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なぜ徳川家康は65歳まで子作りに励んだのか…すべてを手に入れた男が「人生の最後」まで悩んでいたこと

プレジデントオンライン / 2023年12月17日 12時15分

徳川家康公像(=2018年8月9日、愛知県岡崎市・岡崎公園) - 写真=時事通信フォト

なぜ徳川幕府は260年にもわたり続いたのか。歴史評論家の香原斗志さんは「家康によるルール作りが完璧だったからだ。そのひとつとして、長子を跡継ぎと決めることで、徳川家内部で無用な跡目争いが起きることを防いだ」という――。

■豊臣家の滅亡後に家康が行った大仕事

慶長20年(1615)5月7日、大坂夏の陣もいよいよ決戦の日を迎えた。茶臼山から大坂城にかけて激しい戦いが繰り広げられ、ついに城は炎上。翌5月8日、豊臣秀頼と茶々が自刃したとの知らせを受けた徳川家康は、廃墟となった大坂城に入った。安堵(あんど)したには違いないが、それだけにとどまらない複雑な思いを抱いたのではないだろうか。

それから1年近くを経た慶長21年(1616)4月17日、家康は駿府城で、波乱に満ちた生涯を閉じた。数え75歳だった。豊臣家を滅ぼしてから没するまで1年足らず。だが、1月21日に鷹狩りに出かけて倒れてからは、健康とはいえない状態が続いたので、実質的に活動できたのは8カ月ほどだった。

その短い期間に、家康は休むことなく、徳川家の支配を永続させるための手を矢継ぎ早に打った。関ヶ原合戦後も、家康の征夷大将軍任官後も、多くの大名の前に権威として君臣した豊臣公儀は、もはやこの世から消滅した。いまこそ徳川公儀を確立すべき時だが、家康自身、すでに当時としてはかなりの高齢であった。このため、自分の目が黒いうちにできるだけのことをしようと、相当に急いだあとがみえる。

家康は大坂夏の陣が終わってもすぐには駿府に帰らず、二条城(京都市)に115日も滞在した。そこに公家や諸大名を招いて戦勝を祝う宴を催したが、京都に留まった主たる理由は、戦後処理とその後の体制づくりを、ひととおり終えてしまうためだった。

■3000前後あった城が170程度にまで減った

まず、閏6月13日に一国一城令を出し、諸大名が本城以外に構える城を破却させた。反逆の芽を摘むためであるのはいうまでもない。主として数多くの大城郭を構える西国大名を対象とし、酒井忠世、土井利勝、安藤重信という奉行衆3人の連署奉書というかたちで通達された。わずか数日で400の城が破却され、最終的には日本に3000前後あった城が170程度にまで減ったとされる。

続いて7月には、一連の法度を発布した。全国の大名に規範を示した武家諸法度、天皇や公家、門跡(皇族や公家が住職を務める特定の寺院)を、幕府の法の統制下に置くための禁中並公家中諸法度、寺院や僧侶を統制する諸宗諸本山諸法度である。

とくに前者二つについては、家康は早くから側近で知恵袋の以心崇伝(いしん・すうでん)や林羅山らに命じ、和漢の書物から諸家の古い記録を書写させるなどして準備を重ねており、このタイミングで崇伝に起草させたものだった。また、武家諸法度は、7月7日に能見物のために、秀忠がいる伏見城に集まった大名たちに対し、あえて秀忠の名で交付し、2代将軍の権威づけにも配慮した。

京都の伏見桃山城の再建された天守閣の眺め
京都の伏見桃山城の再建された天守閣(写真=Thomas vanierschot/PD-self/Wikimedia Commons)

こうして家康は、武家、天皇、公家、寺院のそれぞれに対して厳しい統制基準を定め、いずれの内部にも幕府が介入できる体制を築いたのである。

■16人もの子どもをつくったワケ

しかし、それだけでは徳川家の支配が永続する保証にはならない。血筋が途絶えてしまっては元も子もないし、徳川家内部で跡目争いが起きてもいけない。家康はそのことにも配慮を行き届かせていた。

乳幼児の死亡率がきわめて高く、疫病などで命を落とすことも多かった当時、おそらく家康は、秀忠の子息だけで徳川家を維持するのは困難だと考えたのだろう。関ヶ原合戦後の慶長5年(1600)11月に九男の義直、慶長7年の3月に十男の頼宣、慶長8年の8月に十一男の頼房と、精力的に子孫をつくった。

しかも、この3人がのちに徳川御三家を創出し、徳川宗家の血筋が絶えたときには、紀州藩主だった吉宗をはじめ将軍を輩出したのだから、家康のねらいは見事というほかない。

ちなみに、秀忠に長男で庶出子の長丸が生まれたのは慶長6年(1601)2月で(翌年9月に早世している)、竹千代(のちの三代将軍家光)が生まれたのは、家康の十一男、頼房が生まれた翌慶長9年(1604)7月だった。家康は半世紀にわたって子をつくり続けたが、その活動の末期は秀忠と重なっていたのである。

さらには秀忠の子息のことでも、家康は最後まで心配が絶えなかった。

■家光は江の子ではなかった可能性

秀忠が豊臣秀頼の母、茶々の末妹、浅井江と結婚したのは、文禄4年(1595)9月のことで、数え17歳の秀忠に対して江は6歳年長の23歳、3度目の結婚だった。

一般に、江は嫉妬深く、秀忠は恐妻家だったと思われており、このため秀忠はあまり浮気もせず、江が二男五女を生んだとされている。庶出子は長男で早世した長丸と、慶長16年(1611)5月に女中の静が江戸城外で生み、保科家に養子に出された秀忠の最後の子、正之だけだとされてきた。しかし、福田千鶴氏は、そうではないと主張する(『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』)。

慶長2年(1597)5月に生まれ、秀頼に嫁いだ長女の千は、江の子でまちがいない。だが、同4年(1599)8月に生まれた次女の子々は「母は浅井江とされるが、生誕地を考えれば生母は江以外の女性であり、江は表向きの母として位置づけられたものと推考する」と福田氏は記す。慶長4年には秀忠はずっと江戸ですごし、江は12月に京都から江戸に下ったのに、8月に江戸で子々を生めるはずがないというのだ。

慶長8年(1603)、秀頼に嫁ぐ千に同伴して伏見に赴き、7月にそのまま伏見で生んだ三女の初は江の子だが、問題は翌慶長9年(1604)に生まれた竹千代、すなわちのちの三代将軍家光である。

福田氏はこう述べている。「筆者は、竹千代の生母も江以外の女性であったと推考する。その最大の理由は、竹千代誕生の前年の同じ七月に、江が初を出産していることである。いくら年子を生んだとしても、短くとも一年半ぐらいをあけないと平産するのは難しい」(前掲書)。そのうえで、一昔前まで出産した女性に1年くらい排卵がないのは当然だった、といった論拠を並べる。

■秀忠と江は、次男国松を溺愛

一方、秀忠が伏見城で将軍宣下を受けた翌年の慶長11年(1606)6月、江は国松(のちの忠長)を生んだ。秀忠が伏見を発って江戸に戻ったのちに江は懐妊しているから、江の子でまちがいない。

秀忠と江が、竹千代を疎んじて国松を溺愛したことは、よく知られる。竹千代は病弱で吃音があるのに対し、国松は容姿端麗で聡明だったとは伝えられる。だが、国松こそが江の実子で、竹千代は奥女中に生ませた子だとしたら、夫妻が国松を寵愛した理由もわかるというものだ。

徳川忠長の肖像
徳川忠長の肖像(写真=大信寺所蔵『図説・江戸の人物254』より/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

しかも、将軍夫妻が国松をかわいがっていれば、幕臣のあいだにも国松を推す勢力が現れる。こうして竹千代擁立派と国松擁立派による跡目争いのような状況が生じることになった。豊臣公儀が消滅し、武家、天皇、公家、寺院の首根っこをつかんだ徳川家だったが、いくら支配のためのお膳立てを整えても、徳川家がまとまらなければ盤石な支配はおぼつかない。それは家康がもっとも危惧したことだった。

この状況に心を痛め、江戸城を抜け出して駿府にいる家康のもとに、竹千代を世嗣に定めてほしいと直訴したのが乳母の福、のちの春日局だった。

■家康の仕事には「あっぱれ」

家康は福の訴えを受け入れた。福の直訴は一次資料に見られるわけではなく、後世の創作だとする向きもあるが、いずれにせよ、家康はもともと、長子が相続することを理想としていた。それはひとえに、徳川家とその政権の存続のために、内部の争いを避ける目的であった。すなわち、家康の人生最後の懸案事項が、秀忠の世継ぎを竹千代に定める、ということだったのである。

秀忠の世嗣が最終的に竹千代と決まったのは、元和元年(1615)の末ごろ、まさに翌年1月に、家康が倒れる直前だった。12月22日付で以心崇伝が板倉勝重に宛てた書状によれば、家康が元和2年(1616)5月に上洛して9月まで京都にとどまり、その時期に竹千代が京都で元服することが定められたという。だが、同じく崇伝が勝重に宛てた正月13日付の書状では、江戸で元服することに変更されている。

その直後に家康は倒れ、回復することはなった。このため、竹千代が元服して家光と名乗るのは、4年遅れの元和6年(1620)9月になった。

しかし、最後の懸案事項にまでしっかり道筋をつけて家康は逝った。あっぱれというほかない。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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