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かつて日本の男たちはよく泣いていた…軍神・上杉謙信が「平家物語の泣ける話」が大好物だったワケ

プレジデントオンライン / 2023年2月16日 13時15分

「上杉謙信公御肖像」(画像=上杉神社所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

かつて日本の男たちはよく泣いていた。古典エッセイストの大塚ひかりさんは「平安貴族も鎌倉武士も、人前で大声をあげて涙した記録が残っている。また戦国武将の上杉謙信も、平家物語の泣ける箇所を所望し、人前で涙を流していたようだ」という――。

※本稿は、大塚ひかり『ジェンダーレスの日本史 古典で知る驚きの性』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■江戸時代初期の男性は今よりもよく泣いていた

「男泣き」ということばがあります。めったに泣かないはずの男が、こらえきれずに泣くという意味で、手持ちの『日本国語大辞典』(縮刷版第1版第2刷1981年5月20日)には、

「男が泣くこと。女に比べて感情の冷静な男が、堪えかねて泣くこと」

とあって、『好色二代男』(1684)や『日本永代蔵』(1688)といった井原西鶴の作品と、泉鏡花の『化銀杏』(1896)の例文が挙げられています。

これを見ると、少なくとも江戸初期、貞享・元禄時代には、男はあまり泣かないものという観念ができ上がりつつあったように思えるのですが、それでも近代の男と比べると泣いていたらしきことを、民俗学者の柳田國男は指摘しています。

■人前でわんわん泣く老人もいた明治時代

柳田は、男に限らず、「人が泣くといふことは、近年著しく少なくなつて居る」といい、かつて俳諧の中から、男が泣く場面を探してみたことがあるといいます。すると「幾らでも」出てきて、「まだ元禄の頃までは」少なくとも老人はよく泣いていたといいます(ということは、『日本国語大辞典』のあげる西鶴作品は「男泣き」の初出に近いのかもしれません)。

そして、「とにかく私などの五十年間には、子供以外の者に泣かれた経験はもうよつぽどすくないのである。少しはあるけれども大抵は若い頃の出来事である」と、自分の若いころはともかく、近年は子ども以外の者が人前で泣かなくなった、と指摘します(「涕泣史談」『定本柳田國男集』所収)。

「涕泣史談」の初出は昭和16(1941)年。このころには大人は人前ではめったに泣かなくなっていたわけです。そして柳田は明治8(1875)年生まれですから、彼の若いころというと1880年代から1900年代くらいを指すのでしょう。つまりは明治半ばにはまだ老人の中には、人前でわんわん泣く向きが残っていたわけです。

■『源氏物語』光源氏の「見ていて快い」泣きっぷり

気になるのは柳田が、

「今日の有識人(略)は、泣くといふことが一種の表現手段であつたのを、忘れかゝつて居る」

と指摘していることで、確かに平安文学などを読んでいると、人前で泣くことによって自分の意思を表明しているくだりは多々見られます。

たとえば『源氏物語』にはこんなシーンがあります。正妻の葵の上が死に、源氏が葵の上の実家である左大臣邸を退去する際、

「お泣きになる様は胸に迫る感じでいかにも心がこもっていながら、“いとさまよく”(見ていて快く)優美であられる」(「葵」巻)

当時は男が妻の実家に通う、通い婚が基本です。葵の上が死んだため、源氏はもう左大臣邸には通って来ない。それで左大臣邸の人々と別れを惜しんで泣いているのです。その様子がいかにも心がこもっていながら取り乱しもせず、見苦しくない。“いとさまよく”、実に見ていて快い様子であるというのです。

■男も女も泣くべきときに泣かないのは恥ずかしい

泣くべきときに適切に泣くというのは貴族のたしなみでもあったようで、『枕草子』(1000以降)には、“はしたなきもの”(ばつの悪いもの)として、

「しみじみとしたことなどを人が話して涙ぐんだりする時に、なるほど実に心打たれるなどと思って聞きながら“涙のつと出で来ぬ”(涙がさっと出てこない)のは、本当にばつが悪い」(「はしたなきもの」段)

とあります。

男も女も泣くべきときに涙を見せる……それが平安時代の理想の大人だったのです。

■宮中で取っ組み合いのケンカをする息子に涙した父親

平安中期の泣く男というと、現実にはこんなケースがあることを、藤原実資の日記『小右記』が伝えています。

治安元(1021)年12月24日、御仏名(12月19日から3日間、清涼殿で行われる滅罪のための仏事だが、日がずれることもあったか)の際、中宮亮藤原兼房と少納言源経定が口論となって、兼房が経定の冠を打ち落とすと、経定も兼房の冠を落とした。二人は取っ組み合いになり、経定が“凌轢(りょうれき)”(侮り踏みにじること)されたので、経定の父の中納言道方は息子の命を救うよう大納言藤原能信(道長の子。母は源明子)に再三、助けを求めた。

それで能信は御前の座を立って制止したものの、二人は一向に畏れ憚らない。笏(しゃく)で以て二人の肩を打つと、やっとのことで離れた。それぞれ髪は乱れ、僧侶も俗人も見て、非常に奇異の思いを持った。兼房の父中納言兼隆も、経定の父中納言道方も、“涕泣”(声をあげて泣き)し、イベントがまだ終わらぬうちに退出してしまったという(『小右記』治安元年十二月二十五日条)。

被害者の父ばかりか、加害者の父兼隆まで大泣きしているのを奇異に思われるかもしれませんが、実は加害者である兼房というのは札付きの暴力男だったようで、同じ『小右記』寛仁2(1018)年4月には、「小倉百人一首」にもその歌が載る藤原定頼を罵倒し、追いかけていることが記されています(寛仁二年四月二日条)。

■「息子がこんな暴力沙汰を起こして申し訳ない…」

兼隆が声をあげて泣いたのは、こんな暴力息子を持った悲しさ、宮中のイベントで僧俗が注視する中、息子がこのような暴力沙汰を起こしたことの心からの情けなさがまずあったでしょう。

柳田の言う「表現手段」という観点からすると、声をあげて泣くことでそうした感情を周囲に見せ、うちひしがれた父親を演じて見せる、涙によって「誠意」を見せるということも、とくに加害者側の父の心にはあったかもしれません。

ちなみに1021年当時、被害者・経定の年齢は未詳、父の道方は54歳。加害者・兼房は21歳。父の兼隆は37歳です。54と37の大の男が衆目の中、声をあげて泣いていたわけですから、“いとさまよく”泣いた源氏とは対極の見苦しさがあったに違いありません。

■北条政子の命令で頼朝の愛人宅を壊した御家人が受けた仕打ち

とはいえ、平安貴族が泣くというのは現代人のイメージの範疇(はんちゅう)でしょう。

しかし、平安末期、武士も声をあげて泣いていたことが北条氏による歴史書『吾妻鏡』(1300ころ)を読むと分かります。

源頼朝の妻の北条政子が長男の頼家を出産した寿永元(1182)年のこと。

頼朝が亀前という女を寵愛し、伏見冠者広綱の飯島の家に滞在させた。それを、北条時政の妻の牧の方が継子に当たる政子に教えたために、激怒した政子は牧三郎宗親に命じ、広綱の家を破却して、恥辱を与えた(寿永元年十一月十日条)。

それを知った頼朝は怒りのあまり、“手づから”宗親の“髻(もとどり)”を切らせた。そして、

「御台所(政子)を重んじ申し上げることは感心なことだ。ただ、彼女のご命令に従うにしても、こうしたことをなんであらかじめ内々に告げ知らせなかったのか。それをせずにすぐさま恥辱を与えるとは、考え無しの奇怪な企てだ」

頼朝にこう言われると、

“宗親泣きて逃亡す”(同十一月十二日条)

ということになり、それを知った政子の父時政は、頼朝の仕打ちを不快として伊豆に退去してしまいます(同十一月十四日条)。

源頼朝
「伝源頼朝像」(画像=藤原隆信/神護寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■泣いて逃げた武士の心中にはどんな感情があったのか

政子が夫の愛人のいた家を打ち壊させたことは有名な話ですが、政子と頼朝の板挟みにあう形で、頼朝に髻を切られるという屈辱を受けた牧宗親は泣いて逃亡したというんです。それを受けて、今度は時政が伊豆に退去するという騒ぎになる。

牧宗親は牧の方の兄弟です(『吾妻鏡』建久二年十一月十二日条)。時政にしてみれば、娘政子の命令を忠実に果たした、妻の兄弟が、武士の命である髻を切られたのですから、頼朝に対して怒るのは当然です。

それにしても泣いた宗親が当時、何歳であったかは不明ですが、いい大人に違いありません。そんな大人の武士が、「うわぁぁああん」と泣いて逃げ出す様を想像すると、ちょっと可笑しい気持ちもするものの、これもまた頼朝に対する感情の「表現手段」、髻を切られた悲しみと怒り、頼朝を怒らせたことへの申し訳なさなどがないまぜとなった“泣き”であったのかもしれません。

■なぜ「耳なし芳一」の怨霊は「壇浦合戦」を所望したのか

このように古代・中世の男たちは泣いていた。

大塚ひかり『ジェンダーレスの日本史 古典で知る驚きの性』(中公新書ラクレ)
大塚ひかり『ジェンダーレスの日本史 古典で知る驚きの性』(中公新書ラクレ)

泣くことで自己を表現してさえいたのです。

前近代、泣くというのは、今以上の意味があったわけです。

それで思い出すのは、戦国武将の逸話を収めた『常山紀談』(江戸中期)です。

上杉輝虎(謙信)が石坂検校に『平家物語』を語らせ、その「鵺」の段で“しきりに落涙”したとあります。また佐野城主天徳寺(佐野房綱)も琵琶法師に語らせたときに、“あはれなる事”を聞きたいと言って「那須与一」の段等に“雨雫と涙をながして泣”くのです(巻之一)。

ラフカディオ・ハーンの『怪談』に収められた「耳なし芳一のはなし」でも、平家の怨霊は「それがいちばん、哀れの深いところ」(田代三千稔訳)という理由で「壇浦合戦」を所望して激しく泣いたものです。これは『平家物語』が非業の死を遂げた人たちを鎮魂するための物語であるからで、泣くことが死者への共感の意を表す最大の作法だからなのです。

■戦国武将たちは「涙活」の効果を知っていた

泣くという手段で死者に同情と共感を寄せることで死者の魂は鎮まって、聞き手の心もカラダもすっきり、「明日も頑張ろう」という気持ちになるわけです。

上杉謙信や佐野房綱はそのことを重々承知していたからこそ、『平家物語』の語りに思いきり涙を流し、あえて泣ける箇所を所望した。それは鎮魂される側の平家の怨霊も同様で、怨霊たちの無念や口惜しさに、聞く側は涙で応酬、いわば泣くことで怨霊とコミュニケーションする。

泣くことは心を安定させる一種の治療法であり、心のデトックスでもあります。

泣くということは、このようにさまざまな働きや効能がある。それを手放した近代人の心には、何か大きなツケがきているようにも思ってしまいます。

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大塚 ひかり(おおつか・ひかり)
古典エッセイスト
1961年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。古典を題材としたエッセイを多く執筆。著書に『ブス論』『本当はエロかった昔の日本』『女系図で見る驚きの日本史』『くそじじいとくそばばあの日本史』など多数。また『源氏物語』の個人全訳も手がける(全6巻)。趣味は年表作りと系図作り。

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(古典エッセイスト 大塚 ひかり)

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