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世界はもうすぐ終わるのに、バカなみんなはわかっていない…環境保護団体がテロ活動に走る根本原因

プレジデントオンライン / 2023年4月9日 13時30分

ロンドンのペントンヴィル刑務所の前で、収監された仲間の開放を訴えるJSOの活動家たち(2023年2月11日) - 写真=AFP/時事通信フォト

地球温暖化防止をうたう環境保護団体の活動が、欧米を中心に過激化している。明星大学准教授の浜野喬士さんは「世界が終わるかどうかの瀬戸際なのだから、一切の現行の法は無効、あるいはより高い目的のために『踏み越え』ていいと、彼らは考えている」という――。(後編/全2回)

■「環境的黙示録」という強い思い込み

「市民的不服従」を解説した前編に続き、後編の本稿では、ラディカルな活動を展開する「ジャスト・ストップ・オイル(JSO)」や「最後の世代(LG)」といった環境団体の行動を読み解くもうひとつの鍵として「環境的黙示録(Environmental Apocalypse)」という概念を導入してみたい。

黙示録(Apocalypse)あるいは終末論(Eschatology)とは、私たちが世界が終わるその直前、瀬戸際にいる、という思想である。これにはさまざまなバージョンがある。

環境的黙示録とは、おおむね次のように説明できる。「気候変動によって、この現在の世界は終わる/あるいはその瀬戸際に私たちはいる。待っているのは完全な破滅か、救済かである」という主張だ。

環境的黙示録にはさまざまなバージョンがある。第一の分岐点は、世界が終わった後に何が来るのか、についての考え方である。完全な無、あるいは絶望に満ちた新しい世界が来ると説く者もいれば、化石燃料から解放され、あらゆる差別や抑圧が消滅し、肉食が廃止され菜食が普遍化した「真の環境的ユートピア」が来ると主張する者もいる。

さらにそれぞれが描く未来に応じて、「世界の終わりは阻止すべきだ」「いやむしろ加速すべきだ」「人類全体を救うべきだ」「目覚めた一部の民だけを救えばいい」といった、運動の方向性の違いが生じてくる。

しかしいずれにせよ、現在のこの世界がこのままの状態で続くことはない、という認識では、環境的黙示録論者は一致している。われわれに残されているのは、大変革か破滅かの二択であり、かつ世界が終わるかどうかの瀬戸際なのだから、一切の現行の法は無効となる、あるいはより高い目的のために「踏み越え」が可能になると、彼らは考える。

■活動家たちのただならぬ切迫感

JSOやLGのメンバーの証言には、こうした環境的黙示録の傾向が散見される。2022年3月にプレミアリーグのピッチに乱入し、自分をゴールポストに縛りつけた20歳のJSO活動家は、ただならぬ切迫感とともに次のようなコメントを残した。「もし私たちが気候の制御を失うならば、そして私たちは今まさにそこに向かっているわけだが、私たちはすべてのものを、そしてすべての人を危険にさらすことになる」。

ソマリアの埃っぽい景色
写真=iStock.com/Jo Raphael
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Jo Raphael

同年10月、モネの『積みわら』にマッシュポテトの粥をかけたLGのメンバーは、絵の前で次のようにアピールした。「人々が飢えています。人々が凍えています。人々が死んでいます。私たちは気候のカタストロフィの中にいるのです。(中略)あなたがたが耳を傾け、これまで通りのことを続けなくなる時はいったいいつ来るのでしょうか?」。

JSOやLGは、欧州やアメリカ、オーストラリアなどの9団体とともに、「A22ネットワーク(A22 Network)」という連携を作っている。このA22ネットワークの「宣言文」(2022年4月)も、徹頭徹尾、環境的黙示録の雰囲気に満ちている。「われわれは旧世界の最後の世代(Last Generation)である。(中略)旧世界は死にかけている。私たちは最後の時間のうちに、最も暗い時間のうちにいる。(中略)私たちがいま為すことが、この世界と次の世界の運命を決する」。

■過去の環境運動でも見られた思想

いずれにせよJSOやLGのメンバーたちは、ある意味で「感受性」が強く、また「真剣」であるため、ただならぬ形で切羽詰まっている。この切羽詰まり感、危機が目前に迫っているという感情を、ここでは「窮迫性」と呼ぶことにしよう。

この窮迫性は最近になって見られるようになったものではなく、核実験反対運動から出発した初期の「グリーンピース」や、木に釘を打ち込むことで伐採コストを高め(伐採の前に一本一本調査が必要となる)、開発に抵抗するという手法で一世を風靡(ふうび)したラディカル環境団体、「アース・ファースト!(Earth First!)」の環境的選民思想などのうちにも見られた現象である。

■法の踏み越えがむしろ「道徳的義務」に?

さて、「市民的不服従」として許される「法の踏み越え」の範囲は、「窮迫性」の度合いに比例する(少なくともJSOやLGのメンバーの一部はそう考えている)。気候変動をめぐる危機的状況が『旧約聖書』「創世記」の「大洪水」にも相当するものだとすれば、法の踏み越えは、むしろ道徳的義務ないし神学的義務となる。

破壊された街に降る雨
写真=iStock.com/Divaneth-Dias
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Divaneth-Dias

JSOやLGを批判的に見る人(そこには私も含まれる)は、彼らを「おかしな人」たちと考える。しかし気候変動を並々ならぬ「窮迫性」で捉えるJSOやLGのメンバーからすれば、環境的カタストロフィを前にして自分たちと同じような行動をとらぬ人たち(社会の多数派としての「われわれ」)こそが「おかしな人」である。彼らの目には「われわれ」は、「箱舟」を作るノアを「嗤(わら)う」人々、つまりノアの周りに存在していたであろう人々――最終的に大洪水にのみ込まれた人々――のように映るのである。

■運動のキーパーソンの人物像

ロジャー・ハラムについて考えることは、環境的黙示録が市民的不服従をいかに「汚染」しているのかを見極めるための好例になるだろう。彼はXRの実質的創設メンバーの一人であると同時に、JSOの主要メンバーの一人である(彼はTwitterで1万3000人ほどのフォロワーを持ち、YouTubeに自分のチャンネルも開設している)。

1966年生まれのハラムは、もともと小規模な農業経営者だったが、彼の言うところによれば、気候変動により家業は破綻し、その後、環境・平和活動家として運動に関わりつつ、キングス・カレッジ・ロンドンで市民的不服従を研究をしたという。

2019年、彼はヒースロー空港拡張反対運動の一環として、ドローンを空港上空に飛ばそうと計画し、逮捕された。その獄中で書いたのが『若者たちへのアドバイス、君たちは全滅に直面している(Advice to Young People, as you Face Annihilation)』というパンフレットである。

このパンフレットでハラムは市民的不服従やキング牧師などに言及しつつ、自身の来歴についても語るのだが、気候変動とその帰結を語る段になると、記述はまさに環境的黙示録というべきもの、しかもそのもっとも極端なバージョンに変化する。気候変動の破滅的帰結、海面上昇による世界の沿岸部の破綻、食料危機といったかたちで、世界の終わりが窮迫性とともに描かれる。

さらに彼は、政府や企業、中産階級はもちろん、「グリーンピース」やリベラル左派、さらには急進的左派も総否定する。とにかくハラムの考えるかたちでの直接行動以外はすべて滅びの道、全滅の道なのである。

■預言者的な語りで学生を扇動

「人々は店や家に押し入り、持てるだけのものを持ち去り、立ちはだかる者を殺すだろう。社会の崩壊の終着点は、あらゆる都市で、あらゆる地域で、あらゆる通りで演じられる戦争である。これが君たちの世代に起こるであろうことである」――。ハラムがこうした預言者的な語りで引き出そうとしているのは、若者の理性や熟慮ではなく、気候変動への直観的な恐怖、怒り、「窮迫性」なのである。

ハラムはその後、実際に複数の大学で講演活動を行い、JSOに大学生を勧誘した。また2022年1月のグラスゴー大学での講演では、学生たちに対して、気候変動と戦う「革命家にならねばならない」と述べ、扇動したと言われる。

■「法を超えた正義はある」という主張にどう反論するか

JSOやLGを批判するならば、「あなたたちのやっている行為は違法行為だ」という言葉では届かないだろう。というのも彼らは「違法行為上等、法を超えた正義はあるのだ」というスタンスだからである。

むしろこう言うべきである。「あなたたちの活動は市民的不服従の正当化の範囲と歴史を逸脱している、あなたたちの行動は市民的不服従を僭称する偽物だ」と。

このように批判しないと、私たちには、法に抗う余地がなくなる。歴史の各所で見られるように、法も時には暴走する。市民的不服従というカードをまるごと捨ててしまえば、私たちは「悪法もまた法なり」の言葉だけが支配する世界を生きなければならなくなる。

マハトマ・ガンディーは1930年に有名なデモ、「塩の行進」を行い、数万人の逮捕者を出したが、その際彼は伝統的な仕方で塩を作るパフォーマンスを行い、公然とイギリスの塩の専売に反逆してみせた。しかしこの行為も、当時の法律では「犯罪」だったわけである。

私たちが自分たちの世界に、きちんとした形で不正への抵抗の余地を残したいのであれば、市民的不服従の範囲を丁寧に定めつつ、それを確保していくことが必要である。そのためにはJSOやLGに漂う環境的黙示録などの危険な傾向や、市民的不服従の濫用などをきちんと指摘し、彼らの主張に軽々しく共感してみせることや、彼らの行動を擁護することを慎まなくてはならない。

■極論に引き裂かれる社会を救うには

今回の問題について、私は次のことが重要だと考える。

1.まずは議会の中の民主主義にまだできることがあると信じ、立法、政策といった民主主義の王道で粘ってみることを重視するべきだ。

2.次に議会の中の民主主義が機能不全に陥っている場合にやむを得ず行われる、自己抑制的で非暴力的な市民的不服従、つまり、つねに自己が誤っている可能性を疑い、自己点検を怠らない市民的不服従については、正当に評価するべきだ。

3.そして抑制を欠き、自分たちの正義の無謬性を狂信し、カルト的な要素すら含む活動については、そこに市民的不服従の名を認めず、距離をとるべきだ(JSOやLGらの思想的背景を研究することは、ここに貢献することになる)。

これらはすべて「凡庸な」提案である。たが、世間やネットの意見が両極端に振れ、それに埋め尽くされる場合には、「凡庸」は「中庸」に姿を変え、よりよき社会の実現のための一助となるかもしれない。

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浜野 喬士(はまの・たかし)
明星大学准教授
1977年、茨城県生まれ。早稲田大学法学部卒業。早稲田大学大学院文学研究科博士課程にてカント、環境思想、動物論を研究。専門はドイツ近現代哲学、社会思想史、環境思想史。主な著作に『カント「判断力批判」研究』(作品社、2014年)、『エコ・テロリズム』(洋泉社、2009年)などがある。

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(明星大学准教授 浜野 喬士)

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