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織田信長の桶狭間の戦いよりすごい…8000の兵で8万の大軍を倒した「相手の油断を誘うまさかの方法」

プレジデントオンライン / 2024年2月22日 6時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Thawatchai Chawong

持たざる状態で一大勢力に勝つにはどうすればいいか。歴史家・作家の加来耕三さんは「戦国時代の名将・北条氏康は『河越城の戦い』にて8000の兵で8万の兵を打ち破った。十倍の敵では勝ち目はないから、『城は明け渡すから、なんとか城兵の生命を助けてやってほしい』と敵に書簡や使者を送り、頭を下げた。そして相手が『北条軍に戦意なし』と油断し切ったところで、夜襲を決行し、鮮やかな大逆転勝利をおさめた。相手の心理状態をコントロールすることができれば、人もお金もさほど必要なく、勝利することができる」という――。

※本稿は、加来耕三『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』(クロスメディア・パブリッシング)の一部を再編集したものです。

■カネもない、人もいない中で作戦を遂行し、勝利する

予算は少ない、人員も十分ではない。他の部署からのサポートも期待できない……。

ないものづくしの中で、リーダーは知恵をしぼって戦術を考え出し、目標を達成しなければなりません。

戦国武将も、現代のビジネスパーソンと同じでした。つねに十分な兵力、資金、物資が用意されているわけではありません。

敵が襲ってきたら、四の五の言わずに戦わなければなりません。敵はこちらの準備万端を、待ってはくれません。

古今を問わずリーダーの仕事は、“現有戦力”で戦い、勝つことです。

歴史上のリーダーはどのようにして、不利な状況から逆転勝利をつかんできたのか、その成功例をいくつかみてみましょう。

逆転戦術その一
質より量で勝負する

「こんなメンバーでは勝てない」

ついリーダーが口にしてしまう、愚痴です。

もっと優秀な人材が揃っていれば、もっと大きな成果が出せるのに……。

本当にそうかもしれませんが、叶わない以上、今いるメンバーで勝つ方法を考えるのがリーダーの仕事です。

織田信長はそんな状況から、見事、逆転勝利をあげてみせました。

■尾張の兵は弱い! なのに信長はなぜ、強い?

信長の合戦といえば、桶狭間の戦いや、馬防柵(ばぼうさく)を設けて3000挺の鉄砲隊で、武田の騎馬隊を打ち破った長篠(ながしの)・設楽原(したらはら)の戦いなど、鮮やかな大勝利を思い浮かべる人が多いはずです。

さぞ信長は、屈強な部隊を率いていたのだろう、と思われているかもしれませんが、実は信長の地元・尾張の兵は、弱いことで全国的に有名でした。

その証拠に、信長は尾張国(現・愛知県西部)の隣国である美濃国(現・岐阜県南部)を領土にするまでに、実に7年間もかかっています。

なぜなら、美濃の兵は屈強で、尾張の兵はとにかく弱かったからです。

尾張の兵が弱かったのは、土地が豊かだったからでしょう。田畑から豊かな収穫があるので、他国と戦って土地を奪う必要がなく、全体的に温暖でのんびりした雰囲気に包まれていたのが尾張でした。

田んぼ
写真=iStock.com/satoru nakao
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/satoru nakao

一方で美濃国は、尾張ほど土地が豊かではないため、兵たちはつねにハングリーであり、食べるためには戦って、他領を奪い取る以外に方法がなかったのです。

――信長が率いた兵が弱かったというのは、意外かもしれません。

しかし信長は悲観せず、弱いなりにどうすればいいか、をつねに考えていました。

彼は尾張の兵の弱さの原因でもある、“土地の豊かさ”に注目しました。海もあるため、伊勢湾貿易で大きな収益をあげているのも尾張国でした。

つまり、資金力は豊富であったわけです。信長はそのお金を弱い兵をカバーすることに使おうと考えました。銭で兵を集める――いわゆる、傭兵(ようへい)部隊を結成したのです。

■専属の家臣団を形成し、何度も攻めつづけた

信長は潤沢な資金を使って、足軽(あしがる)を次々に雇い入れ、専属の家臣団を結成しました。実はこの手法は、従来の戦のやり方を根本的に変える画期的なアイデアだったのです。

当時、合戦でかり出される足軽は、兼業農家の人々がほとんどでした。

ふだんは農作業に従事し、合戦となれば武具を身につけて出陣します。

今で言えば、業務委託のような形態で、必要に応じて出社するわけです。

合戦の度に、兼業農家がかり出されるのは何処も同じなので、稲刈りや田植えの時期になると、自然と争いは休戦となりました。農業の繁忙期に、戦などやってられるかというわけです。

しかし、信長が雇ったのは農民ではなく、諸国を食いつめた専業の足軽です。

農閑期も繁忙期も、彼らには関係ありません。

ですから通年で、いつでも出陣できるようになったのです。

兵の弱さを、手数(てかず)を出すことでカバーするという、信長の画期的なアイデアがここに生まれたのでした。

とはいえ、美濃の兵は強いので、攻め入ってもすぐに追い返されます。

しかしそんなことは、信長も百も承知であり、やられてもやられても新規の足軽を補充して、ひたすら美濃を攻めつづけました。

美濃の兵がいくら屈強でも、何度も何度も来られたらケガもしますし、疲れもします。

信長の軍はイナゴの大群のごとく攻め寄せてきて、追い返しても追い返してもキリがありません。

そのうえ困るのは、領土防衛戦のため、国主の斎藤氏から恩賞をもらうことができないのです。つまり、タダ働きをしていることになります。

その結果、美濃の内部で分断が起こりました。

■美濃南部の豪族、国人が信長の軍門に下った理由

尾張との戦場は、いわゆる国境(くにざかい)が主戦場となりますので、美濃の方では南部が中心──。

いざ尾張の傭兵が攻めて来たとなれば、美濃の南部の人はすぐさま対応しなければなりませんが、中部や北部に住む人たちはその都度、兵を引き連れて、遠路をはるばる応援に出向かなければなりません。

一度や二度ならまだしも、何回、何十回も戦場まで出向くには労力がいります。

戦えば勝ちますが、そのための戦費は自前です。次第に不満がたまってきて、「国境の領地の連中だけで戦っても、十分勝てるだろう」と言い出す者も出るようになりました。

そもそも美濃の中部や北部は、織田方に攻められていないので実害がありません。

それなのに、防衛戦に何度も呼び出されて、下手をすれば生命を落とすかもしれず、その間、田畑の管理も疎(おろそ)かになります。

次第に、南部からの援軍要請に応じる人数が減っていきました。

そうなると、美濃南部の人たちは大変です。彼らは自分たちの土地が織田方に奪われかねないため、つねに戦わざるを得ません。戦えば勝つのですが、尾張の侵攻はいつ終わるかわかりません。ついには、心が折れる人々が出始めました。

「いっそのこと、降参して織田家についた方がラクなのではないか──」

ある日を境に、まるでドミノが倒れていくように、次々と美濃の南部の豪族、国人(こくじん)たちは信長の軍門に下っていきました。

ドミノ
写真=iStock.com/ADragan
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ADragan

美濃を治めていた斎藤氏の勢力はその分、一気に弱まり、ついに残りの地域にも織田家の調略の手が伸びて、信長は美濃を手にすることができたのです。

信長は兵が弱いというハンデを、見事に克服しました。

兵が弱いのなら、一度や二度の戦いで勝とうとせずに、何度跳ね返されても攻めつづけられる体制を整えればいい、と考えて、しつこく、あきらめずに攻勢をくり返したのです。

質で勝てないなら、量で勝負する。迷惑に感じるほどつきまとう、というのも、弱者逆転の立派な戦術ではないか、と筆者は思います。

■信玄も謙信も、「鉄砲」は使えないと思っていた⁉

逆転戦術その二
飛び道具を使う

織田信長がいち早く鉄砲に目を付けて、戦場で活用したことは皆さんもご存知の通りです。

前述したように、兵が弱いという弱点を補うために、信長は飛び道具である鉄砲を導入し、軍団の兵力を増強しました。

しかし、これほど強力な兵器を、なぜか他の武将たちは信長同様には採り入れていません。なぜだったのでしょうか?

その理由は、鉄砲は戦場では使い物にならない、と広く思われていたからでした。

たしかに当時の鉄砲(火縄銃(ひなわじゅう))には、多くの欠点がありました。

・火薬を入れるのに時間がかかる
・命中率が低い
・射程距離が短い
・一度撃つと、次の弾を込めるのに時間がかかる(銃身が熱せられて、すぐには使えない)
・雨の日には役に立たない

これだけ欠点があれば、生命のやりとりをする戦場で使うのを、ためらうのもわかります。

事実、信長より一世代前の武田信玄も上杉謙信も、「鉄砲? こんなものは戦場では役に立たない」という反応でした。

彼らの騎馬隊は、仮に敵が鉄砲を撃ってきたら、一発目は馬上で片手に持つ竹の束を盾にしてそれを防ぎ、二発目を撃たれる前に、突っ込んで馬上、敵の首を斬り飛ばしていました。

武田軍には“石つぶて”を投げる部隊もあったので、そちらの方がはるかに鉄砲より役に立ち、コストもかかりませんでした。

■兵の強さに依存しない鉄砲に執着した信長

一方の織田信長の反応は、信玄や謙信とは違うものでした。

信長からすれば、尾張の弱兵でまともに戦っても勝てる確率は低いため、兵の弱さをカバーできる戦術を、つねに考える必要があったからです。

ひとつは、前述した一年中稼働できる正規軍をつくり、しつこく攻めつづける方法ですが、武田や上杉のような強兵集団には時間がかかりすぎます。

そんな中、兵自体の強弱はほとんど関係のない鉄砲に、信長は新たな可能性を感じたのでした。

もちろん、鉄砲には欠点が多いことも承知のうえです。が、他の可能性がなければ、信長は鉄砲に執着するしか方法がなく、自力で鉄砲の性能をアップグレードしていきました。

雨の日でも使えるように火縄の部分を傘付きにし、火薬の装填(そうてん)時間を短縮するためにカートリッジ式に変更しています。命中率や連射性を高めて、武器としての性能を上げていったのです。

ちなみに、日本に鉄砲が入ってきたときには、一丁が現代の価格で2千200万円以上だった鉄砲の値段が、信長が量産と改良に努めたおかげで、信長の晩年には50万円台にまでコストダウンすることができるようになりました。

関ヶ原の戦いでは、すべての大名が鉄砲を使うほどに普及していたのです。

鉄砲
写真=iStock.com/winjeel
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/winjeel

■兵が強い立花宗茂も、鉄砲の改良に熱中した

鉄砲については、生涯無敗の武将・立花宗茂も積極的に採り入れていました。

信長と違い、最強の兵を率いていた宗茂ですが、その勢力は柳河に13万石程度の、まだまだ小さなもので、どうすれば大軍を効率的に倒すことができるか、彼はつねに新しい戦術を研究していました。

そして信長同様に、鉄砲に技術的改良を加えて使用したのです。

実際、宗茂は関ヶ原の戦いの際に、西軍の将として、東軍に寝返った近江国(おうみのくに)(現・滋賀県)の大津(おおつ)城主・京極高次(きょうごくたかつぐ)を落としに出撃しましたが、開城にいたった勝因は鉄砲の連射速度にありました。

宗茂の鉄砲隊は、敵が一発撃つ間に三発撃つほど速射性に優れていたといいます。

カートリッジ式の火薬と弾丸を首にぶら下げていて、これを次々に装填して、連射したというのです。

兵の弱い信長と小勢力の宗茂は、兵同士がまともにぶつかり合うのを避けて、飛び道具を使って効率的に勝利を手にしていたのでした。

新しいものを目にしたときに、使ってみたいと思う人と、今まで通りでいいやと考える人がいます。

割合的には後者の人の方が多いように思いますが、戦術においては、新しいものを試そうとする積極性が必要なようです。

新しいものはまだ粗さが残る場合もありますが、信長や宗茂のように工夫し、磨いて、改良して完成度を上げていけばいいのです。

■世の中をひっくり返した「西郷どん」の特筆すべき合理性

逆転戦術その三
「士気」で勝負する

プレゼンなどで、競合相手が大企業やブランド力の高い企業の場合、戦う前から「勝てるわけがない」と考えてしまう人は多いもの。

名前や肩書きに圧迫され、気力で負けてしまっているわけです。

そんなとき、歴史の勝者はどのように逆転の戦術を描いたのでしょうか?

江戸幕府という約260年続いた巨大勢力を倒し、世の中をひっくり返した維新の英傑の一人、西郷隆盛の例を見てみましょう。

西郷隆盛といえば、「西郷(せご)どん」の愛称が物語るように、温和でおおらかなイメージをもつ読者も多いかもしれません。

しかし、単に「いい人」であるだけなら、歴史を変えることなどできなかったでしょう。

戦術を操り、兵を動かすときの西郷隆盛は、徹底したリアリストでした。

兵の数や士気を見極め、現実的に彼我(ひが)の戦力を見定めます。

本来の西郷は理数系に強く、物事を合理的に考える能力がありました。

島津の分家の篤姫(あつひめ)が、藩主斉彬(なりあきら)の養女として将軍家に輿入(こしい)れした際には、西郷が花嫁道具の手配を任されるなど、数字に強い面があったのです。

彼の戦術がいかんなく発揮されたのが、1868年(慶応4年)正月に起きた「鳥羽・伏見の戦い」でした。

このとき、すでに政権を朝廷に返上したとはいえ、旧幕府の軍勢は1万5000の大軍を擁していました。

対する西郷率いる薩摩藩兵は、わずか3000です。5分の1の兵で、立ち向かわねばならない状況でした。

西郷隆盛像
写真=iStock.com/PhotoNetwork
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PhotoNetwork

■兵力は1万5000対3000だが、士気は勝っている

このとき、長州藩はいまだ“朝敵(ちょうてき)”の立場にあり、京へ入ることができませんでした。

薩摩藩の実権を握る島津久光などは、「これは不味い」とすでに国許に逃げ帰っていました。

もし戦いに敗れた際は、「あれは西郷と大久保が独断で引き起こしたことだ」と弁明し、久光は二人を切腹させて事態を収めようと考えていたのです。

そんな中で、西郷は冷静に逆転勝利の方策を思案していました。

西郷の見立てでは、兵数のうえでは大きな差があるものの、両軍の士気を比べれば、むしろ薩摩藩の方が数段上と見ていました。

旧幕府の兵士たちも、“薩長許すまじき”と燃えてはいましたが、開戦するのか和睦するのかを定めず、前将軍の徳川慶喜や会津藩主の松平容保(かたもり)、桑名(くわな)藩主の松平定敬(さだあき)も、安全な大坂城にいて戦場には出てきていませんでした。

旧幕府軍の中途半端さを象徴していたのが、進軍中の大砲や銃でした。実弾を装填していなかったのです。

これから向かう先は京都であり、誤って流れ弾が朝廷に撃ち込まれれば一大事となります。“朝敵”とみなされたら大問題だ、とインテリの多い旧幕将たちは考えたのでした。

■士気が低ければ、大軍もただの烏合の衆

そもそも旧幕府側は、薩摩藩兵と戦になる可能性は低い、と見ていました。

圧倒的な兵力差を見て、薩摩藩はビビって退くだろう、と高を括っていたのです。

大政は奉還しても、まだまだ徳川家の威光は大きいと思っていたわけです。もちろん、これは完全な見込み違いでした。

西郷率いる薩摩藩兵は、「この戦いこそが討幕の幕開けとなる」との意気込みを強く持っていました。

一方の旧幕府軍の士気は中途半端、思惑もバラバラです。ひと口に旧幕府軍といっても旧幕臣だけではなく、会津藩、桑名藩をはじめとする諸藩からの招集された兵や新撰組も加わっていました。

彼らは1866年(慶応2年)に起きた第二次長州征伐の失敗で、幕府の威信が地に落ちていることを肌で感じていました。だからこそ、力づくで“薩長”を討とうとしたのですが……。

そんな状況の中で薩摩藩兵は容赦なく、開戦を告げる一発を旧幕府軍に撃ち込んだのでした。

のちに西郷は、「あれほど嬉しかった一発はない」と語っています。

鉄砲に実弾すらこめていなかった旧幕府軍は大混乱となり、次々に薩摩藩兵に蹴散らされていきました。

この一戦は、兵数という表面的な戦力に惑わされず、士気という実際の戦力を冷静に見極めた、西郷の勝利と言っていいでしょう。

現代のビジネスにおいても、ライバル会社の士気はどうなのか、まとまり具合は、とつけ込む隙を探ることは、弱者逆転の糸口になるはずです。

チャートの前に座っているビジネスマン
写真=iStock.com/ismagilov
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ismagilov

■十倍の敵を倒した戦術の中身

逆転戦術その四
油断させる

織田信長による桶狭間の戦いは、すでに触れたように、日本の“三大奇襲戦”の一つに数えられています。

2万5000の今川軍を3000の織田軍が破った有名な戦いですが、兵力差は2万2000もありました。

――では、三大奇襲戦の残りの二つを、読者はご存知でしょうか?

一つは、1555年(天文24年)10月、周防(すおう)・長門(ながと)・豊前(ぶぜん)・筑後(ちくご)・石見(いわみ)・安芸(あき)の守護を兼ねていた大内義隆を弑逆(しいぎゃく)した陶晴賢(すえはるかた)(前名・隆房)の3万の6軍を4000の兵で毛利元就(もとなり)が破った「厳島の戦い」です。こちらの兵力差は、2万6000でした。

もう一つが、1546年(天文15年)10月の関東管領(かんれい)の山内(やまのうち)上杉憲政(のりまさ)・扇谷(おうぎがやつ)上杉朝定(ともさだ)・足利晴氏(はるうじ)などの連合軍を、北条氏康(ほうじょううじやす)が打ち破った「河越(かわごえ)城の戦い」です。

この河越城の戦いは、他の二つに比べるとあまり知られていませんが、彼我の兵力差はもっとも大きく、8万対8000でした。

十倍の敵をさて、どのようにして倒したのか。その戦術を順を追って、見てみましょう。

■敵に書簡や使者を送り、頭を下げた北条氏康

河越城の戦いで見事、十倍の敵を討ち破ったのが、戦国時代の名将・北条氏康です。

初代・北条早雲(そううん)(正しくは伊勢宗瑞(いせそうずい))から三代目となる北条家の当主として関東一円を支配し、今川義元、武田信玄、上杉謙信という名だたる強敵相手に一歩も退かず、領土を守り抜いた人物でした。

しかし、そんな氏康を窮地に陥れたのが、関東管領・山内上杉憲政と同・扇谷上杉朝定、そして古川公方・足利晴氏らが手を結んだ大連合軍です。

本来、彼らは関東管領職を巡って利害が対立していたにもかかわらず、関東独立国を標榜(ひょうぼう)する氏康の脅威を排除するために手を組みました。

大連合軍は北条の重要な拠点である「河越城」(現・埼玉県川越市)を、8万もの大軍勢で十重二十重(とえはたえ)に取り囲みます。対する城内の北条軍は、わずか3000あまり……。

とても勝負にならない兵数差です。

それでも氏康は、逆転の機会をうかがいます。

まず河越城内の兵士たちに、「絶対に外に討って出ずに、城を守り続けよ」と指示を出しています。

幸い、城内には数カ月間持ちこたえられるだけの、兵糧の備蓄がありました。

そのうえで、氏康はライバルである今川義元や武田信玄と、密かに和睦を結び、北条勢が河越城救援に集中できる体制を作りました。

後顧(こうこ)の憂(うれ)いを断った氏康は、8000の兵をかき集めます。

もちろん、相手は8万ですから、皆目、勝ち目はありません。

しかし氏康は、大軍は油断しやすいことを知っていました。

すでに河越城を取り囲んでから半年以上が経過していて、大連合軍は北条方を侮り、なめてかかっており、その分、油断して士気は下がりきっていました。緊張感の欠けらもありません。

なにしろ、城内からまったく攻撃してくる気配がないので、だらけきった兵士たちは陣中に遊女を引き込む体(てい)たらく(好ましくない状態)です。

忍びからの報告で、そのだらしのなさを把握した氏康は、彼らをさらに油断させる戦術をとりました。

「城は明け渡すから、なんとか城兵の生命(いのち)を助けてやってほしい」

と、敵に書簡や使者を送り、頭を下げたのでした。

■気持ちを支配すれば、大軍もなす術がない

北条氏康は、三人の大将に対して、「これからは何でも言うことを聞くので、許してほしい」と降伏の使者まで送っています。

けれど彼らは、なにを今さら、といった態度で、その申し出を一笑に付しました。

「許してほしいなら、河越城だけじゃなくて、本拠地の小田原城も明け渡せ――」

と過大な要求を突き付けて来るありさまでした。

まだ河越城を落としたわけでもないのに、連合軍の陣中はすでに勝利したのも同然の様子となっています。戦場とは思えないほど、空気は弛んでいました。

北条軍に戦意なし、と判断した彼らは油断し切っていたのです。

一方、氏康はその間も、忍びを次々に大連合軍の陣中に送り込みました。ダメ押しとなる手を打つためです。

忍(しの)びたちには夜になるたびに、「敵襲だ!」と叫ばせました。

最初のころは北条の夜襲を警戒した大連合軍でしたが、声ばかりで敵は一向に姿を現してきません。幾度かやられると、ついには真(ま)に受けなくなってしまいました。

どうせまたデタラメだろうと、「敵襲だ!」と叫ばれても対応する兵士が、めっきり減っていったのです。

そうやって連合軍の気を、大いに緩ませておいてから、氏康は今度は本当に夜襲を決行しました。

8000の兵を4つの隊に分け、大連合軍のそれぞれの陣に斬り込ませたのです。

その夜、毎度おなじみの「敵襲だ!」の声が陣中に響きましたが、兵士たちは「またかよ」と真に受けず、動こうとしません。

寝ぼけ眼(まなこ)の兵が、次々と北条軍に討たれていきました。

半年間戦っていなかった彼らは、反撃するどころか、総崩れとなったのです。

連合軍の戦死者1万6000に対して、北条軍の死者は100名にも満たなかったといいます。

加来耕三『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』(クロスメディア・パブリッシング)
加来耕三『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』(クロスメディア・パブリッシング)

古今東西、例を見ないほどの鮮やかな大逆転勝利でした。

氏康は、敵の気持ちを上手に操りました。このようにすれば油断するだろうと見越して、次々と手を繰り出したのです。

現代のビジネスにおいても、心理戦の局面は多々あることでしょう。

相手の心理状態をコントロールすることができれば、人もお金もさほど必要なく、勝利することができます。

氏康の戦術は、現代にも通じる弱者逆転の法則といえるのではないでしょうか。

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加来 耕三(かく・こうぞう)
歴史家、作家
1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。『日本史に学ぶ リーダーが嫌になった時に読む本』(クロスメディア・パブリッシング)、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』(日経BP)など、著書多数。

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(歴史家、作家 加来 耕三)

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