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NHK大河ドラマの描き方と史実はまったく違う…明智光秀が「本能寺の変」で織田信長を討った本当の理由【2023編集部セレクション】

プレジデントオンライン / 2024年5月9日 9時15分

明智光秀画像(画像=本徳寺所蔵/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

2023年下半期(7月~12月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2023年7月16日)
なぜ明智光秀は織田信長に謀反を起こしたのか。歴史学者の濱田浩一郎さんは「計略と策謀に優れた光秀は、天下をとる好機とみて本能寺の変を起こしたのだろう。決して信長への怒りに任せて行動したのではない」という――。

■なぜ明智光秀は信長を討ったのか

織田信長は天正10年(1582)6月2日、宿泊中の京都・本能寺を家臣・明智光秀に襲撃され、49歳の激動の生涯を閉じることになる。なぜ、光秀は信長に謀反したのか? これまで多くの歴史家や作家がさまざまな説を提示し、耳目を集めてきた。

それら諸説の中で、時代劇などでも繰り返し描写されてきたものに、信長が光秀に暴行を加えたというものがある。いわゆる折檻説だ。

大河ドラマ「どうする家康」においても、その様子が描かれた。

安土城で催された宴の席。そこで出された鯉料理の臭いに家康は顔をしかめる。光秀は、これは日本一の淀の鯉であり臭みはないはず、家康が高貴な料理に慣れていないのではと弁明する。その言葉に怒った信長が光秀を足蹴りにして「出て行け」と怒鳴る。

おそらく、それを恨みに思った光秀が信長を本能寺の変に襲うという展開になるのだろう。

■「安土饗応」は後世の作り話

信長の光秀に対する暴力の記載は、諸書にある。例えば、武田討伐(天正10年)を終えた後、光秀が「我らも年来、骨を折った甲斐があった」と述べたことに対し、信長は激怒。「お前はどこで骨折ったのか。武功があったのか」と血相を変えると、光秀の頭を欄干にぶつけて、恥をかかせたという(『祖父物語』)。

また、同年、光秀は信長から徳川家康の饗応役を命じられたため、食材(生魚)を用意していた。ところがその生魚は、高気温のため腐り、悪臭を漂わせる。料理部屋を訪れた信長は、そのさまを見て「家康の馳走は光秀に任せることはできない」と饗応役を解任。恥をかいた光秀は、大量の料理、魚、器具を堀に投げ捨てたとの逸話が『川角太閤記』に載る。

しかし『川角太閤記』にしても『祖父物語』にしても江戸時代初期の俗書であり、その内容にそれほど信用があるものではない。以上、記した逸話も作り話と考えられる。

■光秀以外の武将も暴力を受けたのか

とはいえ、信長が光秀を暴行した話は、俗書だけではなく、信憑性が高いとされる史料にも記されている。その史料とは、イエズス会宣教師のルイス・フロイスが書いた『日本史』だ。

フロイスはポルトガルの宣教師であり、来日し、信長や秀吉とも会見したことで有名である。フロイスの著書『日本史』は戦国時代の日本を考える上で重要史料となっている。その『日本史』に次のような記載がある。

「信長は、家康一行の接待役を命じられた光秀と、その準備について安土城の一室で密談していたが、信長は元来逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、人々のうわさによると、信長の好みではない件で光秀が言葉を返すと信長は立ち上がり、怒りを込めて一度か二度、光秀を足蹴りにした」

まさに、信長による光秀暴行の記録だ。しかし、注意しないといけない点は、フロイスが暴行を「人々のうわさ」と書いていることである。フロイスが暴行現場を見た訳でもないし、見た人(家臣)が特定できる訳でもない。

私がいつも不思議に思うのが、信長が他人に暴力を振るう「暴君」であったならば、他の有力家臣(例えば羽柴秀吉や柴田勝家、佐久間信盛)も暴力を振るわれていてもおかしくないし、そうした話が複数伝わっていても良いのに存在しない点である。光秀だけが激しい暴行にさらされている。

■重臣・佐久間信盛に対して信長がしたこと

信長に仕えた太田牛一が書いた信長の一代記『信長公記』にも、信長が有力家臣に暴行する場面を見いだすことはできない。

信長は重臣の佐久間信盛を天正8年(1580)に高野山に追放しているが、その時も19カ条もの「折檻状」(怒りの書状)を送り、遠国へ追放しただけである。暴行を加えたわけではない。(暴行が良いか、追放が良いかというのは微妙な問題ではあるが……)

「長篠合戦図屏風」(成瀬家本)より佐久間右衛門信成(盛)
「長篠合戦図屏風」(成瀬家本)より佐久間右衛門信盛[画像=中央公論社『普及版 戦国合戦絵屏風集成 第一巻 川中島合戦図 長篠合戦図』(1988)/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons]

ちなみに、信長が信盛をなぜ追放したのかというと、折檻状の第1条に記されているのが「佐久間信盛・信栄父子が、5年間もの間、(大坂石山本願寺攻めのため)天王寺に在城している間、良い武勲が一つもなかった。このことについて、世の人々が不審に思うのは当然だ。私もそれについて思い当たることがあるが、無念さは言いようがない」との理由だ。

第2条にも、信盛の本願寺攻めにおける怠慢を非難する内容なので、信長が信盛を追放した訳は、本願寺攻めに関連することと考えられよう。

■「折檻状」に書かれていたこと

この折檻状の中には、家康に関わることも書かれている。その一つは、家康の伯父・水野信元(家康の母・於大の方の異母兄)に関連することだ。水野信元は、天正3年(1575)、武田勝頼に内応した疑いをかけられ、信長の命令により、殺害されたといわれている。

水野氏は三河刈谷を本拠としていたが、その跡は、佐久間信盛が申し付けられた。ところが、折檻状によると、信盛は家臣を増やそうとせず、水野旧臣を追放し、その所領を自らのものとして私腹を肥やしていたという。山崎(京都府乙訓郡)においても、信盛は同様のことをしていたようで「刈谷の処置と同様だ」と信長の怒りを買っている。

さらに、家康に関連する別の内容としては、元亀3年(1572)12月、織田・徳川連合軍と武田信玄軍が激突した三方ヶ原の戦い(静岡県浜松市)に関するものがある。佐久間信盛は、家康軍の平手汎秀・水野信元らと共に徳川の援軍として派遣されていた。

が、信長が言うには、佐久間信盛は三方ヶ原において「身内の者は一人も死なせず、逃げ帰り、平手汎秀を見捨てて死なせ、平気な顔をしている」という。

信盛からしたら何年も前のことを(今更言われても)という気分だったろうが、信長は折檻状において、何年も前のことを持ち出して、信盛を批判している。

■言葉で怒るだけで、手は出ていない

天正元年(1573)の越前・朝倉氏攻めに関することもその一つであろう。信長はかねて、諸将に「好機を逃さず、覚悟して攻めかかるように」と注意していた。ところが、諸将は油断して、信長が先発する事態となる。慌てて主君の後を追う諸将に対し、信長は「お前たちの失態、許し難い」と怒る。

羽柴秀吉や柴田勝家、滝川一益ら織田家臣は「面目ございません」と謝罪したのに対し、一人、信盛だけが「我々ほどの優れた家臣をお持ちになることは、滅多にあるまいものを」と涙を流して主張した。

信長は「才知が優れていることを自慢しているのか。何をもってそう言えるのか。片腹痛い」と詰問、機嫌を損ねる。その時のことを、信長は折檻状で、信盛の抗弁により「私は面目を失った」と再び責めるのである。

注目すべきは、信長は信盛が抗弁した時も、言葉で怒るだけで、手は出ていないことだ。命のやり取りをする戦場での出来事、俗書に記された光秀の「失言」「失敗」とは比べ物にならない。そうであるのに、信長は暴力を振るっていないのである。

同年、信長は家老の林佐渡守や、安藤伊賀守、丹羽右近を、謀反を企てたとして追放しているが、暴力を振るったという記述はない。ましてや、明智光秀に暴行したという文章も『信長公記』には見られない。

■天下をとる絶好の機会

『信長公記』を読んでいくと、信長は、確かに執念深く怒りやすいところはあったことは分かる(しかし、故なくして怒るのではなく、しっかりとした理由はあったが)。それとともに、家臣に暴力を振るうような人間ではないことも同時に読み取れるのである。

信長が光秀に暴力を振るったことが本能寺の変の要因となったとする説を唱える研究者がいるが、私は以上の理由から折檻説には否定的だ。もっと他の理由があると考えている。

光秀が起こした本能寺の変は、事件後の光秀の対応を見ても、半年前や数年前から計画されたようなものではないだろう。信長・信忠親子が京都にいる、また織田家の諸将は遠方という状況を狙って突発的に起こしたとみて良いと筆者は考えている。

ちなみに『信長公記』は、光秀は「信長を討ち果たし、天下の主になろう」として挙兵したと書く。天下の主になりたい、つまり野望説を採用している。

信長と対面した宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』においては、光秀のことを「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」と記している。

光秀の武功については、信長も「天下の面目をほどこした」(『信長公記』)と称賛している。織田家の生え抜きでもないのに、ここまで出世したということは、秀吉と同じく光秀も只者でないことを示している。

時機を窺い、信長を急襲し、自らが天下の主となる野心を抱いたとしても不思議はない。怒りに任せての復讐ではなく、天下の主となる好機とみて、光秀は挙兵したと筆者は考えている。

本能寺 本堂
本能寺 本堂(画像=+-/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons)

■光秀の悲惨な最期

本能寺の変で信長を討つと同時に、光秀は、都にいた織田信忠(信長の嫡男であり、後継者)を二条御所に襲撃して、これを自刃に追い込む。信長・信忠親子を殺し、都を押さえた後、光秀は近江国坂本城に入り、近江を平定せんとした。

6月8日には安土をたち、都に戻る。光秀は、親族の細川幽斎(幽斎の子・忠興に、光秀の娘・玉が嫁いでいた)を味方に付けようとしたが、幽斎父子は信長への弔意を示し、光秀の要請には応じなかった。

そうしている間にも、織田重臣・羽柴秀吉は本能寺の変を知り、出征先の中国地方から舞い戻ってきた。主君の仇・光秀を討つためである。明智軍と秀吉軍は激突(山崎の戦い=6月13日)するも、明智軍は敗北。光秀は逃亡の途上で、落武者狩りにあい、落命したと伝わる。

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(作家 濱田 浩一郎)

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