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モネの作品とは思えない…白内障の手術を3回受け「もはや画家の目は失われた」失意の中で描いた晩年の睡蓮

プレジデントオンライン / 2024年2月10日 8時15分

出典=『白内障の罠』

白内障の手術数は国内で年間約167万件。その歴史も長い。眼科外科医の深作秀春さんは「約100年前に86歳で亡くなった印象派の画家モネも白内障だった。有名な睡蓮のシリーズは、白内障患者特有の見え方によって色彩などが変化している」という――。

※本稿は、深作秀春『白内障の罠 一生「よく見る」ための予防と治療』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

■「睡蓮」の絵に見る白内障患者モネの見え方の変化

見るということ、そして白内障というものを知るために、まずは意外な視点からアプローチしてみましょう。この「見る」という行為を考える上で分かりやすいのが、ある著名な画家による芸術作品と、目の変化による作品への影響です。

「睡蓮」の絵で有名なフランスの画家モネについては、皆さんも聞いたことがあるでしょう。日本でも上野にある国立西洋美術館だけでなく、全国各地の美術館などで、モネの「睡蓮」の絵を見ることができます。2024年には「睡蓮」が見られるモネの展覧会もいくつか開催されています。

もちろん、海外に行けば、パリのオランジュリー美術館には、「睡蓮の間」という、楕円(だえん)形に作られ、壁に睡蓮の大作が囲むように飾られた大きな部屋が2つあり、モネの睡蓮の絵の連作に包まれる感動があります。

なんと近代絵画の殿堂であるMoMA近代美術館でも「モネの睡蓮」が一番人気なのです。このモネの睡蓮の絵を見てみましょう。

■日本文化に憧れたモネが作った美しい「睡蓮の池」

モネの家があったジヴェルニーは、パリの北にあり、私も3回も訪れて、現地で私自身が睡蓮の池を油彩画に描きました。【口絵1】が、私が撮影した実際の風景写真です。

浮世絵などから日本の美への憧れがあったモネは、この日本庭園と睡蓮に魅せられて、ジヴェルニーに造成した水の庭に、睡蓮を取り寄せて栽培し、日本風の太鼓橋を作りました。その後モネは、この睡蓮の池をライフワークとして長年描いています。

【口絵2】は、シカゴ美術館展示のモネの「睡蓮の池」で、1900年の作品です。モネは1898年ごろから、ジヴェルニー村の自宅の庭に水を引き込んで池を作り、睡蓮の連作を描き始めています。1900年にはデュラン=リュエル画廊に「睡蓮の池」を展示して、徐々に人気となっていったのです。

この作品は、モネが60歳の円熟の時の作品で、明るい光と色彩にあふれて、印象派の特徴的な色使いがなされています。特に、緑と青の鮮やかな色彩――睡蓮、太鼓橋、木々、水に映る反射などの、光と影の織り成す刺激的な明るい彩度の高い色――で満ちているのです。

まさにモネが若いころから実践してきた、自然の中で描き、自らの目と脳を通し、「見えるがまま」に描いた、自然の風景なのです。これこそが、当時の革新的な絵画技法であった「印象派」の色彩の織り成す錦模様だったのです。

■82歳のモネは白内障が悪化し、濁った色彩の絵を描いていた

一方で、【口絵3】を見てみましょう。これはモネの晩年の絵です。1922年作で、モネが82歳のときの絵です。ジヴェルニーの彼の家の池にある、同じ睡蓮の池と太鼓橋を描いたものです。

モネ作「睡蓮の池」と「ジヴェルニーの日本風の橋」
出典=『白内障の罠』

この絵を、1900年に描いた60歳の時の作品【口絵2】と比較してみましょう。色彩から緑や青の鮮やかさは消えて、茶褐色になっていますね。形態の輪郭は崩れて、日本風の太鼓橋の形もぼんやりしています。同じ場所を同じ作者のモネが描いたとは、にわかには理解しがたいほどの変貌ぶりです。

多くの評論家によると、妻のアリスの死や、その後の長男ジャンの死がきっかけで、このような絵を描くようになり、これが後のフォーヴィスム(野獣派。目に映る色彩ではなく心が感じる色彩を使うのが野獣のようだとされた描き方)や抽象画の始まりである、とされています。

たしかに、崩れた形態や固有色から離れた色彩は、フォーヴィスムや抽象画の萌芽(ほうが)といいたい気持ちも分かりますし、関連があるようにも見えます。人によっては、この絵をゴッホの絵と勘違いする人さえもいるでしょうね。

【図版1】目の構造とカメラの構造
出典=『白内障の罠』

■目の水晶体が透明なレンズから黄褐色のレンズに変化

しかし、この見方は全く間違っているのです。私は眼科外科医として、白内障手術を中心に約25万件もの手術をしてきて、患者の術前・術後の見え方を観察しています。また、プロの画家としても彼らの見え方を注意深く観察しています。この経験から、このモネの絵画における色彩や形態の変化は、「白内障患者特有の典型的な見え方の変化」だと断言できるのです。

目の構造はカメラに似ています(図版1)。カメラのレンズに相当するのが水晶体というレンズです。

白内障患者では、目の水晶体レンズの組織が変化してきます。水晶体は老化現象などにより、若いときのほぼ透明なレンズから、黄褐色のレンズに変化してきます。

このために、全体に光の透過性が下がり、全体的にぼんやりと見えるようになります。さらに、ピンクなどの淡い色は見えなくなりますし、ものの境界もはっきりとは見えなくなってくるのです。また、透過光が減るので、全体的に雲がかかったようになり、暗く見えますし、視力も落ちるのです。

また、白内障になった水晶体の色である黄色やオレンジ色、この補色である、青や紫、濃い緑色などの光の短波長が、黄褐色化した白内障水晶体で吸収されます。このために青や紫や濃緑色のものから来る光は吸収されて、黒色のものと区別がつかなくなります。

■進行すると青や紫が黒に見え、正しい色彩が分からなくなる

そのため、よくある現象ですが、白内障患者にとっては、青い靴下と黒い靴下が両方とも黒く見えるようになるのです。また、紫色の派手なシャツやズボンが、黒いシャツやズボンに見えるのです。また濃緑色も黒っぽく見えるようになります。

ここで気づくでしょうか? 口絵2の絵で使われた、モネの60歳時の印象派特有の華やかな青、緑、紫などが、口絵3の晩年のモネ82歳時の絵では、黒ずんだ茶褐色の色彩となり、かつ形態もぼんやりしてくるのです。モネの絵画の変化は、まさに典型的な白内障患者の見え方の変化なのです。

クロード・モネ「睡蓮 緑の反射」〈オランジュリー美術館所蔵〉
クロード・モネ「睡蓮 緑の反射」〈オランジュリー美術館所蔵〉(写真=-wEwoHEvFukepQ at Google Cultural Institute/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

モネの目は、1904年ごろから白内障を発症します。08年のイタリアのヴェニス旅行での絵画制作で、視力が悪くなり色彩がうまく使えないことを嘆いています。白内障は透明なレンズが黄褐色を帯びたレンズとなりますので、黄褐色のガラスを通してものを見るようなものなのですね。色彩をうまくとらえられないことで、モネは作品への不満から、自分自身で多くの油彩画を廃棄しています。

モネの眼科記録を調べたところ、12年には、地元の眼科医から両眼の白内障との診断を受けています。さらにその後も、当時の多くの著名な眼科医の診察を受けています。手術も勧められているのですが、当時の白内障手術の技術は低かったため、視力を失う危険性も高く、モネは手術を恐れて、手術は受けたくないと拒絶しているのですね。

■日本も含め、少し前の白内障手術は危険でさえあった

モネの時代の眼科白内障手術は、現代の眼科手術とは全く異なり、危険でさえあったのです。ただし現代であっても、日本は世界からつねに眼科手術が遅れているのも事実です。

私自身の体験談です。ほんの30数年前のことですが、私がまだ若造で、アメリカから帰ってきたばかりの時のことです。アメリカでは当たり前の超音波白内障手術と眼内レンズ移植術を、私が日本で初めて多くの症例で施行して、ほぼ全ての患者で1.0以上の視力を出して驚かれ、評判になりました。しかし、当時の日本の大学病院などでは、眼内レンズなど危ないだとか、超音波白内障手術など理解できないというのが大勢でした。

■30年前の日本でもモネの頃と同様の手術が行われていた

つまり、当時の日本では、モネのころと同じような手術方法であり、手術後に分厚い凸レンズのメガネをかけて、視力が0.1以上出れば成功だとされていたのです。ほとんどの施設では眼内レンズなどはなく、凸レンズのメガネを術後に装用したので、見え方は、ものが拡大され、色も異なって見えたのです。

つまりモネが嘆いたのと同じように、色も大きさも違って見えてしまい、視力も悪かったのです。ですから、手術時期も、ほぼ失明近くになってから行なっており、結果も悪く、モネの時代の眼科手術を彷彿とさせるものだったのです。

モネは白内障が進行した1918年の手紙で、「もはや、色も分からず、赤も土色にしか見えない。桃色や中間色は全く見えない。青や紫や濃い緑は、黒く見える」という苦悩を書き綴っています。モネの晩年の絵画の変化が白内障の影響による変化だったことを、モネ本人が述べているのです。

モネはこのころには、評価する人やファンも多く人気作家になっていました。さらに1920年には、友人でもあったフランス首相のクレマンソーが、国家プロジェクトとして、オランジュリー美術館をモネの睡蓮の大作で飾ることを決めました。

そのことがモネに伝えられると、モネは1922年の手紙で、「もはや自分は失明状態である」として、いったんはクレマンソーの申し出を断っているのです。

しかし、クレマンソーの励ましもあり、絵を描けるようにと、1923年にパリの眼科医クーテラ医師から、右目だけの白内障手術を受けることになったのです。

■旧式の白内障手術を受け「もはや画家の目は失われた」

当時の白内障手術は旧式の嚢外法でした。まず、目の水晶体を囲むカプセルをグレーフェ刀という長いメスで切り裂き、白内障(白濁した水晶体)を洗い流します。しばらくして残った白内障の残りを洗ったり、また線維化したカプセルを切ったりします。

モネもこのような方法で、半年で3回も手術を受けたのです。結果は、凸レンズをつけた右目の矯正視力は0.4ほど出ました。しかし、人工水晶体(眼内レンズ)などはない昔なので、術後に分厚い凸レンズメガネをかける必要があったのです。

【図版2】手術後のモネの写真
出典=『白内障の罠』

そのせいもあって、手術後のモネの目では「ものが大きく拡大し、ゆがんで見えて、色彩の感覚も全く違い、もはや画家の目は失われた」と、モネは嘆き落胆したのです。当時の眼科外科医の技術ではやむを得なかったのです。

ただし、現代の、少なくとも私の手術では、全く苦痛もなく、すぐに1.0以上の視力を得られます。私の手術患者は、多くが多焦点レンズ移植を選ぶので、裸眼で、近く、中間、遠方と途切れなく見えます。

■再手術を乗り越えオランジュリー美術館の大作を描いた

当時の手術には、現代とは比べるべくもない問題がありましたが、モネはそれでも、メガネを装用し、さらに見え方の訓練を行ない、少しずつ慣れていきました。そして、ジヴェルニーの家に鉄骨枠でガラス張りの大きなアトリエを作り、その中で、ジヴェルニーの池の前で描いた睡蓮の絵を仕上げていったのです。見え方の練習をして、またメガネもよいものに変えたりしながら、制作を進めました。

【口絵4】を見ていただければ、興味深いことが分かります。白内障手術前に描いた場所(左上半分)には、茶褐色が残っていますが、手術後には、ピンク、青、紫、緑が再び見えるようになり、下半分では多くの色を描いています。白内障の時に描いた場所と手術後に描いた場所の色彩の違いが、1つの絵の中にあるのですね。

【口絵4】モネ「アイリス」1922-1926年、油彩、シカゴ美術館蔵
出典=『白内障の罠』
深作秀春『白内障の罠 一生「よく見る」ための予防と治療』(光文社新書)
深作秀春『白内障の罠 一生「よく見る」ための予防と治療』(光文社新書)

こうして、クレマンソーの励ましもあり、睡蓮の絵の大作の制作も進みました。このモネの制作は、1926年12月に86歳で亡くなるまで続いたのです。

翌年、この睡蓮の大作はパリのオランジュリー美術館に納入されました。そこには、先にも紹介した、大きな楕円形の睡蓮の間という部屋が2つあります。

部屋の壁は、出入り口以外は、2メートル四方の大きなキャンバスをつないで描かれたジヴェルニーの池と睡蓮で埋め尽くされています。鑑賞者はまるで、ジヴェルニーの睡蓮の池の中で包まれているような不思議な感覚を味わいます。

この絵は今や、フランスの至宝となっています。

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深作 秀春(ふかさく・ひではる)
深作眼科院長 眼科外科医
1953年神奈川県生まれ。運輸省航空大学校を経て、国立滋賀医科大学卒業。横浜市立大学附属病院、昭和大学藤が丘病院などを経て、1988年深作眼科を開院。これまでに25万件以上の手術を経験。アメリカ白内障屈折矯正手術学会(ASCRS)にて常任理事、ASCRS最高賞を20回受賞。世界最高の眼科外科医を賞するクリチンガー・アワード受賞。『視力を失わない生き方 日本の眼科医療は間違いだらけ』『緑内障の真実』『白内障の罠』(以上、光文社新書)、『世界最高医が教える 目がよくなる32の方法』(ダイヤモンド社)、『視力を失わないために今すぐできること』(主婦の友社)、『100年視力』(サンマーク出版)、『失明リスクのある病気の治療法』(河出書房新社)など著書多数。

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(深作眼科院長 眼科外科医 深作 秀春)

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