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「八百屋の娘」から「徳川5代将軍の母」へ…日本で最初に"玉の輿"に乗った桂昌院の数奇な人生

プレジデントオンライン / 2023年11月10日 10時15分

徳川家光(画像=金山寺蔵、岡山県立博物館寄託/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons)

江戸幕府の約260年の歴史には、徳川家を支えた数多くの女性が登場する。中でもよく取り上げられるのが、3代将軍家光の乳母・春日局と側室・桂昌院だ。英語学者・評論家の渡部昇一さんの著書『決定版・日本史[女性編]』(扶桑社新書)より、一部を修正して紹介する――。

■京都から「将来の将軍」の乳母に志願

のちの春日局の福は、明智光秀の重臣斎藤利三の娘。稲葉通明の娘のおわんが母親である。光秀から丹波国を与えられた父利三は黒井城主であったが、福が4歳のときに亡くなった。主君光秀に従い本能寺の変で織田信長を討った後、秀吉軍に敗れ、処刑されたのである。

このことについては、春日局の手記がある。世継ぎ問題でお家騒動になっては大変だと感じた家康は、やはり長男が相続すべきであるとして、竹千代を駿河に呼び自分の子供として3代将軍に就けようとしたと。それはすぐには叶わず家康は亡くなるが、その意思ははっきりとしていたから、3代将軍は竹千代というコンセンサスが幕府内にはすっかり出来上がっていた。

また、家康の遺言には土井利勝(大炊頭)に相談せよというような趣旨が記されてあったという。さらに駿河の大納言、すなわち忠長(国松)が結局後に滅んだのは権現様の罰だなどと、春日局の手記に書かれている。

■家光に女性2人を会わせ、世継ぎを生ませる

3代将軍となった家光は男色の気味があるといわれていた。それで世継ぎができないことを心配した春日局が家光にすすめたのが参議六条有純の娘で、当時16歳、伊勢内宮の慶光院比丘尼であった。彼女は住職になった御礼に謁見に参上したのである。

彼女は美顔玲瓏(れいろう)で艶麗(えんれい)極まりなく、作法もしとやかであった。家光も僧の頭をした尼姿の美女だったので、美少年好みの趣味と通じるものがあったのであろう。

春日局は、彼女を江戸にとどめ、還俗(げんぞく)せしめ、名をお万の方と改め、家光のお付きとし、女中全員の行儀と躾をまかせた。家光も彼女を寵愛したのである。

ところがお万の方の勢力が強すぎるようになるのを心配した春日局は、血眼になって町人の中からお万の方と似ている娘を見つけ出した。これがお楽の方であった。

彼女が大奥の女中となると家光の目に留まり、やがて男子を出産、のちの家綱となる。家光38歳、春日局は63歳になっていた。

■圧倒的権力の裏に、家光・家綱からの絶大な信頼

盛大に執り行われた家綱のお披露目式では、春日局が家綱を抱いて、徳川御三家をはじめとする諸大名たちと相見(まみ)えた時、一同彼女に平伏したという。春日局が家光から絶大の信頼を得ていたことは、彼女が病に伏せた時に家光が3度も、家綱が2度も見舞いに来ていることからも窺い知れる。

若かりし頃の家光が疱瘡に病むと、春日局は東照宮を参拝し、「どうぞ自分を身代わりにしてください。そのかわり私は一生薬を飲みません」と誓った。誓いを守り通すため、春日局は見舞いに来た家光自ら出してくれた薬湯を飲む真似をして襟元に流し込んだといわれている。

母親のお江が亡くなると、家光は春日局に命じて、大奥のすべてを任せることになる。慎重で男にも女にも尊敬されるような彼女は、大奥の規律をきっちりと定めてこの世を去った。

■「玉の輿」の語源となったシンデレラガール

江戸時代一番のラッキーガールは誰かといえば、間違いなく「玉の輿」の語源となったといわれる徳川家光の側室桂昌院(お玉)であろう。

桂昌院
桂昌院(画像=長谷寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
渡部昇一『決定版・日本史[女性編]』(扶桑社新書)
渡部昇一『決定版・日本史[女性編]』(扶桑社新書)

京都の八百屋仁左衛門の娘であった。父親が死に、母親が二条家の家臣本庄宗利と再婚する。この本庄は家康の側室お万の方とゆかりがあった。お万の方は、家康の正室築山殿の侍女であった。当時32歳の家康は、湯殿でお万の方に手をつけ、彼女は結城秀康を産む。結城秀康は早くして亡くなるが、越前福井六十七万石を与えられていた。そのお万の方の家と二条家家臣の本庄宗利と関係があったわけである。

そうしたコネクションにより、お玉は16歳の時に江戸に出て、将軍家光の側室お万の方(家康の側室お万の方とは別人)の部屋子となった。そして、間もなく大奥へと上がった。美しいうえに、町娘として育っているから、普通の公家の娘や大名の娘と異なり、性格や物腰がまどろっこしくなくシャキシャキしている。大奥の中では異色の存在感であった。そこが男色の気味があった家光の目を引き、やがて手がついたというわけである。

■八百屋生まれの劣等感から教育ママぶりを発揮

お玉は亀松、徳松と2人の男子を産んだ。最初の亀松は夭逝(ようせい)する。一方、徳松が幼い頃から利発であったので、家光はお玉に「今より書を学ばせ聖賢の道に心を入れ、文を読ませよ」と言ったという。お玉は八百屋の娘だという劣等感も手伝ってか、教育ママぶりを発揮するようになった。徳松は期待によく応え、優秀で将来を嘱望される存在となっていく。

家光が亡くなると、家綱が継いで4代将軍に就いたが、家綱も間もなく死去する。延宝8年(1680)のことである。家綱には嗣子(しし)がないため、5代将軍候補は曲折を経て、上州館林で二十五万石藩主となっていた徳松と異母兄の甲府二十五万石藩主綱重の二人に絞られた。

幕府上層部の意見は分かれたが、大老酒井忠清は京都より皇族を迎えて将軍と仰ぐという考えを持っていたが、老中堀田正俊が論破して、お玉の息子、すなわち徳松、後の綱吉が選ばれた。むろん堀田正俊はその後大老に格上げとなっているが、4年後、大奥と連携した堀田のやり方を憂えた若年寄の稲葉正休に江戸城内で殺された。

■悪僧を妄信し、綱吉に「犬を大切に」と忠告

八百屋の娘時代のお玉に亮賢という僧が、「あなたは将軍の母になる相がある」と予言した。また、懐妊した時、どうしても男子がほしいと望んだお玉は亮賢に祈禱(きとう)をしてもらい、念願叶い男子を得た。桂昌院は後に、この亮賢のために護国寺を建ててやるほど入れ込んだ。賢いわりには、いったん信じたら妄信、狂信する性格であったようだ。

息子綱吉の長男が5歳で亡くなると、今度は亮賢から推薦された隆光という悪僧の言うことを、桂昌院は信じるようになった。

「戌年の綱吉公が男子を得るには、犬を大切にしなければなりません」

隆光のばかばかしい話を鵜呑みにした桂昌院がそれを綱吉に伝えたことが、綱吉が犬公方(いぬくぼう)と呼ばれる愚行を繰り返す端緒となった。

■母に何でも従うマザコンに江戸庶民は振り回された

しかも綱吉自身は普通の将軍よりは、たとえば4代将軍家綱あたりよりはかなり優秀ということで、お目付役であり将軍補佐官の大老を置かなかった。綱吉は大老職は設置せず、側用人を置く、側用人政治を行った。側近政治と言い換えてもいい。

そのことも、大奥を握っている桂昌院の権力を強め、「生類憐みの令」のような政令を発布する要因となった。

そしてなによりも綱吉が典型的なマザコンであったことが大きかった。また、儒教に入れ込んだ綱吉は「孝行」ということを特別に重んじ、母の言うことには何でも従うというところがあったのである。

「生類憐みの令」は綱吉が死ぬまで、実に24年間も続けられ、人々は大迷惑を被ったのである。

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渡部 昇一(わたなべ・しょういち)
英語学者・評論家
1930年10月15日、山形県生まれ。上智大学大学院修士課程修了。ドイツ・ミュンスター大学、イギリス・オックスフォード大学留学。Dr.phil.(1958)、Dr.Phil.h.c(1994)。上智大学教授を経て、上智大学名誉教授。その間、フルブライト教授としてアメリカの4州6大学で講義。専門の英語学のみならず幅広い評論活動を展開する。1976年第24回エッセイストクラブ賞受賞。1985年第1回正論大賞受賞。英語学・言語学に関する専門書のほかに『知的生活の方法』(講談社現代新書)、『古事記と日本人』(祥伝社)、『「日本の歴史」』(全8巻、ワック)、『知的余生の方法』(新潮新書)、『決定版 日本人論』『人生の手引き書』『魂は、あるか?』『終生 知的生活の方法』(いずれも扶桑社新書)、『「時代」を見抜く力』(育鵬社)などがある。2017年4月17日逝去。享年86。

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(英語学者・評論家 渡部 昇一)

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