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飯を食うにも、排泄をするにも金を取るのか…障害者団体の問いに、村木厚子さんがグッとこらえた「ある反論」【2023下半期BEST5】

プレジデントオンライン / 2024年1月25日 7時15分

「3つの失敗談」を語ってくれた村木厚子さん - 撮影=今村拓馬

2023年下半期(7月~12月)、プレジデントオンラインで反響の大きかった記事ベスト5をお届けします。キャリア部門の第1位は――。(初公開日:2023年9月7日)
【連載#私の失敗談 第7回】どんな人にも失敗はある。元厚生労働事務次官の村木厚子さんは「障害者自立支援法の成立をめぐっては、当事者団体から猛烈な反対を受け、ある問いを投げかけそうになった。しかし、いま振り返ると、当時の自分の未熟さにゾッとする」という――。(聞き手・構成=ノンフィクションライター・山田清機)

■「入省した当時は、本当にデキが悪かったんです」

公務員って、どこか能面みたいなイメージがありますよね。感情を外に表さない、絶対に失敗をしない……。

私、昨年まで日本社会事業大学の専門職大学院で、社会人を相手に最新の社会保障についての講座を持っていました。私が総論を担当し、生活保護、医療、介護、年金、子どもといった個別のテーマについては、まさに役所でそれぞれを担当している公務員の方々に講師として来ていただいたのですが、政策を立案する時どんな思いだったのか、どんな苦労があったのかを話してほしいとお願いしたのです。そうしたら、これが受講生の方にとても好評だったんですね。公務員にも血が通っていたんだなって(笑)。

というわけで、私にも失敗は山のようにあります。最終的に事務次官というポストに就いたので、さぞ優秀だったのだろうと思われがちですが、そんなことはまったくありません。1978年に労働省に入省した当時は、本当にデキが悪かったんです。

■深夜0時を過ぎて気づいた「国会答弁書」のミス

入省して最初の忘れがたき失敗は、職業安定局に配属されて間もなくのことでした。職業安定局はいまで言うハローワークと雇用政策を統括している部署でした。当時は第2次オイルショックの直後で、世の中は大変な不景気で雇用政策が大変な時期でした。私の部署は「雇用国会」と呼ばれた国会に向けて、山のような作業を、毎晩、毎晩、深夜までこなしていたのです。

いまとなっては信じられないことですが、当時はパソコンどころかワープロすらなく、基本は手書きです。入省間もない私の役割は、上司が手書きにした大臣の国会答弁書などをひたすら清書することでした。

ある晩、私はご高齢の大臣のために、国会答弁書を升目の大きな縦書きの罫紙にサインペンで清書する仕事をしていました。すると、答弁書の中に「経済社会70年計画」という言葉が出てきたのです。私は「70年計画なんて、ずいぶん長いなー」などと思いながら清書を続けました。

清書が終わるとコピー担当の人がコピーを取って、当時のコピー機にはソーターなんてついていませんから、人海戦術でソーティング(ページ順に並べてホチキスで閉じること)です。大臣答弁書は何十部も必要なのでこの作業を職員総出で延々とやるのです。時計はとっくに深夜0時を回っています。

出来上がった答弁書の山が隣の部屋にいくつも積まれていき、もう少しで作業が終わろうというとき、私はふっと気づいたのです。そういえば、ニュースで経済社会7カ年計画って言ってたような気がするけど……。あっ、あれだ。どうしよう!

■隣の生徒に「おはよう」も言えない人見知り

「すみませーん、間違えました!」
「どうしたの?」
「70じゃなくて7でした」

上司は雑な字を書く人だったので、縦書きにした「ヶ」が「▽」のようになっており、それを私は「0」だと勘違いしてしまったのでした。

本当に恥ずかしい間違いでした。しかも、一歩間違えば大臣のクビが飛びかねない重大なミスです。自分ひとりで全部やり直すべきだと思いましたが、職場の先輩たちは文句ひとつ言わずに、黙々とページの差し替え作業をしてくれました。

その姿を見て、この人たちはつくづくプロなのだと思いました。作業を優先するために、私を一切責めることなくミスをカバーしてくれたのです。私にはそんな先輩たちが、ありがたいというよりも、むしろ眩しく見えました。

私はそもそもひどい人見知りで、高知から東京にひとりで出てきた時は、毎日毎日、見知らぬ人と接するのが怖くて仕方がありませんでした。大げさでなく、中学校、高校では、隣の席の子に「おはよう」という挨拶すらできないような子どもだったのです。

このまま誰とも話せなかったら、本当にひとりぼっちの人生を送ることになってしまうという危機感を持ちました。もしかすると、人と話さないわけにはいかない職場というものが、自分を変えてくれるかもしれない。これは、自分を変えるチャンスかもしれないとも思っていました。

ですからあの時、大声で「間違いました!」と言うことができて、本当によかったと思うのです。あの大失敗のおかげで、私は「もう、何があっても恥ずかしくないぞ」という気持ちになれた気がするのです。

高知大学を卒業後に上京。大学卒業まではずっと人見知りだった。
撮影=今村拓馬
高知大学を卒業後に上京。大学卒業まではずっと人見知りだった。 - 撮影=今村拓馬

■新人部下に言い続けた「もうちょっと謙虚にね」

入省5年目、28歳のときに係長に昇進しました。かなり厳しめの女性の上司の下、入省したばかりの男性の部下がひとりというラインでした。

この部下の男性、オードリーの春日さんみたいに体格がよくて、やはり春日さんのようにいつも胸を張って歩く人でした。そのせいで、どうしても偉そうに見えてしまうんですね。彼はとても頭がよくて優秀な人ではあったけれど、私はいつも「もうちょっと謙虚にね、もうちょっと丁寧ね」と彼に言い続けなければなりませんでした。

役所というところは細かな決まり事がたくさんあって、おそらく彼には、「こんなこと、本当に必要があるの?」という思いもあったのでしょうが、ともかく、彼には細かいルールや行儀作法など教え込まなくてはならないことが山ほどあったのです。

■彼の成長を阻害していたのは私だった

「いったい、この偉そうな部下をどうやって育てていけばいいんだろう?」

ちょうどそんな悩みを抱えていた時に、私は妊娠をしてしまいました。当時は育休などという制度はなく、産前6週産後6週の休業しかありませんでしたが、たったそれだけ休むのにも、「私の居ない間、彼に仕事を任せなくてはならないのか」と心配で心配でたまりません。

私は一所懸命に仕事の引継ぎをし、ありったけのことを彼に教えて、もう泣きたい気持ちで休業に突入したのでした。

産前産後の休業が明けて職場復帰をした日、私は大変なショックを受けてしまいました。なんと、「春日君」が見違えるほどしっかりしていたのです。そんな彼の姿を見て、私ははたと気づきました。彼の成長を阻害していたのは、他ならぬ私だったのだと……。

当時の自分の心理を振り返ってみると、おそらく私は厳しい上司に自分のラインの仕事を評価してほしかったのだと思うのです。だからこそ、春日君を手取り足取り厳しく指導していたのです。ほしかったのは、部下の成長ではなく、あくまでも自分に対する上司の評価だったのです。

■厳しく接していた部下が「お財布を握る役職」に

ひとり目の子どもが生まれてしばらく経ったとき、今度は、春日君とは正反対の小柄で気の弱い男性にいろいろと仕事をお願いすることになりました。彼はなかなか言われた通りのことができず、なぜできないのかをうまく説明してくれません。春日君とは別の意味でとても手がかかる部下でした。私は彼に対しても、とても厳しく接しました。

そうこうするうちに、私は島根県の労働基準監督署に、課長として転勤することになりました。そして、あろうことか、私が厳しく接してきた小柄で気の弱い部下が、一緒に島根に転勤することになったのです。

しまった! と思いました。なぜなら彼は「お財布を握る役職」として島根に赴任することになったからです。

「きっと意地悪をされるんだろうなー」

私はそう覚悟をして島根に向かいました。

ところが、私の予想に反して、むしろ彼は私をよく助けてくれたのです。彼はつくづく、善良な人だったのです。「部下に偉そうに接しても、いいことなんて何もない」と悟った次第ですが、この件にはちょっとした後日談があります。

私は島根に赴任した後、35歳で2人目の子どもを出産しましたが、生まれてきた子の性格が第一子とあまりにも違うのです。同じ親から生まれてきたとは思えないほど、ぜんぜんタイプの違う子なのです。

対照的なふたりの部下を持った時期が、子育ての時期に重なっていた
撮影=今村拓馬
対照的なふたりの部下を持った時期が、子育ての時期に重なっていた - 撮影=今村拓馬

■「ふたりの部下」と「ふたりの子ども」に学んだ

対照的なふたりの部下を持った経験と、まったく性格の異なるふたりの子どもを育てた経験が重なり合って、私はひとつの気づきを得たように思います。同じ親からこんなに違う子どもが生まれてくるのだから、親も違い、バックグラウンドも違う部下が、「違う」のは当たり前のことなのだと。なのに私は、「ここまでできなければ合格とは言えない」と一律に線を引いて、口うるさく指導していたのです。

このことに気づいて以来、私は大変身したと思います。部下との向き合い方も大きく変わったと思いますし、私自身の仕事のやり方も大きく変えました。

それまでは、A君もB君も同じレベルの仕事ができるように厳しく指導してきたわけですが、大変身以降は、たとえばA君は○○が得意、B君は××が得意ならば、A君とB君を組み合わせて仕事をさせればいい、自分がカバーできるところはカバーすればいいと考えるようになりました。いいところは伸ばして、欠点は補い合うようにすればいいではないかと。

■成長することは「欠点がなくなること」ではない

私自身も、自分はこれが不得意だから助けてもらえないかと、周囲に自然に頼めるようになりました。もし、ひとりきりでパーフェクトに仕事ができなければならないと思っていたら、私はおそらく「次官になれ」と打診されたとき「私には無理です」と返事をしていたと思います。

「成長することは欠点がなくなることではない」という
「成長することは欠点がなくなることではない」という(撮影=今村拓馬)

ふたりの部下とふたりの子どもを通して、パーフェクトにならなくてもいいんだということを実感し、欠点を補い合う仕事のやり方を身につけたからこそ、おそらく次官という重責を怖いと思いつつも、勇気を出して引き受けることができたのだと思います。

成長するって、よく言いますよね。私は成長するって、欠点がなくなることではないと思うのです。自分の欠点を自覚することによって、失敗を予防したり、失敗の埋め合わせができるようになること。それが成長ではないでしょうか。

欠点って、一種のキャラですよね。それを完全に無くしてしまうことなんて、人間にはできません。優れた人に近づこうとするのではなく、私は私というタイプを作り上げていけばいいんだと思うと、ずいぶん気持ちが楽になりますよね。

■猛烈な反対に遭った「障害者自立支援法」

さて、最後の失敗談は、厚生労働省で40代の課長として障害者福祉の仕事をしているときのことです。

当時、私は障害者自立支援法という新しい法律作りに携わっていたのですが、この法律は当事者団体から猛烈な反対に遭っていました。なぜなら、障害者が福祉サービスを受けた場合、1割の自己負担を求めるという法律だったからです。これは確固とした財政基盤を作るために不可欠の仕組みでしたが、当事者団体の代表から言われた言葉をいまでも忘れることができません。

「飯を食うにも、排泄をするにも金を取るのか?」

その通りです、としか言いようがありませんでした。重度の障害を抱えた方は、介助がなければ食事も排泄もできません。所得の低い方には免除措置があるとはいうものの、財源確保のために、障害のある方々からお金を取ろうとしているのは紛れもない事実でした

しかし、私はこう考えていたのです。

医療保険の世界でも介護保険の世界でも、一定の自己負担をお願いしています。病状が悪化したり要介護度が上がったりすれば食事にも排泄にも介助が必要になり、どちらの場合も一定のお金を取っている。なのに、どうして障害者だけは別だというのだろう。もし、別だというなら、その根拠を障害者自身が説明するべきではないか?

■正論をぶつけて議論に勝とうとするのが未熟だった

障害者自立支援法は、大反対のなか2005年の10月に成立しました。当事者団体に疑問をぶつけて、議論に勝って、「村木さん、あなたが正しい」と認めてもらって法案を進めるというやり方もあるのではという思いがありました。しかし、私の中の何かが、当事者に向かって「どうして障害者だけが違うのか説明してほしい」と質問するのを思いとどまらせたのです。

それから何年もの間、私は自分の問いは間違っていたのだろうか、本当は相手に問いをぶつけるべきではなかったのかと、事あるごとに思い出しては自問してきました。そしてようやく最近になって、当時の自分の未熟さに気がついてゾッとしたのでした。

質問の中身自体は間違ってはいなかった。しかし、明らかに「問いの投げ方」を間違えていたのだと思います。この質問を障害者に投げつけることは、障害者の問題なんだから障害者が答えを見つけなさいと突き放すこと、障害の問題を「他人事」にしてしまうことでした。本当に、あの時、この言葉を口に出さなくてよかったと思います。おかげで、障害者団体の方々との関係を壊さずに済みました。

■役人は理屈が合っていれば正しいと思いがち

役人は、理屈が合っていれば正しいと思いがちです。しかし人間は、正しいことを突きつけられたとき、それが正しいからといって素直に飲み込めるかといったら、そうではないんですね。正しいと理解することと納得することは、別のことなのです。だから、物事を進めて行くときには、「正しいんだから、これでいいだろう」と言ってはいけないのです。

当時40代だった私は、このことに薄々気づき始めていたのかもしれません。だから、ギリギリのところで質問を引っ込めたのではないか……。

正しいことを言って、関係を悪化させてしまうのは役人がよくやる失敗です。私の部下にも、関係団体との折衝に出かけていってよく喧嘩をして帰ってくるヤツがいました。ある時、関係団体の方からこう言われたことがあります。

「お前のところのアイツは何だ? 理屈は正しいかもしらんけど、浴びせ倒しはダメだよ」

大切なのは、正しいことを主張して相手を打ちのめすことではなく、相手を説得し、納得してもらって帰ってくることなのです。

「正しいことを言って、関係を悪化させてしまうのは役人がよくやる失敗」と振り返る
撮影=今村拓馬
「正しいことを言って、関係を悪化させてしまうのは役人がよくやる失敗」と振り返る - 撮影=今村拓馬

■「ものすごく成長する」部下に秘密の教育法

かつて、厚生労働省の先輩で最高裁の判事も務めた藤井龍子さんは、部下が外部の団体と喧嘩をして団体との関係が壊れそうになると、部下に悟られないようにこっそりその団体を訪ねていったそうです。部下には内緒で、なんとか関係を修復して、「もう一度、あの部下を寄越しますからよろしく」と伝え、部下をしっかりと教育した後、実際にもう一度同じ団体を訪問させていたというのです。

そうすると部下がものすごく成長するというので、私も2回ほど藤井さんの真似をしたことがありますが、2回とも大成功でした(笑)。

ちなみに、障害者自立支援法のときにやり合った当事者団体の代表の一人は、こうおっしゃいました。

「自分の財布の中身と相談しながら今日何を食べるかを考える。それが自由というものだ」

どんな福祉サービスを受けるかは、財布の中身と相談しながら障害者自身が決めるべきである。1割負担に対する、彼らしい賛成の表明でした。

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村木 厚子(むらき・あつこ)
津田塾大学 客員教授
1955年高知県生まれ。高知大学卒業後、78年、労働省(現・厚生労働省)入省。女性や障害者政策などを担当。2009年、郵便不正事件で逮捕。10年、無罪が確定し、復職。13年、厚労事務次官。15年、退官。困難を抱える若い女性を支える「若草プロジェクト」代表呼びかけ人。累犯障害者を支援する「共生社会を創る愛の基金」顧問。住友化学社外取締役。津田塾大学客員教授。著書に、『あきらめない 働くあなたに贈る真実のメッセージ』(日経BP社)、『私は負けない 「郵便不正事件」はこうして作られた』(中央公論新社)などがある。

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(津田塾大学 客員教授 村木 厚子 聞き手・構成=ノンフィクションライター・山田清機)

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