なぜ織田信長は上洛に成功し、武田信玄や上杉謙信は失敗したのか…その違いは「ビジネス感覚」にある
プレジデントオンライン / 2022年4月15日 9時15分
※本稿は、鈴木博毅『戦略は歴史から学べ』(日経ビジネス人文庫)の一部を再編集したものです。
■前評判を覆し、勢力を拡大していった信長
源頼朝の鎌倉幕府は、義父の北条時政が権力を狙い、3代目の源実朝以後は北条氏が実権を掌握。1274年、1281年の元寇は北条時宗がトップとして対処。1333年、後醍醐天皇と足利尊氏、新田義貞らにより攻められ鎌倉幕府は滅亡します。
1338年に足利尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府が始まりますが、13代目の足利義輝の時代に将軍は有力者の傀儡(かいらい)となっており、義輝は暗殺され、弟の義昭は流浪。義昭は各地の有力武将に手紙で自らを将軍として上洛(京都入り)してほしいと依頼します。
この依頼を活用して義昭と上洛したのが戦国の風雲児、織田信長です。
尾張(愛知県)に生まれた信長は、1551年(諸説あり)に父が死去し、18歳で家督を相続。世間では「大うつけ」と評判で、これで織田家も終わりと思う家臣が多いなか、1552年の赤塚の戦い、萱津の戦いなどで見事な采配指揮を見せ、その後尾張の統一を進めます。
1560年には桶狭間の戦いで、強大な勢力を誇った今川義元に勝利。そのとき、信長は27歳。2年後には三河の徳川家康と同盟を結び、現在の岐阜県、三重県にまで勢力を拡大。1568年に足利義昭と京都入りし、義昭は15代の室町幕府将軍となります。
■信長を苦しめた3度の大包囲網
新興勢力として将軍を囲い込んだ信長は、京都で周辺勢力と激しく衝突していきます。
越前の朝倉氏、大坂の本願寺、四国・紀伊半島勢力
②第二次包囲網(1571~73年)
武田信玄、朝倉、浅井、三好、足利義昭など
③第三次包囲網(1576~82年)
武田氏、毛利、上杉謙信、本願寺、紀伊半島勢力
信長は室町将軍(義昭)の権威を使って大名たちに京都に来るように命じ、それを拒否した朝倉などを討伐します。しかし大坂の本願寺の反抗などで苦戦を強いられます。
第二次、第三次では武田信玄、上杉謙信など東国のいくさ上手が京都を目指すも、両者は病死。第三次包囲網では毛利、武田、上杉などを信長軍が押し返すも、1582年に本能寺で明智光秀の謀反により信長が自害して、第三次包囲網は消滅します。
■根拠地を西へ移動させ続け、家臣団は戦闘に集中
信長は3度の包囲網の打破に生涯を賭けましたが、順調には勝ち進めませんでした。
弟の信治が琵琶湖近くの戦闘で戦死、伊勢の一向一揆の攻撃で別の弟、信興(のぶおき)も戦死。第二次包囲網では、過去安定した関係だった武田信玄が、突如裏切り京都を目指し、三方ヶ原で徳川家康を破ります(直後に信玄は病死)。
極めて苦しい戦いを続けた信長は、いくつかの対抗策を編み出していきます。
①自身の根拠地を那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城と変える
②同時並行で集中戦闘できる「方面軍」を組織して各地の戦闘を担当させる
③進撃速度の速さ、撤退の速さ(岐阜城から京都まで一日で一騎駆けなど)
④兵農分離を目指し戦闘集団をつくり、根拠地移動で家臣の土着性を失わせる
当時の武将は、不変の根拠地を持っており、戦闘が終わると必ずその地に戻りました。そのため京都から遠い武田氏、上杉氏などは勢力があっても上洛が難しかったのです。
信長は領地拡大に合わせて根拠地を西に移動させ続けて、家臣団も城下町に住んだので、自身の根拠地がそのまま西へ移動するような形となりました。
「方面軍」は、北陸・関東・大坂・畿内・四国・中国・東海道などに分かれ、中国方面は羽柴秀吉が、東海道は同盟していた徳川家康が担当していました。これはビジネスで多角化を成功させる事業部制に大変よく似ています。
当時はいくさのない時期、武士も農業に関わりましたが、信長は直臣の兵農分離を進め、根拠地を移動させたことで家臣団は領地にこだわらず戦闘に集中できました。
■京都へのアクセスが良くなる効果だけではなかった
織田信長が根拠地を4回も変えたことは、どのような効果があったのでしょうか。
一つには天下統一への重要エリアへのアクセスや支配力の強化が可能になったこと、二つ目は部下が物事を考える視点を転換できたことがあげられます。
那古野城にもし信長の根拠地があり続ければ、京都や関西、四国、中国地方の騒乱に対して即時介入はできず、家臣も天下を狙う集団だと自己認識しなかったかもしれません。
根拠地の移動は、本社所在地だけでなく、事業領域の軸足の変化にも例えられます。ビジネスでは「事業ドメイン」(=事業の展開領域)という言葉がよく使われますが、ビジネスを行う領域を計画的に変化させて、新たな成長へ向けてドメイン移行が行われます。
■過去の事業ドメインと決別し、成功した3社
次の3社は特に有名な事業ドメインの移行例でしょう。
・富士フイルム
傘下の富山化学工業がエボラ出血熱に効果のある未承認薬を持つなど、近年医薬品での話題で注目を集めている。化学フィルム中心から脱却し、情報ソリューション事業などの新たな事業分野で高い収益性を誇る。
・ゼネラル・エレクトリック
1970年代に「利益なき競争」を食い止めるため、収益性のない事業売却を促進。80年代には、CEOのジャック・ウェルチが業界で1位か2位の事業への集中を宣言。現在は風力による電力発電事業、超音波医療診断機器など、新たな事業領域を拡大している。
・IBM
1990年代まで大型コンピューターの世界的企業だったが、PCの小型化の波でITソリューション事業へ転換。現在ではITシステムの運用管理を含めたインテグレーター、企業向け情報分析コンサルティングの分野でも成長を続けている。
飛躍を続ける3社は、時代の転換点で「過去の事業ドメインと決別」しています。信長が天下を狙うため、慣れ親しんだ故郷の那古野城を家臣と共に離れたようにです。
さらに信長は、豊臣秀吉など百姓出身でも功績で抜擢し、代々の織田家臣団に比肩する地位を与えました。肩書ではなく実力と戦果で人事が決まることを集団に徹底させて、ベテランの家臣も健全な競争意識の中に巻き込む効果を狙ったのです。
信長は、天下を獲るため過去と離れ続け、競争意識の高い優れた戦闘集団をつくり上げたのです。
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ビジネス戦略コンサルタント
1972年生まれ。慶應義塾大学、京都大学経営管理大学院(修士)卒。貿易商社、国内コンサルティング会社を経て独立。戦略史や企業史を分析し、負ける組織と勝てる組織の違いを追求しながら、失敗の構造から新たなイノベーションのヒントを探ることをライフワークとしている。日本的組織論の名著『失敗の本質』を現代ビジネスマン向けにエッセンス化し、ベストセラーとなった『「超」入門 失敗の本質』ほか、著書多数。
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(ビジネス戦略コンサルタント 鈴木 博毅)
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