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築山殿でも秀忠の母でもない…「後家好み」の家康が"最も信頼できる妻"として秀吉にも紹介した女性の名前【2023編集部セレクション】

プレジデントオンライン / 2024年5月5日 6時15分

徳川家康の側室・阿茶局(1555~1637)の肖像画(写真=雲光院像(德川記念財団蔵)・江戸時代/PD-Japan/Wikimedia Commons)

2023年下半期(7月~12月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2023年7月16日)
織田信長には濃姫、豊臣秀吉には北政所という正室がいたことが知られているが、徳川家康は築山殿を死なせて以後、妻の存在が見えにくい。『家康を愛した女たち』を書いた植松三十里さんは「築山殿が死んだ年、家康は武田家家臣の娘、阿茶の局と出会い、側室に。彼女は、かなり特別扱いされていることからしても、相当“仕事のできる”女性だったのでは」という――。

■家康の側室に経産婦が多かったのは確実に子を産ませたかったから?

徳川家康には、正室の築山殿、継室である羽柴秀吉の妹朝日姫がいて、その他にもたくさんの側室がいました。20人近くいた、といわれています。

男子を産んだ側室たちをざっと挙げてみても、於愛の方(西郷局)は、夫の戦死後に子連れで家康の側室になり、3男・徳川秀忠(2代将軍)と4男・松平忠吉(清洲藩祖)を産んでいるし、一度は穴山信邦(穴山信君の弟)に嫁いだともいわれる於都摩の方(下山殿)は、武田家滅亡後に家康の側室になって武田家を継承することになる5男・武田信吉(水戸徳川家以前の水戸藩主)を産んでいます。鋳物職人の未亡人だった於茶阿の方(茶阿局)は6男・松平忠輝と7男・松千代を産み、やはり後家の於亀の方も徳川義直(尾張藩祖)を産んでいます。

これらの結果を見てわかるように、徳川家康は「後家好き」です。「熟女好み」とも言えます。

これについては、実利主義者の家康が「経産婦をよしとした」という説があります。「一度子供を産んだことがある人なら次もまた産めるだろう」ということで、そういう女性を家康が好んだという見方です。でも、私はそれはどうかなと思います。妻を選ぶときにそこまでドライなものかと思うし、もっと感情面から、そういう結果となったような気がします。

■後家好みには幼くして生き別れた母親の於大の影響があるのでは

家康の「後家好き」には、母親である於大の方(伝通院)の存在が大きく影響していると、私は考えています。

於大の方は岡崎で家康を産んだ後、松平家から離縁されて、実家に帰されました。彼女の実家である刈谷の水野家が、今川から離反し、織田方に転じたからですが、その後、於大の方は、ドラマ「どうする家康」でも描かれたように、知多の久松俊勝に再縁しています。

久松家は、織田の人質として熱田にいた幼い家康に物心さまざまな援助をしてくれましたが、家康はそのありがたみとともに、やはり親子別れの悲しさを噛みしめながら成長したと思います。そして桶狭間後に家康は、久松俊勝の勧めもあって今川から離反、織田と同盟し、久松は家康に臣従。久松家で於大が産んだ3人の男子(久松三兄弟)は家康の弟として「松平」を名乗りました。その真ん中が死後、築山殿の隣に葬られた松平康俊です。

■自分や母親のように苦労を知っている女性を好んだのでは

於大は水野家に出戻ったときには、当主で兄の水野信元とはいい関係ではなかったと、私は考えています。於大のいた場所は刈谷の「椎の木屋敷」といって、いわば霊場のような場所で、そこに閉じ込められるように暮らしました。於大は、そんな仕打ちをする兄に反発しただろうし、その分、いろいろ苦労も多かったはずです。

家康は自分も幼いころから苦労してきているだけに、そういう母の苦労が身に沁みていたのでしょう。

私は『家康を愛した女たち』という小説のなかで、阿茶局(雲光院)というやはり側室のひとりに、こんな台詞を言ってもらいました。

「大御所さまの側室には、私のような子持ちの寡婦が、ほかにもおります。世間知らずの若い娘より、苦労した女をお好みになるのは、知らず知らずのうちに、母上さまのことが響いているのかもしれません」

と。私なりの家康の女性観を述べてもらったかっこうになります。冒頭で家康の子を産んだ側室たちを列挙しましたが、長男・信康を産んだ築山殿を家康は殺してしまい、そして次男の結城秀康(初代福井藩主)を産んだのは於万の方(長勝院)という女性ですが、家康はこの母子ともに出産後すぐに遠ざけてしまっています。於万の方は知鯉鮒(ちりふ)明神の社人(永見吉英)の娘で、それなりに令嬢育ち。築山殿同様に、苦労を知らないお嬢さまはあまり好きじゃなかったのかな? と想像であるけれど、そう思います。

■身分の高い女を側室に求めた秀吉とは真逆の女性観

家康は「後家好み」であると同時に、身分の高い女も好まなかったのだと思います。これは家柄のよい女を漁るように求め続けた秀吉と好対照をなしています。そこにも家康の女性観がよくにじみ出ていると思うのです。

先述の阿茶局は、父親の飯田直政がもともと武田の家臣で、それが今川家に移った人。その今川のところで成長し、結婚したのも今川家臣の神尾忠重という人ですが、この夫がふたりの子供を残して死んでしまう。子供を抱えて途方に暮れ、路頭にも迷ったのかどうかわかりませんが、築山殿が死んでしまった天正7年(1579)に家康と出会い、側室になっています。

阿茶は武芸と馬術にもすぐれていたといい、秀吉と全面対決した小牧・長久手の戦いには、家康は陣中に阿茶をともなっています。この陣中で阿茶は懐妊するのですが、流産してしまい、以後、家康の子を宿すことはありませんでした。

■築山殿が死んだ年、側室になった阿茶局は正室並みの待遇だったのでは

子を産まなかったけれども、家康は阿茶局を重んじます。

天正17年(1589)に西郷局が亡くなると、遺された秀忠と忠吉を育てたのは阿茶でした。

天正18年(1590)の小田原の北条攻めのさいに秀吉は武将たちに妻や側室をともなわせますが、秀吉が茶々(淀殿)を連れてきたこの陣に、家康は阿茶を連れていくのです。たぶんそうした陣屋では女たちの集まり、それこそママ友の付き合いみたいな社交の場があったように思うのです。そういうところで秀吉はおそらく大名たちの裏情報というか、そういったことを女性の口から集めていたのではないでしょうか。そんな場でうまく立ち回れる女性が必要であったろうし、家康はそれを阿茶局に期待したのだと思います。

だから阿茶も頭のいい人だったのでしょう。社交性もある彼女は、家康にとって「最も使える女性」、信頼できる秘書役でした。阿茶はまた、慶長19年(1614)の大坂冬の陣の停戦交渉にも出て、豊臣方の常高院(淀殿の妹)や大蔵卿局(淀殿の乳母)を相手に和議成立にもっていきました。さらに家康の死後の話ですが、元和6年(1620)に母親代わりとして育てた徳川秀忠の、その5女・和子が後水尾天皇の皇后(中宮)として入内するさいにも母親代わりの守役をこなしています。大活躍です。

■阿茶局、春日局など「仕事のできる女」を好んだ家康

日本人のなかで再婚することが、あまり評価されない時代がありました。特に日清日露の戦争から太平洋戦争の頃は、夫が出征するときに、自分の奥さんが後家を守るということを信じないと、戦争に行きにくい。だから「二夫にまみえず」という考え方が、意図的に広められたように思います。

2011年のNHK大河ドラマは「江~姫たちの戦国~」でしたが、主人公のお江(淀殿と常高院の妹)は、三度目の結婚で徳川秀忠の妻になりました。ようやく歴史ドラマでも、再婚が受け入れられるような時代になったのだなと、私はあのドラマを観て感じ入りました。

阿茶局は、家康から政治や外交も任され、あるいは生涯をかける仕事のパートナーとして、現代の働く女性のように、やりがいを感じていたのではと思います。

家康が――これは側室ではなく孫の家光の乳母としてですが――やはり信頼できる「使える女性」として雇い入れた春日局なども、家康の女性観を端的に表していますね。

「使える女性」を見分けられるし、その「使える女性」の使い方もよく心得ていた。それが家康という人だったと思います。

徳川家康の肖像画(写真=狩野探幽「徳川家康」(大阪城天守閣)・江戸時代/PD-Japan/Wikimedia Commons)
徳川家康の肖像画(写真=狩野探幽「徳川家康」(大阪城天守閣)・江戸時代/PD-Japan/Wikimedia Commons)

■大河ドラマのように苦労して悩む家康像は現代に通じる

歴史小説を書く場合。読者は現代人なので、現代の価値観からも何かしらの共感を持ってもらわなければなりません。江戸は元来が、かかあ天下の土地柄だったし、出稼ぎの町で圧倒的に女性が少なかったので、特に女性の再婚、再再婚は珍しくありませんでした。その辺の感覚は、むしろ現代に近い気がします。男尊女卑という考え方も、徳川の世が終わった後の明治以降に醸成されたように思えてなりません。西国の侍たちが東京で新政府の役人になって、東国に持ち込んだのではないでしょうか。

植松三十里『家康を愛した女たち』(集英社文庫)
植松三十里『家康を愛した女たち』(集英社文庫)

そんなことで多くの女たちと関係を持った家康ですが、力のある男性ですから、女性たちにとっても魅力的だったことは容易に想像できます。

秀吉は天下を取ったのが偉いわけですが、家康は天下を治めたことが最大の業績です。合戦に勝ち残ったのが偉いわけではなく、江戸幕府のシステムを確立して平和な世の中を270年続くようにしたのが、やはりすごいと思います。これまでの徳川家康像は、立派で正々堂々と家臣たちを引き連れてリーダーシップを発揮して……というふうな描き方で誰もが納得したけれど、やっぱり今の時代は誰もがいろいろと悩みながら生きているし、そうして苦労して悩む家康というのが、今日の存在意義として見られるのだろうと思うわけです。

それでいて、肖像画からもわかるように目に活力が充満していて、デキる漢(おのこ)で……そうした経歴を踏まえて肖像画を見ると、なかなかのイケメンでもある。大河ドラマで、目が印象的な松本潤さんが家康を演じているのも、私は納得して観ています。

2023年5月5日、浜松まつりで行進する大河ドラマ「どうする家康」の家康役・松本潤
撮影=松島優喜
2023年5月5日、浜松まつりで行進する大河ドラマ「どうする家康」の家康役・松本潤 - 撮影=松島優喜

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植松 三十里(うえまつ・みどり)
歴史小説家
静岡市出身、在住。東京女子大学史学科卒業後、婦人画報社編集局入社。7年間の在米生活、建築都市デザイン事務所勤務などを経て、フリーランスのライターに。2003年『桑港にて』で歴史文学賞受賞。2009年『群青 日本海軍の礎を築いた男』で新田次郎文学賞受賞。同年『彫残二人』で中山義秀文学賞受賞。『イザベラ・バードと侍ボーイ』(集英社文庫)が発売中。『梅と水仙』(PHP文芸文庫)が5/9に発売。新刊『鹿鳴館の花は散らず』(PHP研究所)が7月に発売予定。

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(歴史小説家 植松 三十里 取材・構成=春日和夫)

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