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毎年200人のホームレスを社会復帰…それでも「鬼平」長谷川平蔵が出世できなかった残念な理由【2022編集部セレクション】

プレジデントオンライン / 2022年10月16日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Josiah S

2022年上半期(1月~6月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2022年4月21日)
時代小説『鬼平犯科帳』の主人公、長谷川平蔵は江戸の治安を守る「火付盗賊改」を務めた実在の人物だ。後世になっても取り上げられる魅力とは何なのか。歴史学者の山本博文さんの著書『江戸の組織人』(朝日新書)より、彼の功績を紹介しよう――。

※本稿は、山本博文『江戸の組織人』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

■関東の農村から江戸に集まった窮民をどうするか

18世紀中頃以降、江戸では「無宿」の流入という問題に直面した。関東農村の荒廃、天災、飢饉(ききん)などにより、生まれた村を離れて江戸に来る窮民が続出していたのである。

「無宿」とは、江戸時代の戸籍にあたる「宗門人別改帳」から除かれた行方不明者を言う。天明7(1787)年5月、江戸で大規模な打ちこわしがあり、翌月に松平定信が老中首座(筆頭老中)に就任した。定信が直面したのは、無宿の増大に対していかに対処するかという課題であった。

定信は、評定所一座(寺社奉行・町奉行・勘定奉行らで構成した老中の諮問機関)に、無宿対策を諮問した。

これまで無宿は、「狩込」と称して捕縛し、差別された人々の集団に送っていた。しかし、多数の死者が出るなど好ましい状況ではなかったので、定信は、無宿を伊豆七島に送るなり、出身地の大名に引き渡すなりの方策を考えた。

しかし、評定所一座は、伊豆七島へ送るのは収容能力に問題があり、島の者も困る、大名も無宿の受け取りには難色を示すなどと、否定的な意見を上申した。

■江戸の治安回復のために2つの無宿対策を提案

定信は、評定所一座を見限り、寛政元(1789)年の秋から冬にかけ、広く幕臣に意見を聴取した。そこで手をあげたのが、火付盗賊改の長谷川平蔵だった。

火付盗賊改は、放火犯や強盗を検挙するだけでなく、日常江戸市中を見回り、火の用心を周知させ、窃盗犯などの検挙も任務としていた。そのため、平蔵は犯罪に関与する無宿の実態に委しく、これを放置していては江戸の治安は回復できないことを痛感していた。

平蔵は、定信に無宿対策を自分が試みてみたいと上申し、意見書を提出した。その骨子は、無宿を集めて作業を課し、職業を習得させること、及び作業と並行して精神的な教育を行うこと、の2点であった。

■職業訓練の賃金は社会復帰に向けて積み立て

定信は、これを許可し、石川大隅守の屋敷がある石川島と佃島の間の中洲を無宿の収容所用地として平蔵に与えた。名称は「加役方人足寄場」と決まった。

「加役」とは火付盗賊改を指し、加役が預かる「人足」の収容所という意味である。「無宿」という名称を使わなかったのは、無宿の更生をめざしたものだったからであろう。平蔵は、無宿に職業を習得させ、社会に復帰させようと考えていたのである。

平蔵は、まず葦が生える中洲の埋め立てから始めなければならなかった。資材は普請奉行から提供されたが、人足には無宿を使い、多大の持ち出しをして土地の造成をした。

寛政2(1790)年2月21日、町奉行から平蔵に22名の無宿が引き渡され、その後も続々と無宿が収容されていった。

人足寄場では、大工、左官、炭団作り、草履作り、紙漉、藁細工などの職人仕事を教え、覚えられない者には力仕事を与え、百姓を望む者には農業もさせた。

紙漉は、勘定所の反古紙を漉き返した。収容者だけではうまくいかず、職人を呼んで漉かせ、江戸市中に売った。これは「島紙」と言って評判がよかった。炭団も良質な材料を使っていたため、よく売れたという。

こうした仕事は、強制労働ではなく、対価として賃金を与え、寄場を出たあとの生活資金とさせるため積み立てられた。

下駄を履いた高齢者の足
写真=iStock.com/Yue_
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yue_

■ポケットマネーまで投じた人足寄場の成果

教育の面では、個人の道徳の実践を説く「心学」が採用された。中沢道二という心学者を寄場に派遣し、月3回心学講話を聞かせた。仁義忠孝の道などの話のほか、「堪忍」することが大切だと教えた。

これを聞いた人足の中に、外出して口論し、顔に2カ所傷付けられながら我慢して帰ってきた者がいた。翌日、相手が詫びてきてそれが分かり、お上から褒美として2貫文を与えられるという美談もあった。

長谷川平蔵は、人足寄場に精力を傾けた。幕府が付けてくれた予算は最低限のものだったので、私財を投じてその運営にあたった。自分が設立した人足寄場を、意地でも成功させようと思っていたのだろう。

寄場の収容期間はとりあえず3年を原則としていたが、平蔵の努力の甲斐あって、寛政2年5月、最初の出所者14人を社会に送り出した。以後、毎年200人に及ぶ収容者を社会復帰させることになった。

■事業自体は評価されても人事的には評価されず

定信は、人足寄場設立後の江戸の町を見て、

「これによりて今は無宿てふもの至て稀也。已前は町々の橋のある処へは、その橋の左右につらなりて居りしが、今はなし。ここによりて盗賊なども減じぬ」

と書き、「いずれ長谷川の功なりける」と評価している(『宇下人言』岩波文庫)。

しかし、平蔵は、これほどの功績をあげながら、火付盗賊改から遠国奉行などに昇進することはなく、同4年には人足寄場取扱の職も免じられた。

定信を始めとする幕閣は、無宿の減少という功績は認めながら、幕臣として、あるいは武士として平蔵を評価し、それに応じた処遇をすることはなかったのである。

無宿の現実に直面し、彼らを救うために、現場で奮闘した平蔵の多大な努力が無視されたのは残念だが、現在まで名を残しているのは平蔵の方である。

■江戸の庶民の願いは「平蔵様を町奉行に」

天明7(1787)年に火付盗賊改の当分加役に任じられた平蔵は、翌年10月、加役本役となり、その後長く本役を務めた。長谷川家は知行四百石の両番家筋で、父宣雄は京都町奉行を務めているので、平蔵も遠国奉行に昇進する可能性はあった。

寛政元(1789)年9月、南町奉行のポストがあいた。平蔵には期するところがあったが、京都町奉行池田筑後守が昇進した。

同3年12月、今度は北町奉行が空席になった。この時は、江戸の庶民まで、是非平蔵様が町奉行になってほしいと期待した。しかし、大坂町奉行の小田切土佐守が呼び戻されて町奉行になり、空席となった大坂町奉行にも任じられなかった。

この時、幕閣が「長谷川は目付を務めていないので、町奉行にはできない」と言ったという噂が流れている。小田切も目付は務めていなかったが、知行三千石で駿府町奉行、大坂町奉行を歴任している。

町奉行は勘定奉行、下三奉行(普請奉行・作事奉行・小普請奉行)、遠国奉行から栄転するのが一般的だから、平蔵が町奉行になれなかったのも仕方がなかった。

しかし、両番筋の旗本である平蔵が、遠国奉行になる可能性は開かれていたはずである。平蔵も、強く出世を望んでいた。なぜ、平蔵にその話が来なかったのだろうか。

■人気ぶりがあだとなり、嫉妬を集めてしまった

一つには、火付盗賊改という役が、あまりに平蔵にはまりすぎ、余人をもって代え難いという印象を与えたことがあげられるだろう。平蔵以上の人材を、他の先手頭から選ぶことは難しかったという事情は確かにあった。

山本博文『江戸の組織人』(朝日新書)
山本博文『江戸の組織人』(朝日新書)

しかし、2、3年ならともかく、足かけ5年も務めれば、当然、遠国奉行への栄転があってしかるべきだった。そうならなかったのは、平蔵が大盗賊を一人ならず捕らえるという華々しい活躍をし、あまりに江戸の庶民の人気を集めたことが理由ではなかっただろうか。

そのため、平蔵の活躍も、犯罪者まがいの者を手下として使ういかがわしいやり口のように言われ、人足寄場を成功させるため銭相場に手を出したことも、「長谷川は山師だ」というような悪い噂のもとになった。

職務に忠実なあまりについやりすぎたことが、平蔵の業績に嫉妬する者にとって昇進を抑える格好の口実になったのである。

こうして平蔵は、現職のまま、寛政7(1795)年5月10日、享年51にして病没した。火付盗賊改の在任期間は、本役だけでも7年の長きに及ぶ。

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山本 博文(やまもと・ひろふみ)
歴史学者
1957年、岡山県生まれ。東京大学文学部国史学科卒業。文学博士。東京大学史料編纂所教授などを勤めた。1992年『江戸お留守居役の日記』で第40回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。著書に『日本史の一級史料』(光文社新書)、『歴史をつかむ技法』(新潮新書)、『流れをつかむ日本史』『武士の人事』(角川新書)など多数。共著に『人事の日本史』(朝日新書)。NHK Eテレ「知恵泉」を始め、テレビやラジオにも数多く出演した。2020年逝去。

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(歴史学者 山本 博文)

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