴任したが、東京に移っても年に一度は長崎を訪れた。“帰省”の際に必ず会う人がいた。和食レストランや居酒屋、天ぷら専門店など、九州最大級の外食チェーン店を運営するフードプラス・ホールディングス(HD)を一代で築き上げた中村信機さんだ。

フードプラスHDの発祥は長崎で、キリン長崎支社にとっては最重要顧客の一つ。栗原さんは同じ慶應大学を卒業した先輩でもある中村さんと出会い、自身が会社を辞めた後の夢を伝え続けた。「その頃にはいずれ長崎に住みたいと考えていたんです。そこで夢を叶えることができれば良いと中村さんに話していました」と栗原さんは振り返る。

■執行役員就任も、あっさり早期退職したワケ

2011年3月、栗原さんは再び東京本社勤務となり、CSR推進部長となった。企業には利益を追求するだけでなく、倫理的観点に立った活動を通じて社会に貢献する責任がある。そうした考え方に基づいて実際の活動を立案、推進するのがCSR推進部だが、就任直前に東日本大震災が起きた。

秋場大輔『ライフシフト 10の成功例に学ぶ第2の人生』(文藝春秋)
秋場大輔『ライフシフト 10の成功例に学ぶ第2の人生』(文藝春秋)

キリンが仙台に持つ工場が被災、震災直後には481人の地域住民と社員が事務棟屋上で助けを求めた。栗原さんは九州での仕事の引き継ぎもままならない中で対策本部事務局長に就き、社員の救助やその後の工場再開、地域の復興支援などに奔走した。

そうした活動がなお続いていた2013年、キリンはCSR活動をさらに高度化するためにCSV本部と呼ぶ組織を新設。栗原さんは傘下のCSV推進部長に就き、キリンホールディングスの執行役員にもなった。

しかしその2年後、栗原執行役員はあっさりと早期退職を選んだ。「『家族年表』に従えば、退職は2016年だったんです。しかし当初は留学するつもりだった次男が予定を変え、就職することになりました。その結果、子育てが1年早く終わることになったので、1年前倒しでビジネスマンを卒業しました」と、こともなげに言った。

■転職した「総監督」の仕事とは

転職先はフードプラスHDの中村さんと昵懇の安部さんが運営する長崎国際大学。最初は何かしらのお手伝いができれば良いと考えていたが、ちょうど野球部を創部するというので、その偶然に驚いた。「最高の転職先でした。仕事は運動部に関わるものであれば何でも良いと思っていたんですけれど、自分が子供の頃から続けてきた野球部が出来ることになったのはラッキーでした。リクルート活動がここまで上手くいくとは思わなかったなあ」と栗原さんは笑う。

キリンホールディングスを退職し、長崎国際大学野球部の総監督になった栗原邦夫さん
キリンホールディングスを退職し、長崎国際大学野球部の総監督になった栗原邦夫さん(写真提供=文藝春秋)

野球部総監督の仕事はどうなのだろう。「あまりグラウンドには立たないんですよ」と栗原さんは言うが、代わりに地元企業や社会人野球チームなどを訪問することにかなりの時間を割いている。卒業する学生の就職先を確保するためだ。創部して間もない野球部の知名度はまだ低い。そこで訪問先では選手の将来性や、そもそも人間としての魅力を伝え、採用を働きかけているという。

こうした活動の対価として給料をもらうわけだが、「自分のやりたいことを実現するために大学に身を置かせてもらっているわけです。それでもらったお金で生計を立てることに少し抵抗感がある」と栗原さんは言う。だから給料は、野球部員の就職をお願いするための交通費や挨拶品、関係者と飲食を共にした時の支払いなどに充てていると言う。活動範囲が広がり、生活費が足りなくなる時もあるが、キリン時代の蓄えを取り崩すなどして充実した毎日を送る。

■地方移住に失敗しないためには

ビジネスマンを卒業した人が次の人生に進む際、困ることの一つは自分の居場所が容易には見つけられないこと。地方での生活に憧れてIターンをしたは良いが、地域社会になかなか溶け込めないケースもよく聞く。

その点、栗原さんはフードプラスHDの中村さんという地元の名士の知己を得た。「中村さんが僕の後見人。佐世保で生活をしていくため地元に溶け込もうと自分でも努力をしていますが、後見人の存在はセーフティネットになっています。感謝しかありません」

「大学へ毎日行くわけではありません。今日は何もやることがないなんて日は、近くの日帰り温泉へ行ってのんびりしたりもします。気ままな生活をさせてもらって、こんなに幸せで良いのかなと思います」。ご本人はそう言って笑う。

自分が望んだ人生を実現した見事なライフシフトだが、それにしてもと思う。五十歳を前に掲げた人生の目標を達成するため、人がなかなか手に入れることができない地位と収入を捨てるのは憚(はばか)られなかったのかと。

■「人との縁を大切にする生き方」を貫いた

栗原さんが九州統括本部長時代に部下として仕えた永元禎人さんは言う。「栗原さんは被災3県を本当によく回っていました。そこで復興を進める人たちとコミュニケーションを取っていた。一方、会社の立ち位置に対する理解も深かった。その両立に悩んだのではないでしょうか」

栗原さんは次男が就職を決め、子育ての終了がはっきりすると、即座に早期退職を申し出た。「私の履歴書」と「家族年表」に従った行動ではあるが、ライフシフトを決めたもう一つの理由があると言った。「復興支援のお手伝いをさせてもらった人間が、次に異動するときに営業に戻るなど、新たな部署で働く姿が想像できませんでした」

言わんとすることは、おそらくこういうことだろう。例えば昨日まで復興支援で接していた被災地に住む人に、立場が変わったとたん「キリンビールを買ってください」というようなことは言えない。もし本当にそんなことを言って、聞かされた方に「それが目的で、これまで親身になっていたのか」という思いが芽生えたら、それが自分の本意ではないとどこまで伝えられるか自信がないのではないか。

「キリンには感謝しかありません。今の自分があるのはキリンのお陰だと思っていますから。営業現場も工場勤務も経験したし、CSVは最後の仕事として最高でした。後は若い世代に託すのみです」。栗原さんはそう言う。

それは偽らざる心境と思う。あえて加えるとするならば、47歳の時に「私の履歴書」を書きながら、自分がどのような人間なのか、何がしたいのかを冷静に分析し、最も大事にしている「人との縁を大切にする生き方」を生涯実践しようとしているからこそ、栗原さんの今はあるのかも知れない。

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秋場 大輔(あきば・だいすけ)
ジャーナリスト
1966年、東京生まれ。日本経済新聞社で電機、商社、電力、ゼネコンなど企業社会を幅広く取材。編集委員、日経ビジネス副編集長などを経て独立。

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(ジャーナリスト 秋場 大輔)

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