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行商人になりすまして豪邸や女学校に潜入…明治時代の婦人記者がやっていた"とんでもない取材"の数々

プレジデントオンライン / 2023年7月30日 9時15分

最初の化け込み記者、下山京子の写真 - 出所=『ナショナル』1〈1〉、ナショナル社

明治時代から昭和初期にかけて、さまざまな職業に変装して、知られざる世界の裏側をリポートした女性記者がいた。文筆家の平山亜佐子さんの著書『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)から、一部を紹介しよう――。

■25歳で自伝が出版された“最初の化け込み記者”

1907(明治40)年10月18日、「大阪時事新報(*1)」朝刊に〈家庭視察の命(めい)――変装の苦心――花売りも駄目――上流向の小間物屋――眠られぬ夜の旅情(たびごころ)〉の文字が躍った。婦人記者が雑貨を扱う行商人に化け、上流階級の家庭に潜入するというのだ。

読者の覗き趣味を満たす「化け込み」シリーズ「婦人行商日記 中京(なごや)の家庭」の記念すべき幕開けである。始めたのは「大阪時事新報」の下山京子、最初の化け込み婦人記者である。

京子はこの企画で鮮烈な社会的デビューを飾った。この企画の画期性を知ってもらうには当時の新聞記者の地位および婦人記者をとりまく環境についても触れる必要がある。だが、まずは京子の生い立ちを見てみよう。

京子には自らの半生を綴った著書『一葉草紙(ひとはぞうし)』(玄黄社、1914年)がある。執筆時、なんと25歳。自伝を書くには若すぎるがそれだけ話題の女性だったのである。話題の半分以上は記者を辞めてからのお騒がせ的生き方によるものだがそれについては後述する。

自伝によると京子は1889(明治22)年(*2)に生まれた7人きょうだいの末っ子。生まれは牛込、育ちは左門町、いずれも現在の新宿区という都会っ子である。官省勤めだった父は日清戦争から帰るとすぐ静岡に隠居したため、ほぼ母子家庭。どうもこの母が強烈な人(*3)だったらしい。

長女にあらゆる芸事を仕込み、徳川慶喜(*4)の妾にさせる。末っ子の京子にも踊りや清元(*5)や日本画を習わせる。一方で、家督を継ぐはずの長男は遊郭に出入りする放蕩(ほうとう)息子。お陰で貧乏だったというからギャップが大きい。そのうち頼りの長女と長男が死去。次男は大阪住まい、次女も家庭の主婦とあって、母は京子ひとりを頼るようになる。

(*1)大阪時事新報 1888(明治21)年に福澤諭吉が東京で立ち上げた「時事新報」が、1905(明治38)年大阪に進出して創刊。
(*2)生年は1888(明治21)年、生まれは四谷箪笥町説あり。
(*3)母が強烈な人 「子供の時分は、本所の割下水(江戸時代に開発された排水路)で育った」「夏のお祭り時分には、下屋敷から駕籠で遊びに行った」「三千石の暮らし」という本人の語りと、長女を徳川慶喜の妾にさせた点から松平家の下屋敷(墨田区横網1丁目)に育ったのではないか。
(*4)徳川慶喜 江戸幕府最後の征夷大将軍(第15代)。天皇へ統治権を返上する大政奉還や、新政府軍への江戸開城を行なった。
(*5)清元 主に歌舞伎の伴奏音楽として用いられる、三味線音楽の一種。

■知人の社長に紹介されて新聞記者の道に

女学校を卒業する際、母は京子を尾崎紅葉(*6)の弟子にさせようと伝手(つて)を頼ったものの紅葉が逝去して失敗。その後は「何しろ速記(*7)というものと、何かもう少し勉強して御覧」という母の言葉のもと、京子を佃速記事務所(*8)の夜学と高等師範の予備科の大成学館に通わせ、川柳作家阪井久良伎(*9)のもとで川柳の指導を受けることとなった。

芸事よりも頭脳労働に方向転換を図ったものとみえる。いずれにしても手に職をつけないと自活していくのは困難なわけで、速記や作家の弟子入りは教師や医者を目指すよりも比較的ハードルが低い。

母子は次男を頼って大阪に転居、3年後の1906(明治39)年3月、京子は創刊間もない「大阪時事新報」に入社した。

入社のきっかけは知人の高見という大阪の社長に紹介されたとのことで、こちらも伝手を頼ったようである。試験はなく社長の福澤捨次郎(*10)に「兎も角もやって御覧なさい、あんまり若い娘さんだが」と言われて入社した。京子が入社した当時は新聞社が女性を採用するようになって10年程度。主要な新聞社に婦人記者が1、2名という環境(*11)だった。

(*6)尾崎紅葉 1868(慶応3)年生まれ。『金色夜叉』などで知られる、明治の日本における重要作家の一人。1903(明治36)年没。
(*7)速記 1882(明治15)年に田鎖綱紀が考案、発表し、講習会を開いたのが始まり。以降、演説会や講談、国会の議事に採用された。
(*8)佃速記事務所 1866(慶応2)年生まれの速記者、佃与次郎の起こした佃速記塾。
(*9)阪井久良伎 1869(明治2)年生まれ。井上剣花坊とともに、文学的営為としての川柳を提唱する川柳革新運動を担ったことで知られる。1945(昭和20)年没。
(*10)福澤捨次郎 1865(慶応1)年、福澤諭吉の次男として生まれる。1896(明治29)年から1926(大正15)年まで、時事新報の社長を務めた。1926(大正15)年没。
(*11)日本初の婦人記者は諸説あるが明治30年代に女性労働者が増加し、女性読者を獲得しようとした新聞社が家庭や婦人向け記事を掲載し始め、婦人記者の採用も増えた。

■行商人に化けて貴族院の邸宅に潜り込む

最初の仕事は、大阪北新地の芸者を訪ねるという企画。この芸者の女性は桂太郎(*12)元総理大臣の非嫡子(*13)を産み、目下桂公に娘の認知を迫っている最中とか。さすが「化け込み」の始祖、のっけから下世話ネタである。

以降、〈外国人の訪問だけはする資格がありませんでしたが、その他は何によらず自分の思うまゝに、筆を走らせ〉たという京子。その他とは家庭欄や、婦人訪問、教育や文芸などのジャンルである。あるときは大隈重信(*14)の関西旅行に随行し、他の記者に大隈の娘と間違えられたこともあったという。こんな挿話をさりげなく入れてくるところは、後にお騒がせ女として知られる京子の面目躍如である。

入社から1年半後、フランスの雑誌に婦人記者が花売りに化け込んだ記事が出ていたと聞きつけ、編集長に直談判。そうして始まったのが「婦人行商日記 中京の家庭」の連載だった。

「婦人行商日記 中京の家庭」第1回
出所=1907年10月18日付「大阪時事新報」
「婦人行商日記 中京の家庭」第1回。第2回から中京の振り仮名が「ちゅうきょう」から「なごや」に変更された。 - 出所=1907年10月18日付「大阪時事新報」

京子が化けたのは輸入品の雑貨(*15)を売る〈聊(いささ)か上流向の小間物屋〉の行商人。区役所で正式に鑑札を取り荷物も仕入れた。変装は襟掛(えりかけ)の着物を裾短(すそみじか)に着付け、浅黄繻子(あさぎしゅす)の帯を平たく結び、継ぎ接(は)ぎの白足袋に下駄を突っ掛けたもの。3貫目(約11.25キロ)の大風呂敷を背負うとよろけて足元が定まらなかった。

ともあれこの姿で、知事官邸、貴族院議員邸、富裕な子女が通うことで知られた私立名古屋英和学校(現名古屋中学校・高等学校)校長邸、病院、弁護士事務所、遊郭、名古屋地方裁判所長邸、陸軍軍医監邸など、さまざまな家庭に潜り込んだのだ。

(*12)桂太郎 1848(弘化4)年生まれ。政治家。総理大臣を3期務めているがこの時期は第1期と第2期の間に当たる。1913(大正2)年没。
(*13)非嫡子 法律上の婚姻関係にない男女間に生まれた子。
(*14)大隈重信 1838(天保9)年生まれ。内閣総理大臣を2期務めた。東京専門学校(現早稲田大学)創立者。1922(大正11)年没。
(*15)雑貨 当時は「小間物」と言った。京子が扱ったのは化粧品や爪磨き、麻のハンカチ、人形、造花、リボンなど。

■満員列車でのうわさ話も記事に盛り込む

全26回の連載中訪問した場所は34軒。そのうち商品購入にまで至ったのはたった9軒。残りの25軒は断られている。それでも1カ月近く連載が続いたのは覗き見的な切り口が新鮮だったからだろう。細かい描写やときには皮肉を交える京子の書きぶりもさすがはキラー・コンテンツ産みの親といったところ。

例えば第3回目は、貴族院議員の神野金之助邸の回(10月20日付)。邸へと向かう途中、ある日の満員列車中で小耳に挟んだ金之助のうわさ話を巧みに記事に盛り込む。話していたのは〈馬鹿に黄(き)いろく光る物を体中にひけらかしたる三十格好〉の男と、乳母と子ども2人のご一行。

「金之助さまの娯楽(たのしみ)というとお妾さまだがも、ねーんじう好いお齢(とし)であらっせるのに、十七八のお妾を拵(こさ)えてよー彼処(あそこ)へ連れて行ったり此処(ここ)へ連れて行ったり、膝を枕にしたり抔(など)してなも、ホゝゝゝ熱田のお妾さまの家(うち)でさえも五十畳の大広間があると云って御座ったがよー」
「今度は華族さまからお嫁さまが見えるげなでなも、今までのように知らぬ間に秘密(こっそり)と取る訳にも行くまいぎゃーえも」

と名古屋弁丸出しで語っていた。話の主は神野家に住み込んでいる人間らしい。それにしてもぎゅう詰めの列車内で主人の醜聞を大っぴらにするなどなんとも破天荒な所業である。また京子も、真贋のわからぬうわさをなにも新聞紙上で発表せずとも、と読んでいてそら恐ろしい気持ちになる。しかし、このような際どさこそが受ける秘訣(ひけつ)だったのだ。

■宗教家夫人の“心配事”

また、第5回(10月22日付)で訪れた私立名古屋英和学校長である大島多計比古(たけひこ)邸でのこと。行商人として門前に立った京子は、旅行前の暇乞いに立ち寄った宗教家小方仙之助の夫人が、何やら気になることを話しているのを聞く。

「此頃(このごろ)はどうも何(な)んでございますか、一郎が度々(たび)初子と話を致すようで、余り交情が好(よ)すぎますとツイ昔の事など考えますので、大変当人の不為(ふため)で厶(ござ)いますし私(わたくし)はもう大不賛成なので厶います……何卒(どうぞ)其辺(そのへん)も宜(よろ)しく……」

などと話している。どうやら小方夫人ご令息の一郎氏が初子嬢(親戚か女中か)と仲がいいことが気になっているご様子。つい考えてしまう〈昔の事〉とは、前後の脈絡から察するに一郎氏が女性関係で過去に何かやらかしたのだろう。

それにしても知らなかったとはいえ京子が玄関先で商品を拡げているところで言伝(ことづて)したのは失敗だった。身内の恥を紙上で大暴露されるとは夫人も不運極まりない。何しろ一郎氏の「昔の事」を読者の想像に任せることほど始末に負えないことはないのだから。

古い学校の廊下
写真=iStock.com/Mesamong
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Mesamong

■荒れきった病院や法律事務所をレポート

第6回(10月23日付)で訪れたのは、竪杉之町「長松病院」。そこでは看護師や職員たちが〈衛生上素人(しろうと)眼にも宜しからずと見ゆる八畳敷〉に住み込んでいる。その八畳敷の不快な様子が京子の観察眼によりじっくりと炙(あぶ)り出される。

〈隅々は気味悪き迄薄暗く溥乎(しっとり)と湿気を含みたる室内の空気は異様の悪臭を伝えて黴菌(ばいきん)の養成には申分(もうしぶん)も無し〉など、営業妨害にしかならないような描写が続く。

第7回(10月24日付)「佐藤清三郎法律事務所」の回では、立派な門構えから通されて土間を通ってみると〈洋傘(パラソル)は卒倒し雨傘は寝そべり足駄駒下駄の類は酒落臭(しゃらくさ)くも人間並に相撲取りの大乱(らん)ちき其(その)不整頓なること怖ろしなんど云う許りなし〉という荒れっぷり。25、6歳の若奥様は「どうせ珍らしい物なんか有りやしまいホゝゝ」などと憎まれ口をきく。

「オヤ此衿留(このえりどめ)買おうか知ら、三十銭……まあ高価(たか)いねえ、お前の宅(うち)は何処(どこ)だい、フン大阪、私かい、私も大阪さ……堂島の女学校に居たんだよ……今の三越の処に呉服屋があったが其処(そこ)の娘達は私の友達さ……」
「アラッ此紅(このべに)は下等だわねえ」
「アゝちっとも欲しい物は無いねえ」

と高慢ちきに言いたい放題。揚げ句「小間物屋さん名古屋でそんな贅沢品を買う家(うち)は五十六軒だよ」と言うに至っては、下等なのか贅沢品なのか一貫性のなさに苦笑するしかない。

■気取った弁護士夫人に意趣返し

しかし京子も負けていない。

奥様のご忠告に〈此(こ)の皰(にきび)さま(*16)見掛(みかけ)寄らぬ御親切……お年の割に開けたお方と感心した〉と皮肉めく。そして〈奥様悠々と御覧遊ばして後(のち)八銭の御園(みその)白粉(おしろい)一つ――図らずも御意に召したるはアゝ何等(なんら)の光栄ぞや〉と意趣返し。それもむべなるかな、売り物のなかには四〇銭の輸入品の白粉もちゃんとあるのである。

それにしても、気取った弁護士夫人の内実は、整頓もままならないほど雇い人の監督が不行届きで、行商人を腐したところで国産の安価な白粉しか買えないということが白日の下に露呈したわけで、新聞発売後には奥様さぞや地団駄を踏んだことだろう。しかし見方を変えれば、自由になるお金の少ない若奥様がそれでも弁護士夫人たろうと気負っている姿がなんだかかわいらしくもあるではないか。

花園町の遊郭「すゞ甲子(きね)」を訪れた第8回(10月25日付)は印象深い。花魁(おいらん)や長唄の師匠などに囲まれた京子、

「どうも、ちっとも訳が解らんなも、そんな重い物を背負わんでも芸妓(げいしゃ)か娼妓にでもなったら楽だらずになも」

と不思議がられたというのだ。このシーンはよほど記憶に残ったのか、京子の自伝『一葉草紙』の口絵にもなっている(但し本文では第18回の金波楼での出来事と記憶違いをしている)。

(*16)皰さま 若者、ひよっこ、くらいの意味。

■芸娼妓になる理由の4割は家計のため

当時の遊郭の女たちの実態を知るために格好の資料がある。伊藤秀吉『紅燈下の彼女の生活』(実業之日本社、1931年)である。おもな調査時期は1918(大正7)年から1929(昭和4)年までと京子の記事より時代は下るが、興味深いデータが種々掲載されている。

平山亜佐子『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)
平山亜佐子『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)

たとえば、芸娼妓になる理由は家計のためが44%、親兄弟の死亡または病気のためが20%、親兄弟の保育や救助のためが約10%、家業の失敗または資本を得るためが8%、自分の借金のためがわずか12%と、ほとんどが家の犠牲となったもので好き好んでなる者などどこにもいない。しかもスタート時点で大きな借金を背負わされ、着物や食べ物、果ては部屋の布団、掛け軸代まで稼ぎから強制的に引かれ、続けるほどに負債が増える仕組みとなっている。

足を洗うには親が大金を払って請け出すか、旦那を見つけて落籍してもらうか、ぼろぼろになって見捨てられるかしか道はない。とても「楽だらずになも」という商売ではないのだ。

■警察に逃げ込んでも連れ戻されてしまう

実は、度重なる公娼廃止論により1900(明治33)年からはいわゆる「自由廃業」が認められていた。つまり、遊郭側の同意なしで自由意志で廃業できるということ。けれどそれは借金を踏み倒すことを意味するのだから、楼主がみすみす見逃すわけはない。

逃げたことがわかれば即座に無頼漢に連れ戻され、監禁、折檻される。警察署に駆け込めばいいかといえば、さにあらず。必ず遊郭所在地の所轄に行かなければならず、楼主と警察官がしばしば繋がっているために追い返されるのが関の山だった。

遊郭で芸者か娼妓をすすめられる。手前の格子柄の着物が京子。
出所=下山京子『一葉草紙』、玄黄社
遊郭で芸者か娼妓をすすめられる。手前の格子柄の着物が京子。 - 出所=下山京子『一葉草紙』、玄黄社

さて、伊藤秀吉が各府県の警察部の1929(昭和4)年末の報告に基づいて集計した表によれば、廃業者9967人中自由廃業が成立した者は51人、たった0.5%である。彼らは、廓に乗り込んで廃娼運動を展開したキリスト教団体「救世軍」や、キリスト教婦人団体「矯風会」などに辿り着き運良く救われたほんの一部の例なのだ。はっきり言ってこの稼業、生き地獄である。

彼女たちが借金に縛られていることを示すくだりが京子の記事にもある。

若い遊女が同僚に「私がお金貸すに何か買やあせ」と言うも〈素天々(すってんてん)の姫御前たちが眼の毒になること一通りでなくお互さまに買やあせの掛合(かけあい)〉で自分から買おうとはしない。大黒柱にもたれた楼主(おやじ)さまがその光景を〈苦り切った御顔むずかし〉という表情で見守っている。この辺りの描写の細かさは「化け込み」企画のフロンティア、京子の本領発揮である。

■芸者たちが目指す「出世」の中身

なお、第10回(10月27日付)の花園町の茶屋では

「そう〳〵去年だったが丁度お前さんのような……もうちっと齡の行った女の小間物屋さんが母親(おっかさん)と同伴(いっしょ)に始終此処(ここ)らへ売りに来て居たが、何時(いつ)の間にか此(こ)廊で芸妓(げいしゃ)になんなすって、今じゃ中々立派にして居りますよ……たしか京都の人でね太棹(*17)が少し行けたそうな……」

と言われた京子が

「太棹がちっと行けますれば早速背中の荷物を放り出し左褄(ひだりづま)(*18)しゃなら〳〵と極(き)め込(こも)うものを可惜(あつた)ら出世をし損うてチェー残念」

と軽口を叩いたところ

「真箇(ほんとう)にさ、大変な出世だわね」

と返され〈手も附けられぬ御挨拶なり〉としている。小間物屋から芸者になった娘のことを皮肉った京子だが、茶屋の女たちからは本気と受け取られたのである。

地方出身で学もない芸娼妓たちは、都会で豪華な着物を着て高級料亭で酒を飲み、政界や実業界の大物と交際することを「出世」と考えているのだろうが、東京生まれで学があり新聞記者として自立している京子から見れば井の中の蛙にしか見えない。その蛙から逆に哀れまれたら鼻白むのも無理からぬことである。さまざまな階層の人間がひしめき合う都会ならではの価値観の乖離(かいり)が垣間見える一幕である。

(*17)太棹 棹の太い三味線。義太夫節三味線、津軽三味線など。
(*18)左褄 芸者の意。

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平山 亜佐子(ひらやま・あさこ)
文筆家、挿話収集家
兵庫県芦屋市出身。戦前文化、教科書に載らない女性の調査を得意とする。著者に『20世紀破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社、ちくま文庫)、『戦前尖端語辞典』(編著、左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)、『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)がある。

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(文筆家、挿話収集家 平山 亜佐子)

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