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閉鎖寸前の出張所はなぜ再生したのか…「10年で預かり資産1兆円」を実現した大和証券シンガポールの奇跡

プレジデントオンライン / 2024年4月24日 18時0分

大和証券のシンガポール法人WCS(ウェルス・アンド・コーポレート・クライアント・ソリューションズ)で働く営業員たち - 撮影=永見亜弓

大和証券のシンガポール法人WCS(ウェルス・アンド・コーポレート・クライアント・ソリューションズ)は、日本人富裕層向けのサービスを手掛け、その預かり資産は1兆円を超える。だが、10年前までは事業が振るわず、閉鎖が検討されていた。大和証券社員はどうやって立て直したのか。『海を渡った7人の侍 大和証券シンガポールの奇跡』(プレジデント社)を出した野地秩嘉さんが書く――。(第1回/全4回)

■「このままではなんともならない。閉鎖しようか」

シンガポールで業績を伸ばしている金融サービスの組織がある。大和証券シンガポールの富裕層向けサービスを行っているWCS(ウェルス・アンド・コーポレート・クライアント・ソリューションズ)だ。2011年までWCS(当時の名称はGFS:グローバル・ファイナンシャル・セールス)はたった3人しかいないセクションで、本社幹部は「このままではなんともならない。閉鎖しようか」と考えていた。

ところが、かつてそのセクションを率いていたひとりの幹部が「最後にもう一度だけ勝負させてくれ」と訴えた。

その男、岡裕則(現副社長)は戦略を立てた。まず、国内支店からトップ営業員を異動させた。彼らに「日本と同じようにおもてなしスピリットで営業しろ。人間として好かれる男になれ」と訓示した。すると、ドメスティック営業マンはシンガポールに赴任したとたん、夜討ち朝駆けの昭和スタイルの営業で奮戦したのである。

それから仲間は増えていった。いずれも国内から出た営業マンだ。彼らは頑張った。そして、大和証券本社と国内支店からサポートを受けた。それから10年。大和証券シンガポールのWCSは預かり資産1兆円を達成してしまったのである。

■利益目標ではなく、「顧客の困りごと解決」を目指した

彼らの顧客はシンガポール人富裕層ではない。現地に移住した日本人富裕層だ。それまでは欧米系プライベートバンクがしっかりとつかんでいた顧客たちである。大和証券のドメスティック営業マンたちは昭和の営業スタイルとおもてなしスピリットで強大な海外資本のプライベートバンカーを打ち負かした。

彼らの勝因は利益目標を掲げたことではない。利益目標よりも「お客さまのために」という理念を実現することを目標にしたからだ。売り上げや利益を第一にしたのではなく、顧客の困りごとを解決することで、業績を上げたのである。

これは何も特別なことではない。数字だけを追っても結果はついてこない。人間は尻を叩かれても自らがやる気にならなければ仕事にのめり込むことはない。

営業現場では数字目標を掲げるより、理念を作り、それを守るほうがそれぞれの人間のやる気が出る。みんな、人が喜ぶ顔が見たいのだ。人に尽くして、人に喜んでもらうことが好きだ。大和証券シンガポールの営業マンたちは人に喜んでもらうために働いた。

■最初の侍・岡裕則がまずやったこと

大和証券は野村證券(野村HD)、みずほ証券(みずほFG)、SMBC日興証券(三井住友FG)、三菱UFJモルガン・スタンレー証券(三菱UFJFG)とともに、総合証券会社の大手5社であり、業界2位だ。そして野村證券とともにメガバンクの金融持ち株会社に属さない独立系の証券会社である。

そんな大和証券の海外担当の副社長が岡裕則だ。

2012年、岡はシンガポールを含むアジア全体の副担当役員になった。そして、手を付けたのがシンガポールで行っていた個人富裕層向けビジネスを改革することだった。

大和証券副社長の岡裕則さん。シンガポール向けサービスは閉鎖も検討されていたが、「最後にもう一度だけ勝負したい」と思い、国内支店からトップ営業員を続々と招いた
撮影=大沢尚芳
大和証券副社長の岡裕則さん。シンガポール向けサービスは閉鎖も検討されていたが、「最後にもう一度だけ勝負したい」と思い、国内支店からトップ営業員を続々と招いた - 撮影=大沢尚芳

まず、岡がやったのは香港の現地法人に残っていた個人口座をすべてシンガポールに移すことだ。アセットとして預かるのであれば分散させるよりも、1カ所に集中させたほうが効率がいい。また、預かる場所をシンガポールにしておけばマレーシア、タイ、フィリピン、インドネシアなど近隣のアジア諸国に移住している日本人富裕層も顧客の対象にできる。

加えて、シンガポールではさまざまな金融商品を充実させることにした。たとえば債券だ。債券は株とは違い、その証券会社が持っているもの、もしくは仕入れることができるものしか販売できない。販売する債券の種類を増やすため、シンガポールに債券に詳しい人間を連れてくることにした。

■閉鎖寸前の事業を立て直した「3つの理念」

債券についての情報がつねに入るような状態にするためだった。やることは無数にあり、やろうとすることを整理し、考えただけでも、頭痛がしてきた。だが、心身が疲労しようが、頭が爆発しそうになろうが、やるべきことを進めなくてはならない。

「何よりも大切なのは理念だ。数字ではない」

体験から岡はそのことをよくわかっていた。

数字を追ってただ儲けるだけではいずれ限界が来る。「稼げ、稼げ」と言って尻を叩いても人は動かない。それに、嫌々やっていることからは成果は生まれない。岡はそれをよくわかっていた。

個人富裕層ビジネスをやるための理念を決めた。

・何はなくとも、お客さま第一で行く。会社の都合で金融商品を薦めたりはしない。回転売買のようなことはしない。お客さまが欲しいと思う商品だけを薦める。

・次に、お客さまが困っていることを解決する。シンガポールに来て、子どもの学校を探している人がいれば相談に乗る。一緒に学校まで出かけて見学する。長い間、旅行に出る顧客がいれば留守宅の風通しと簡単な掃除くらいはやる。海外のプライベートバンクがやらないようなことも進んでやる。

・売り上げ至上主義にはならない。売り上げを追求するよりも、お客さま第一主義という理念を実行する。

そうして、お客さまが喜んでくれれば売り上げはついてくるし、他のお客さまを紹介もしてくれる。

そうして、閉鎖の寸前まで行っていたシンガポール富裕層ビジネスは再構築されることになったのである。

約564万人が住むシンガポール共和国。そのうち、日系企業数(ジェトロ海外進出日系企業実態調査における調査対象企業数)は1084社あるという(2022年12月現在)
撮影=永見亜弓
約564万人が住むシンガポール共和国。そのうち、日系企業数(ジェトロ海外進出日系企業実態調査における調査対象企業数)は1084社あるという(2022年12月現在) - 撮影=永見亜弓

■2人目の侍・国内トップ営業の山本幸司

岡は当時こう決めた。

「シンガポールはアセット積み上げ型のビジネスにする。香港の日本人富裕層の口座もシンガポールに移す。カストディーと金利収入の増加を図る。何よりもこれからは本社との連携を強化する。本社にシンガポールと連携するための部署を作ってもらう。シンガポールを基地にして香港、タイ、マレーシアにいる邦人富裕層にもいずれアプローチする」

2012年10月、ひとりの国内営業マンが大和証券シンガポールに赴任してきた。ドメスティック営業の典型だった男、山本幸司である。大和証券に入社してから吉祥寺支店、名古屋支店、従業員組合の役員、銀座支店と国内支店営業まっしぐらの証券マン人生だ。

そんな彼の営業人生は現実に正面から対処するものだった。証券会社の人間が売るものは主に株だった。株は上がり続けることはない。下がることもある。株は経済の反映だけではない。戦争、災害が起こっても変動する。未来のことが確実にわかる人間であれば連戦連勝だろう。だが、未来のことを確実に見通せる人間は世界にひとりもいない。

 

■損を出した顧客にこそ堂々と会いに行く

株が上がるか下がるかは誰にもわからない。顧客は得をしたり損をしたりする。

証券会社の営業マンは得をした顧客に対しては連絡を絶やさない。一方、損をした顧客に対しては敬遠しがちだ。だが、山本はそうではなかった。

撮影=永見亜弓

「損を出したお客さまにこそ逃げずに堂々と会いに行く」それが彼の仕事のやり方だった。だから、ナンバーワン営業マンになることができた。山本は高揚した気分でシンガポールに着き、オフィスに出社した。

だが、待っていたのは過酷な現実だった。個人富裕層向けビジネスのセクションはオフィスの片隅にあり、デスクは4つしかない。メンバーは上司にあたるプレイングマネージャーがひとり、そして後輩の営業がひとり、アシスタントがふたり。山本を入れて5人しかいなかった。

部の実績はさらに厳しかった。収支はほぼトントンだったが、そこに山本の人件費を加えたら赤字になる。まずは自分自身の給料を稼がなくてはならない。ただし、顧客はゼロだ。知らない国で、得意とは言えない英語を使って、営業しなくてはならない。

唯一、よかったことは日本人移住者が主なターゲットだったことだった。それなら日本語で営業ができる。

■名簿にある個人企業オーナーに片っ端からテレアポ

だが、営業する前にまずやらなくてはならないことがあった。これは山本に限らない。それはシンガポールにおける証券営業員としての資格を取ることだ。その後、日本国内から来星(シンガポール=星港に来ること)してきた営業員たち誰もが最初に直面する関門だ。

野地秩嘉『海を渡った7人の侍 大和証券シンガポールの奇跡』(プレジデント社)
野地秩嘉『海を渡った7人の侍 大和証券シンガポールの奇跡』(プレジデント社)

資格を取得するまではシンガポール国内での営業、勧誘などはできない。オフィスの片隅で英語の試験問題と格闘し、かつ内勤として先輩の補助的な仕事をするしかない。

そして、山本は資格を取った後、営業を始めた、最初はたったひとりの顧客も持っていなかった。国内ではナンバーワン営業マンだったけれど、まったくのゼロからスタートしなければならない。やったことは名簿集めだ。シンガポールに来ている日本人はたいてい「シンガポール日本商工会議所」に加入している。そこの名簿を当たって、個人企業の名前で入っている人間に電話営業することから始めた。

山本は電話をかけてアポイントを取ろうとした。たいていは「結構です」と断られる。

何本も電話をかける。次々と面会を断られる。それでも、たまに「じゃあ、会いましょう」と言ってくれる人がいる。

■半年間、客はひとりもできなかった

日本国内で100本の営業電話をすると99本は切られてしまう。それが、シンガポールでは100人のうち5人は面会までたどり着くことができた。傍から見ればわずかな確率だが、証券会社の営業員にとって「20人にひとり」は悪くないのである。

「日本で電話するよりよほど効率がいい」と感じた山本は機嫌よく、元気な声で、電話をかけた。

……しかし、それでもなかなか顧客を獲得することはできなかった。

「電話営業だけではダメだ」と感じた山本はシンガポールの日本料理店に置いてあるフリーペーパーに広告を載せている個人事業の事務所に飛び込み営業をした。また、大和証券と契約している弁護士事務所、会計事務所に足を運んで顧客の紹介を頼んだ。

赴任してからそうした活動を続け、加えて在住者が日本株の売買を行うのを取り次いで、少しずつ手数料を稼いだのだった。シンガポールに来て半年が過ぎた頃、初めての顧客を獲得することができた。

山本は思い出す。

 

「とにかく最初は苦労しました。お客さまがいなかったから、やることがないんです。ただ、東日本大震災の後で、移住する人は増えていました。弁護士事務所、会計事務所へも行きましたが、紹介してもらえるのは半年にひとりといった状態でした」

だが、山本はそこから頑張った。半年間、ひとりも客ができなかったが、日本に戻ろうとは思わなかった。背水の陣で赴任してから、シンガポールに骨を埋める覚悟だったのである。(第2回に続く)

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。旅の雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)にて「ゴッホを巡る旅」を連載中。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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