だから母を失った父は認知症になった…まったく家事のできない独居男性が次々とボケていく根本原因
プレジデントオンライン / 2023年1月27日 17時15分
※本文内の旧字を一部新字体にし、ルビを振っている箇所があります。
■スーパーの前で徘徊する認知症の老人
その3日後、私は車で実家に向かった。弟夫婦や毎朝来る「定期巡回・随時対応型訪問介護看護」のスタッフからも「異常なし」という報告を受けており、ひとまずは安心していたのである。
スーパーの前を通り過ぎようとすると、入口付近にリュックサックを背負った父が立っており、私はびっくりしてブレーキを踏んだ。ぽかんと呆然とした表情の父。まるで徘徊(はいかい)する認知症の老人のようではないか。実際、認知症の老人なのだが。
――お父さん!
遠くから声をかけると、父が顔を上げた。
――どうしたの?
「いや、どうしたもこうしたも、お母ちゃんがさ」
――お母さんが?
「出てこないんだよ。さっきからずっと待ってるんだけっども」
父は母を待っていた。その佇まいは飼い主を待っている犬のようだった。以前もこうして買い物をしていたのだろう。
――お母さんはウチだよ。
咄嗟に私がそう言うと、父は目を丸くした。
「そうなのか?」
――そう。ウチにいるから。だから帰ろうよ。
「なんだそうなのか。なんだなんだ、てっきり俺はまだかまだかと思っててさ。でもあれだね、よくわかったね」
――何が?
「いや、俺のこと」
自分を指差す父。
――わかるよ。だってお父さんじゃん。
「えっ、そうかい?」
――そうだよ。
■父の背中は洗濯板のように硬かった
私は父を抱きしめ、すっかり冷えている背中をさすった。骨ばった背中は洗濯板のように硬かった。考えてみれば、父はいつも何かを待っていた。ボケは待ちボケというべきか、何を待っているのかわからず、待ち切れずに外に出て、外で待つ。待つことで世界を取り戻そうとしているかのようなのである。実際、私と歩き始めるといつもの調子を取り戻したようで、「見て、この景色」「最高!」などと叫び、みるみるうちに顔が赤らんできた。
■食事を「片付ける」ことで「食べた」気になっている父
「ただいま」
私はそう声をかけて家に入った。母がウチにいるという設定なのだが、なぜか父は家には入らず、庭のまわりをうろうろした。とり急ぎ、私は冷蔵庫を開けてみた。すると数日前に用意していった経口流動食「メイバランス」やパン類がほとんどそのまま置かれている。その後に弟夫婦が追加した食材もそのまま。
「定期巡回」のスタッフが出してくれた食事もそのまま冷蔵庫に戻してある。冷蔵庫には新聞や急須まで入っており、急須の蓋を開けて見ると、中にはオリーブオイルが満タンに入っていた。大好物のあんパンだけは食べたようで、その空袋がなぜか換気扇の紐に縛りつけられていたのである。
おそらく父は食事を片付けたのだろう。父にとっては「食べる」と「片付ける」はほぼ同義で、こうして片付けることで食べた気になっているのかもしれない。
――何か食べた?
私が問うと、父が首を振る。
「なんにも」
――なんにも食べてないの?
「なんにも食べてない。なんにもしてない」
――ダメじゃん。
私は思い切り否定した。妻を見習ったつもりだが、迫力が足りないのか、まったく反応がなく、こう言い換えた。
――ちゃんと食べてください、って田中先生も言っていたよ。
田中先生とはかかりつけの診療所の医師の名前である。ケアマネジャーの小暮さんによると、認知症は権威に弱いとのこと。病院の医師や白衣にも弱いそうで、困った時は「田中先生が言っていた」というフレーズが有効らしいのである。
■好物の肉豆腐丼に歓声をあげた父
「田中先生が?」
――そう。エミちゃんも言ってたし。
権威ついでに妻の名前も繰り出すと、父はぽかんと口を開けた。開いた口に放り込むように父の妹である「ウタちゃんも言ってたよ」と続けた。父の中に人を増やす。力のある存在を植えつけることで、行動変容を起こすのだ。哲学的には自己意識における「他在」の問題になるのかもしれないが、話しぶりとしては誰がどうしたという単なる世間話である。認知症に限らず人は世間話で動く。自らの主義主張より世間に合わせる。世間に合わせていることを忘れて主義主張を持ったつもりになるだけなのだ。
などと考えながら私は冷凍ごはんをチンしつつ、フライパンで豆腐を焼いて肉豆腐のタレをからませ、父の好物である肉豆腐丼をつくった。
「うわーっ、おいしそう!」
父は歓声をあげた。
――さあ、食べて。
「いいの? いっちゃっていいの?」
――いいよ。遠慮しないで。いっちゃって。
「そんなこと言わないでよ」
妙に絡む父。
――食べて。
「だから半分こ、しようよ」
そう言って父は肉豆腐丼をふたつに切り分けようとした。
■「食べるふり」でようやく肉豆腐丼を口に運んだ
「いや、全部食べて」「いやいや、半分こ、しようよ」「俺は食べてきたから」「そんなこと言わないで」などというやりとりの後、やむなく私は半分を別皿に移した。父はスプーンを持ったまま「しずかだね。どうしてこんなにしずかなの?」などと語り始め、一向に食べようとしないので、私は父の正面に座り、大袈裟なジェスチャーで食べて見せることにした。
催眠療法でいう「ミラーリング」である。鏡のように相手の動きを真似することで、心身を同調させるという手法。自分が鏡となって相手を映しているかのように動くことで相手の動きを引き出そうと考えたのだ。私が「あ、これ、おいしいね」「おいしいよ、お父さん」などと言いながら食べ始めると、父はいつものようにスプーンで肉豆腐丼を完全にクラッシュした。それを固めて成型し、表面をケーキのように滑らかに仕上げ、削りながら口に運んだのである。
「うまい! 最高!」
そう言って父は完食し、私は洗い物をしながら深い溜め息をついた。
父はこうされることをずっと待っていたのか。認知症の食事介助は、ここまでサポートしなければならないのだろうか。
■父は「家父長制型認知症」
これは認知症というより長年の習慣だろう。母は毎日欠かさず三食を用意し、父に給仕していた。かれこれ60年にわたって続けてきた習慣で、父にとって食事とは「食べる」というより母の給仕を受けること。母の前に「座る」ことなのだ。
この習慣こそ認知症の原因ではないだろうか。家事を一切せず、外でお金を稼ぐだけで、あとはすべて母任せ。いわゆる家父長制が認知症を招いている。父はアルツハイマー型というより家父長制型認知症といえるのではないだろうか。
認知症の診断基準のひとつであるDSM-5によれば、認知症とは「認知機能の低下」「認知行為の障害」(『認知症疾患診療ガイドライン 2017』日本神経学会監修 医学書院 2017年 以下同)であり、具体的には「毎日の活動において、認知欠損が自立を阻害する」こと。
つまり認知欠損によって自立した生活が営めないということである。その認知欠損とは「せん妄の状況でのみ起こるものではない」「他の精神疾患によってうまく説明されない」とのこと。せん妄やうつ病、統合失調症などの精神疾患では説明できない認知欠損ということなのだが、家父長制なら説明がつくのではないだろうか。
日本の診断基準でも認知症の本質とは、「いままでの暮らしができなくなること」(長谷川和夫、猪熊律子著『ボクはやっと認知症のことがわかった』KADOKAWA 2019年 以下同)とされている。「それまで当たり前にできていたことがうまく行なえなくなる」という「暮らしの障害」「生活障害」を認知症と呼ぶそうで、そのまま当てはめると父の認知症は母の死によって発症した。家事を一切してこなかったからこのような事態を招いたわけで、その根本原因は明らかに家父長制なのである。
■家父長制は「認知症に向けたトレーニング」
あらためて調べてみると「家父長制」とは社会学の言葉で、こう定義されていた。
(『社会学辞典』有斐閣 昭和33年 以下同)
この「家父長権」とは「家父長制家族において家長が家族員に対して有する支配的権利」とのこと。家父長権に基づく家父長制という同語反復の定義であり、要するに男子が支配・統率する家族のことである。『近代家族の成立と終焉 新版』(上野千鶴子著 岩波現代文庫 2020年)によると、明治20年代に「主人」と「主婦」という対語が登場したという。これが父たちの世代にも通じる家父長制であり、男子は「主人」として、女子は「主婦」として生きるようになったらしい。確かに「主人」というからには支配する立場のようだが、実際に何をするのかというと――、
(『現代青年少年百科辭典』青少年教育會編 日本博文舘 大正14年 以下同)
主人の主人たるゆえんは、家の細かな事を気にとめないこと。まるで認知症に向けたトレーニングなのである。なんでも「家(いへ)の細小(こまか)なる事業(しごと)を掌(つかさ)どる」のは主婦の役割であり、主人は「大粗(おほまか)」でなければならない。家の者に対しても「細(こま)かなる過失(あやまち)を餘り甚(はなは)だしく責(せ)めざる」、つまり細々と責めたりしてはいけない。そして「一家のものを好(よ)く愛(あい)して嬉(うれ)しく暮(くら)し」、さらには「萬事(ばんじ)喜(よろこ)びを以(もつ)て用事(ようじ)を爲(な)さしむる方(はう)要用(えゝよう)なりとす」とのこと。
■主人は「ぼんくら」「阿呆」でいてこそ主人
つまり主人はいつもハッピーで能天気でなければいけない。能天気ゆえに「自分(じぶん)の思(おも)ふ通(とほ)りに行(おこな)はんとするときは、反(かへつ)て家(いへ)の不祥(ふしやう)(不祥事のこと)を來(きた)す事(こと)あれば、能(よ)く夫婦(ふうふ)親子(おやこ)相談(さうだん)を遂(と)げてなすべし」と戒めている。下手に自分の思い通りにしようとすると失敗すると警告までしているのだ。
つまり「主人」とは実質はぼんくら、あるいは阿呆。まさに父のようなのである。父がよく口にする「なんにもしてない」というフレーズも実はその伝統に則っていたのだ。
■主婦がいなければ主人は生活ができない
一方、「主婦」の役割は国が定めていた。女子は「夫を主人と思ひ、敬ひ愼て事(つかふ)べし」(「女大學」/『日本教育文庫 教科書篇』同文館 明治44年)という教えを受け継ぎ、女子師範学校の家事教科書などには「主婦の心得」として次のように記されている。
(佐方志津、後閑菊野著『女子師範學校 家事教科書 下卷』目黒書店、成美堂 大正6年)
両親の介護から子育て、親戚や友人との付き合い、衣食住すべてを管理し、家計や皆の健康まで責任を負う。さらには「婢僕(使用人)」も仕切るので、「統帥心理」(豐岡茂夫著『女氣質と修養』博文館 明治43年)も必要とされていた。「主婦」というのは、その名のごとく家の「主」だったのである。
すべてを支配しているのは実は主婦のほうで、主婦がいなくなれば主人が生活できなくなるのは必然であり、やはり認知症は制度的に生み出された症状なのだ。
■認知症は母による復讐の一形態だった
かつてトルストイも小説『クロイツェル・ソナタ』の中で結婚生活のことを「男に対する恐ろしい支配」(トルストイ著『クロイツェル・ソナタ 悪魔』原卓也訳 新潮文庫 平成17年改版 以下同)だと指摘していた。制度的には男性が女性を支配しているように見えるが、冷静に考えてみれば世の経済は女性仕様に形成されており、女性たちは「まるで女王のように、人類の九十パーセントを、隷属と重労働の中にとりこにしている」とのこと。
男性と同等の権利を奪われてきたがゆえに、女性たちは「われわれの性欲に働きかけ、われわれを網の中に捕えることによって、復讐する」らしい。男性たちは捕えられたまま馴化(じゅんか)され、網がなくては生きていけなくなるわけで、そうなると認知症も復讐の一形態なのだろうか。
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ノンフィクション作家
1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『にせニッポン人探訪記』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国 ニッポン』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『日本男子♂余れるところ』『定年入門 イキイキしなくちゃダメですか』『悩む人 人生相談のフィロソフィー』『パワースポットはここですね』『一生勝負 マスターズ・オブ・ライフ』など。『はい、泳げません』は長谷川博己、綾瀬はるか共演で映画化、2022年6月全国公開予定。
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(ノンフィクション作家 髙橋 秀実)
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