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薩摩藩がもみ消した黒歴史…明治維新の直前に殺された「もう一人の坂本龍馬」をご存じか

プレジデントオンライン / 2022年9月25日 9時15分

赤松小三郎(画像提供=上田市立博物館)

明治維新直前に暗殺された「もう一人の坂本龍馬」がいたことをご存じだろうか。歴史家の安藤優一郎さんは「上田藩士の兵学者・赤松小三郎は龍馬の4歳年上。龍馬が構想した大政奉還をいち早く訴えていたが、薩摩藩に暗殺され、幕末史から消された」という――。

■坂本龍馬の一歩先を行っていた「信州の龍馬」

最後の将軍徳川慶喜が朝廷に大政を奉還したのは土佐藩が大政奉還建白書を差し出したからだが、そこで名前が必ず挙がってくるのが坂本龍馬である。

大政奉還の仕掛け人であった龍馬は幕府消滅後の新政体の構想も温めており、暗殺される直前に作成した「新政府綱領八策」では議会制度の導入を提起している。

だが、龍馬よりも早く、同様の構想をもって幕府や薩摩藩などの間を周旋して回った人物がいた。龍馬よりも四才年上にあたる、上田藩士で兵学者の赤松小三郎である。

その新政体案は、同時代の先覚者の誰よりも先進的で、具体的な内容を伴っていた。それゆえ、近年とみに注目が集まっている。

龍馬と小三郎は共通点が少なくない。二人とも勝海舟の門人であり、薩摩藩とも縁が深かった。京都で非業の死を遂げたことも同じである。龍馬に約二カ月先立つ形で、慶応三年九月三日にこの世を去る。享年三十七であった。

龍馬の一歩先を行っていた知られざる幕末の先覚者赤松小三郎が果たした歴史的役割を、龍馬と比較しながら考えてみたい。

■兵学者から憂国の士に変身した赤松小三郎

天保二年、上田藩士の家に生まれた小三郎は十八才の時に江戸へ出て、研鑽を積んでいる。数学が得意だった小三郎は蘭学そして兵学を学び、海舟にも入門した。その伝手で、安政二年からは長崎の海軍操練所で学ぶこともでき、オランダ兵書も翻訳もしている。

上田藩に戻ると藩の軍制改革に携わるが、切迫する時局への危機感から国事への関心を強める。元治元年からは藩命により開港地横浜で武器弾薬の調達にあたる一方で、イギリス公使館付武官との交流を深め、英語そして英式兵制を学んだ。

小三郎は同時代人の福沢諭吉のように洋行の機会には恵まれなかったが、長崎でオランダ軍人、横浜ではイギリス軍人と直接話す機会を得たことは実に貴重だった。軍事知識はもちろん、西洋社会に関する知識を深めることができたからである。後に幕府などに建白することになる新政体案を練り上げる素地ともなった。

慶応二年三月には、卓越した語学力を活かして『英国歩兵練法』(五編八冊)を刊行する。イギリス陸軍の歩兵操典を翻訳したものだが、薩摩藩など英式兵制を導入する藩が増えていたこともあり、小三郎は一躍注目されるようになる。

■薩摩藩を英式兵制で強化

折しも、第二次長州征伐がはじまろうとしていた。六月に開戦となるが、幕府は苦戦し、敗色濃厚となる。危機感をさらに強めた小三郎は、イギリスなどをモデルとした軍制改革、身分制度に捉われない人材の登用を求める建白書を幕府と上田藩に提出し、憂国の士として政治活動にも踏み出した。

その一方、京都で英式兵制を教授する兵学塾を開いたが、講義内容は政治論にまで及んだ。他藩の依頼に応え、英式兵制に基づく調練も指導している。

上田藩士でありながら、藩の枠を越えた活動を開始したのだ。そして藩の帰国命令にも従わず、在京を続ける。帰国しては、国事に奔走できなくなるからである。

そんな小三郎に特に注目したのは、英式兵制で軍事力強化をはかる薩摩藩だった。京都藩邸内に創設した兵学塾への出講そして英式調練の指導を依頼した。小三郎が手塩に掛けたことで薩摩藩の軍事力はレベルアップした。戊辰戦争でそれは証明される。

鳥羽伏見の戦い(写真=Unknown author/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
鳥羽・伏見の戦い(写真=Unknown author/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

かたや龍馬の方だが、薩摩藩に保護され、その意を受けて長州藩との交渉役などを勤めた。そうした活動がいわゆる薩長同盟へとつながる。

その後は土佐藩からの委託を受け、その外郭団体としての顔を持つ海援隊を率いたことはよく知られているだろう。ただ、小三郎に比べると、藩のバックアップを受けて活動している観は否めない。

■議会制度の導入を訴えて奔走

小三郎や龍馬にとり運命の年となる慶応三年は大政奉還により幕府が消滅し、天皇をトップとする新政府が誕生した年だが、大政奉還の半年近く前から、幕府に代わる新政体への移行が議論されていたことはあまり知られていない。

この年の五月に、京都で薩摩藩主導による四侯会議が開かれる。国政進出を目指す雄藩と称された有力諸藩を代表し、薩摩・福井・土佐・宇和島藩の四侯が京都に集結したのだ。

その政治力を誇示することで、最終的には国政の決定権を将軍から諸侯会議に移すことを慶喜に迫る狙いが秘められた会議であった、要するに、幕府の消滅を目指した政治運動に他ならない。

同じ五月、薩摩藩に出入りしていた小三郎は、議会制度の導入により公議・公論を国政に反映させることを趣旨とする新政体案を、四侯のうち薩摩藩の島津久光、福井藩の松平春嶽に建白した。

幕府にも建白しているが、立案にあたっては福沢諭吉のベストセラー『西洋事情』が参考にされた。西洋の政治や経済などの解説書である『西洋事情』ではアメリカの二院制議会の実態がわかりやすく紹介されており、これを参考に新政体案を提案したのである。

■脚光を浴びた小三郎の改革案

この建白書七箇条では三権分立の思想のもと、選挙で選ばれた議員から構成される議政局(上局と下局)の創設が説かれている。

上局には公卿や諸大名、旗本から選挙で選ばれた三十人の議員が、交代で首都に詰める。下局には道理に明るい者として諸国から数人ずつ選挙で選ばれた計百三十人の議員が、三分の一ずつ首都に詰める。

議政局で決議されたことは朝廷の許可を得て国内に布告されるが、朝廷が反対した場合は議政局で再評議の上、先の決議が至当と判断されれば朝廷に届け出て、そのまま布告する。

議政局の決議は朝廷よりも勝るとしたが、これは『西洋事情』で紹介されたアメリカの政治制度がモデルである。上院・下院で成立した法令は大統領が署名することで公布されるが、署名を拒否されても両院で三分の二以上の賛成があれば公布されるシステムをそのまま取り入れたものだった。

米国国会議事堂
写真=iStock.com/uschools
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/uschools

小三郎の政体案は大いに関心を呼ぶ。幕府に提出された建白書が諸藩の間で筆写されたほどであった。それだけ、幕府消滅後の政治体制への関心が高まっていた。

■大政奉還をめぐる各藩の思惑

小三郎としては、自分の政体案が慶喜や四侯の間で議論され、念願する議会政治への道筋が開かれることを望んだが、目論見通りにはいかなかった。慶喜は国政の決定権を諸侯会議に移行させることに応じず、薩摩藩の目論見が挫折したからである。

四侯会議の失敗を受け、薩摩藩は長州藩との連合により、慶喜から征夷大将軍職を剥奪(はくだつ)して諸侯の列に格下げした後、朝廷のもとで開かれる諸侯会議で国家の大事を決めることを目指した。そのためには武力発動も辞さないことも覚悟する。

一方、土佐藩は大政奉還論をもって臨もうとしていた。慶喜が大政を朝廷に奉還して将軍職を辞することで、幕府をみずから消滅させた後、天皇をトップとする新体制のもと議会制度を導入する国政改革案である。

この大政奉還論をもって藩論をまとめ、四侯会議後の政局に乗り出そうとしたのが、土佐藩重役の後藤象二郎である。その知恵袋として京都に登場するのが龍馬だった。

長州藩との連合により、慶喜から将軍職を剥奪しようとした薩摩藩であったが、土佐藩の大政奉還論に相乗りすることを決める。薩摩藩の目的は慶喜から将軍職を剥奪することであり、慶喜が大政奉還を呑んで将軍職を辞してくれればそれで良かった。

■龍馬も参考にしていた?

六月、坂本龍馬・中岡慎太郎の立ち会いのもと、薩摩藩と土佐藩の間でいわゆる薩土盟約七箇条が締結された。慶喜が諸侯の列に降りた後の国政は朝廷が担い、京都に樹立される議事院で制度や法律を制定する。

議事院は上院・下院から構成され、上院の議事官は公卿や諸大名が当てられ、下院の議事官は藩士や庶民から選挙で選ばれるという内容だった。議事院は議会、議事官は議員を指すのは言うまでもない。

この内容は、六月に入ってから長崎より海路上京した龍馬が船中で後藤に示した「船中八策」が反映されているというのが定説だ。

だが、議政局を議事院、上局・下局を上院・下院と読み換えれば、二院制議会の導入や議員選出方法など、小三郎の建白書を参考にして作成されたことは明らかだろう。

小三郎の建白書は四侯の一人である土佐藩の山内容堂には提出されていないが、久光や春嶽を通して知っていたことは充分に考えられる。というよりも、小三郎が建白書を提出した薩摩藩との協議で作成された盟約であるから、文章化の際に参考されたと考えるのが自然だ。諸藩の間でも写しも出回っていたことは既に述べたとおりである。

時系列からすると、「船中八策」よりも前に、小三郎は幕府消滅後の新政体案を開陳していた。龍馬や薩摩・土佐藩の先を行っていたのである。そもそも、「船中八策」は後世に創作されたものと近年では指摘されている。

坂本龍馬(出典=国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
坂本龍馬(出典=国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

■薩摩藩に疎まれ、龍馬に先立ち暗殺される

小三郎が建白書で示した新政体案は薩土盟約に取り入れられた可能性が高かったが、土佐藩の大政奉還路線に相乗りした薩摩藩では、八月に入ると強硬路線が台頭する。慶喜の大政奉還を待つことなく、武力をもって慶喜を将軍の座から引きずりおろそうという武力倒幕論が西郷隆盛を中心に唱えられる。京都は開戦前夜の様相を呈した。

これを憂いた小三郎は内戦を回避するため、西郷を説得するとともに、慶喜の側近である若年寄格永井尚志や目付梅沢孫太郎と談合している。戦争を経ることなく、自分が唱えた新政体に移行するようを双方に説いたのではないか。

安藤優一郎『幕末の先覚者 赤松小三郎』(平凡社新書)
安藤優一郎『幕末の先覚者 赤松小三郎』(平凡社新書)

実は、小三郎の名は幕府にも知られており、慶喜に拝謁したと伝えられる。一介の藩士の身でありながら、幕府や薩摩藩に出入りする立場を活かして内戦の回避をはかったのである。

小三郎が藩士に対して調練の指導をしていたのは薩摩藩だけではなかった。慶喜を支える政敵会津藩にも出入りして調練を指導していた。

当時は一触即発の状態にあった薩摩・会津藩に軍事教官として出入りしたわけだが、これが命取りとなる。開戦の危機が近付くにつれ、軍事機密が幕府や会津藩に漏洩する危険性を薩摩藩が強く感じはじめたのだ。

そうしたさなか、上田藩は小三郎に帰国を厳命する。藩士が幕府や会津藩と薩摩藩との争いに巻き込まれるのを危惧したのだ。止むなく小三郎は帰国を決意するが、これが引き金となる形で、薩摩藩は幕府が放ったスパイの嫌疑をかけ、攘夷の志士による天誅に偽装する形で小三郎を暗殺してしまう。

■薩長に消された幕末の「先覚者」

小三郎はその後の大政奉還をみることなく、非業の死を遂げた。スカウトした小三郎の命をみずから奪ったことは、薩摩藩にとって触れられたくない歴史となった。薩摩・長州藩を主役とする幕末史からは存在自体が意識的に消され、注目を浴びにくくなっていることは否めない。

しかし、小三郎が龍馬や薩摩藩などをリードする形で幕府消滅後の政治体制を提起していたことは、遺された建白書からも明らかである。その先見の明は、幕府や薩摩藩など有力諸藩からも注目された。

龍馬に先立つ形で非業の死を遂げた上田藩士赤松小三郎の生涯に注目することで、薩摩・長州・土佐藩や幕府・会津藩が主役の幕末史に新たな光を当てることができるのである。

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安藤 優一郎(あんどう・ゆういちろう)
歴史家
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『明治維新 隠された真実』『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書)、『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『越前福井藩主 松平春嶽』(平凡社新書)などがある。

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(歴史家 安藤 優一郎)

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