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米マンション崩落事故、母を失った「奇跡の生存者」と父の再出発【長文ルポ】

Rolling Stone Japan / 2022年7月16日 7時45分

Photo by Ysa Pérez for Rolling Stone

2021年6月、米南部フロリダ州マイアミ近郊サーフサイドの高級マンションの一部が崩落。死者98人を出したこの事故から1年が経過した。がれきの下から救出されたジョナ・ハンドラーさん(16歳)がトラウマとの闘いをローリングストーン誌に語った。

【救出時の写真を見る】重さ4トン以上のコンクリートの下敷きになったジョナさん

メールの着信音やSNSの通知音が静かに響くなか、ジョナ・ハンドラーさんはベッドの上でうとうとと眠りかけていた。ごく普通のティーンエイジャーの日常だ。スマホの時計は午前1時15分を示す。平日にしては夜更かしだ。するとその瞬間、何かが裂けるような大きな音が響いた。悪魔がバッティング練習でもしているのかと思うほどの轟音だ。その音を聞いて、ジョナさんの母親も飛び起きた。

ジョナさんと母親は、シャンプレイン・タワーズ・サウス1002号室のリビングルームから狭いバルコニーに出た。バルコニーは、北に向かって突き出ている。ふたりは上を見た。マンションの屋根から何かが落下したのか? あるいは、マンションの管理組合がようやく重い腰を上げて上層階の修繕工事をはじめたのだろうか? それとも、何か重いものがプールに落ちたのか? 2021年6月24日の早朝に起きた出来事の目撃者がまず目にしたのは、普段とあまり変わらない風景だった。散歩する犬、風に揺られて近くのホテルの壁をかすめるヤシの木。ジョナさんが首を伸ばすと、潮が引いて低くなったサーフサイド・ビーチの水面がキラキラと輝いていた。

ジョナさんと母ステイシー・ドーン・ファンさんは寝室に戻った。「大丈夫よ」と言って、ステイシーさんは息子のベッドの端に腰をおろした。ジョナさんは、くまのプーさんのぬいぐるみをぎゅっと抱いて脚を組む。ジョナさんが2歳の時に両親は離婚した。プーさんは、その時からの相棒だ。数分間、ふたりはただベッドに座っていた。ぼんやりとした、穏やかとも言える時間を過ごしながら。スプリンクラーは作動しない。警報器も鳴らない。

午前1時22分。建物が揺れた。そして寝室のドアに掛けられたミニサイズのバスケットボールフープの方向に部屋が傾いた。するとその時、雷が落ちたような音がした。

ジョナさんは、いまでもあの瞬間を鮮明に覚えている。いつでも思い出すことができるが、そんなことはぜったいに嫌だと言う。ジョナさんは立ち上がったが、次の瞬間には床に倒れていた。何かがガラガラと崩れる大きな音がし、ジョナさんは立ち上る噴煙に包まれた。そしてドンという音がした。重さ4.3キロほどのコンクリートのかたまりが倒れて、ジョナさんに覆いかぶさるような形で止まった。頭とコンクリートの間は、15センチあるかないかだ。ジョナさんは、野球のキャッチャーのような体勢でコンクリートの下敷きになってしまったのだ。コンクリートにあたった衝撃で背中が腫れあがるのを感じたが、どうにか耐えられた。左腕も自由に動く。右腕は、母親の片腕に絡まりながら、自分の身体に押しつぶされていた。腕が絡み合ったままの状態で、コンクリートに挟まれてしまったのだ。


母親の叫び「こんなふうに死にたくない!」

「僕たちは、腕組みをしたような状態でした。右腕越しにママの姿が確認できました」と、ジョナさんは振り返る。ジョナさんが公の場で崩落事故について語るのは、本誌の取材が初めてだ。互いの手を取りながら、母親の息遣いを感じた。母親はがれきのさらに奥に閉じこめられ、怪我をして血を流していた。のちにジョナさんは、母親が「こんなふうに死にたくない!」や「息ができない!」と泣き叫んでいたことを父親に語った。

父親が言うには、ジョナさんは「だったら黙っててよ!」と返事をしたそうだ。恐怖を感じながら、反抗期の青年らしい苛立ちを覚えたのかもしれない。


重さ4トン以上のコンクリートの下敷きになったジョナ・ハンドラーさん。母ステイシーさんは、がれきのさらに奥で身動きができない状態に。「僕たちは、腕組みをしたような状態でした。右腕越しにママの姿が確認できました」とジョナさんは語る。(Courtesy of Nicholas Balboa)

ジョナさんは、自由な左腕をがれきの外に突きだし、斜め下を向いた体勢からコンクリートブロックを蹴飛ばした。周りは暗かったが、マットレスや逆さまのオフィスチェア越しに、自分たちが高く積み上げられた家具とがれきの山——高さ12メートルくらい——の上にいることに気づいた。ジョナさんは、誰彼構わず助けを求めて必死に叫んだ。「助けて!  誰か、助けてください!」

午前1時40分頃、マンション近くのビーチ。見知らぬ人の懐中電灯のライトに反射して、ほこりがきらりと光った。ミニチュア・ピンシャーの散歩をしていた、アリゾナ・ダイヤモンドバックスのキャップを被った男がジョナさんの声に気づいた。男は、助けを呼びに行くと叫んだ。「お願い、ひとりにしないでください」とジョナさんは言った。「僕を見捨てないで!」。キャップの男は、がれきの山の上にいた警官に大声で呼びかけた。すると警官は、現場に真っ先に急行したファースト・レスポンダーに向かって懐中電灯を振った。彼らこそ、「スクワッド」の名で知られる、マイアミ・デイド郡消防署のレスキュー隊だ。「ここに子どもがいるぞ!」。午前2時頃、ようやく駆けつけた消防車のサイレンに紛れて、がれきの下でジョナさんはレスキュー隊に「ここから出してください」と助けを求めた。

ジョナさんを救出することは可能だ。だが、がれきの山はひどく不安定だった。レスキュー隊員は、重たいスプレッダーを設置してコンクリートのかたまりをこじ開けようとしたが、流砂の上でタイヤ交換をしているのかと思うほど足元がおぼつかなかった。別の隊員は、サイドテーブルを壊して、てこの原理を使ってジョナさんを救い出そうとした。だが、かろうじてコンクリートを動かすことしかできなかった。コンクリートは、ジョナさんの頭蓋骨のほぼ真上で止まった。隊員たちは、がれきやベッドフレーム、小さな破片をより分けて、ジャッキを固定した。その間、隊員たちは日常会話————マイアミ・マーリンズの4連敗やジョナさんのオフシーズン中のピッチング練習法など——をすることでジョナさんの平常心を保とうとした。がれきの奥から「もうすぐ16歳の誕生日なの」とステイシーさんの声がすると、隊員たちに衝撃が走った。彼らが助けようとしていたのは、まだ15歳の少年だったのだ。


「僕は、普通のティーンエイジャーなんです」

本誌が入手した通報記録などによると、午前2時19分から午前2時24分の間に、情報が錯綜するレスキュー隊の無線に朗報が舞いこんだ。負傷者の救出準備が整ったのだ。ようやく救助活動がはじまった。

その頃には、ジョナさんの右腕も自由になっていた。それでも、できるだけ長い間、母親の手を強く握っていた。「『大丈夫だよ』や『かならず助けてもらえるよ』と一生懸命励ましていました」とレスキュー隊のリーダーは振り返る。「ステイシーさんが息子さんを落ち着かせようと声をかけていたのではありません。実際は、その逆でした」。リーダーの男は、ジョナさんの両脇に手を入れて、がれきの下から引っぱり出した。そして、がれきの山を登ってきた体格の良いクレーン車の操縦士にジョナさんを託した。「靴を履いていないのか」と操縦士は言った。「下ろしても大丈夫かい?」。ジョナさんは、操縦士の肩にぐったりと倒れこんだ。操縦士に支えられて立ち上がると、ジョナさんは大声で叫んだ。「ママ、またあとでね! 愛してるよ!」。操縦士はジョナさんをストレッチャーに乗せた。「えらいぞ。よくがんばった。君は生きてる」


レスキュー隊は、約1時間以上がれきの下敷きになっていたジョナさんを救出した。救出の瞬間は、世界中のニュース番組で報道された。(Reliable News Media)

ジョナさんの青い瞳が消防車のライトを反射して光った。隊員は、「よくやった」と言わんばかりに、ジョナさんの拳に自分の拳を突き合わせた。がれきの山に囲まれて、ほんの一瞬、レスキュー隊員たちはジョナさんが笑顔を見せたと思った。だが、ステイシーさんは依然とし身動きができない状態だった。ステイシーさんを覆うコンクリートのかたまりの縁は、鉄筋によって古い天井の残骸とつながっていたのだ。動かすことはできない。ステイシーさんは、息子の安否を尋ねた。「息子さんは無事です、安心してください」と隊員が答えた。

ファースト・レスポンダーたちは、ジョナさんを真っ先にがれきの山から下ろした。ジョナさんが一息つけるようにと、ストレッチャーを押しながらプールテラスを一周し、コリンズ・アベニューを横断した。救急救命士から携帯電話を手渡されると、ジョナさんは父親に電話をかけた。「パパ、いまどこ?」
 
ジョナさんは、ネット上で「ミラクルボーイ」として一躍有名になった。だが、ジョナさんは、レスキュー隊員とフィストバンプを交わした映像を見たことがない。CNNやMSNBC、FOXニュースなどのニュース番組でヒーローとして取り上げられた第一発見者の男にも会ったことはない。事故から1年が経ったいまも、そんなことは望んでいないのだ。

2021年6月に起きたフロリダ州サーフサイドのシャンプレイン・タワーズ・サウスの崩落事故によって、98人の命が失われた。12階建てのマンションの崩落を生き延びたのは、ごく一握りの上層階の住民とネコ1匹だけだった。ステイシーさんと自身に代わって行われた、マンション管理組合相手の高額訴訟の訴状のなかでジョナさんは、「痛みと苦しみ、身体障害、容姿へのダメージ、精神的苦痛、人生を享受するための能力の欠如」などを強いられたと主張している。「これらの喪失は、永続的ないし現在も続いています」と訴状は続く。「ジョナ・ハンドラーは、今後もこれらの喪失に苦しみつづけるでしょう」

ジョナさんは、もともと口数の少ない青年だ。本誌の取材に応じながら、慎重に言葉を選ぶ。「この先もずっと『奇跡の生存者』として生きていきたいかどうかは、わかりません」と話す。「僕は、普通のティーンエイジャーなんです」


父親と息子の関係

16歳のジョナさんは、フロリダ州マイアミガーデンズのモンシニョール・エドワード・ペース・ハイ・スクールに通う11年生だ。野球部ではエースピッチャーとして活躍する一方、成績はオールAの優等生。おまけに、ゲーマーとしての腕前もトップレベルだ。ピザが好物で、恋愛に関しては少し奥手だ。思春期のティーンエイジャーらしく、いろんな不安を抱えて生きている。それでも、この世にはPTSD後の秩序というものが存在することを自ら証明しようとしている。生き延びることは簡単だが、生き続けることは必ずしもそうではない。その後、ジョナさんが奇跡を起こすことができた理由は、ここにあるのかもしれない。


ジョナさんと父ニールさん、サーフサイド・ビーチにて(2022年6月撮影)(Photo by Ysa Pérez for Rolling Stone)

ジョナさん曰く、昨年の夏と比べると、痛みはだいぶ減ったそうだ。上部脊椎の12カ所を圧迫骨折していた当時は、仰向けで寝ることもままならなかった。腰には固定用ベルトを巻いていたため、野球もできない。いまは父親と暮らしているが、母親と暮らしていたマンションのベッドの上で経験した恐怖のフラッシュバックに襲われることもなくなった。「いまは、ただ疲れています」とジョナさんは話す。寝室のカーテンは滅多に開けない。ベッドから起き上がるのも苦手だ。2月26日午前10時。フロリダ州の野球シーズンの開幕は早い。だが、その日の朝は思うように体が動かない。痛みが強すぎるのだ。2022年のシーズン初日だというのに、ジョナ選手は寝坊してしまったようだ。

父親が作った鶏肉入りフライドライスの匂いが漂う。あくびをしながらジョナさんは廊下に出た。リビングルームに掛けられた四角いフォトフレームに目が留まる。そこには、ジョナさんをおんぶするステイシーさんが写っている。写真のなかで、ふたりがにっこりと笑う。それを見るたび、ジョナさんは元気が湧いてくる。最近は、楽しかった頃のことを思い出そうとしている。「トラウマに閉ざされたままでいるのは嫌です」と話す。だが、具体的にどうやって前に進んだらいいかわからない。そんな時は、父親が助けてくれる。父親は、ジョナさんにとって大きな支えだ。

キッチンカウンターの後ろに、上半身裸のニール・ハンドラーさんが立っている。フライパンを片手に、ニールさんは息子の世代の読書離れを嘆いた。

「昔は、山ほど本を持っていましたが——」とジョナさんは話す。「もうありません。いまはYouTubeやスマホを見ます」

ニールさんは、熱々のフライドライスを盛ったボウルを息子に手渡し、成績表を見てこれ見よがしに不満をぶつける。「おい、Bがふたつもあるじゃないか。これをAにしないと、パパもお前も大変なことになるぞ」

「Bはひとつだけだよ」とジョナさんが反論する。「マヌケな先生が、修正するのを忘れたんだ」

「ふん、別の生徒がお前のAを拾ったんだろう」

ニールさんが”あの出来事”と呼ぶマンション崩落事故以来、父親は息子に意図的に厳しく接してきた。ジョナさんの部屋に掛けられたホワイトボードのカレンダーには、1時間ごとのスケジュールがぎっしりと書き込まれている。授業前の体幹トレーニングの次に野球の練習。その後、1時間かけて郊外に移動し、バッティングのプライベートコーチと特訓。それから街に戻り、いくつものセラピーを受けるのだ(レゴのようなロボットの精密な構造に夢中になって以来、ジョナさんは構造工学にすっかりハマっている)。「月曜の午後2時30分から午後3時30分までACT(訳注:アメリカの高校生が受ける大学進学のための標準テスト)の準備がはじまるぞ。グループ学習だ」と、たばこの煙越しにニールさんが念を押す。


「ママは助からなかった」

冬の間、ニールさんは毎日ジョナさんの送り迎えをした。それは、ニールさんがNFLのスター選手やインフルエンサーを顧客に抱える高級車ディーラーのセールスマンだからというわけではない。ジョナさんは、大きな音を立てる重機に怯えるようになったのだ。運転免許(訳注:フロリダ州では、15歳から仮免許証の取得が可能)を取ろうともしないし、海辺に停車しているブルドーザーにも近寄らない。ニールさんは、パンデミックの直前に近所のマンションを借りていた。月曜から木曜と各週末に前妻のステイシーさんのマンションからジョナさんが歩いて通えるように。「あそこです」と、縁なしメガネ越しに事故の現場を見やると、カーブしたバルコニーの隅に立ち、2棟先の建物の南方を指差した。ジョナさんとニールさんは、がれきの山が残る現場から約130メートルほど離れた場所でいまも暮らしている。ニールさんのマンションと例のマンションの外観はほとんど同じだ。

8カ月前、ジョナさんからの着信で目を覚ましたニールさんが、コリンズ・アベニューの反対側に駆けつけた時、通りに面したほうのマンションの棟はまだ崩落していなかった。午前3時をまわる頃、ニールさんはジョナさんが搬送される救急車に飛び乗った。そこで、重体患者が別の救急車にいることを知った。ジョナさんは首の後ろに重傷を負っていて、左腕には引っかき傷やあざがあった。派手に盗塁しても、ここまで怪我をすることはないだろう。ジョナさんは、母親は無事かと尋ねた。病院の職員たちは、正式にステイシーさんの身元を確認したわけではない。それでも、ジョナさんは看護師たちの身振りから、状況が思わしくないことを察した。だが、母親が98人の死者の最初のひとりになるなんて、その時はまだ知らなかった。

一服していたニールさんをカウンセラーが呼び止めた。事故の翌日、ステイシーさんの死亡が確認された数分後、ニールさんは自分から息子に訃報を伝えるとカウンセラーに申し出た。

ふたりきりになるため、ニールさんは病室から関係者を退出させた。ジョナさんが横たわるベッドに椅子を寄せて、「ママは助からなかった」と言った。


マンション崩落事故の98人の死亡者のなかで、最初に身元が確認されたのがステイシー・ドーン・ファンさんだった(享年54)。(Courtesy of the Handler family)

ジョナさんは、枕に顔をうずめてしばらくの間声を出して泣いた。そして「すべての出来事には、理由があるんだ」と父に言った。それ以来、ニールさんは息子の涙を見ていない。

58歳のシングルファーザーにとって、普通のティーンエイジャーは未知の存在だ。だが、”あの出来事”のあと、ニールさんは息子が普通のティーンエイジャーではないことを確信した。「(事故後もしばらくの間は)ちょっとしたことにも怯えていました」とニールさんは話す。高層ビルが立ち並ぶおしゃれなブリッケル地区でブランチを楽しんでいる最中に集中豪雨が襲ってきた時でさえ、ジョナさんは事故の恐怖を思い出してしまうのだ。ニールさんは、ESPNの天気予報をこまめにチェックした。「ゲリラ豪雨の音を聞いて、恐怖で身動きがとれなくなっている息子の姿を見るのは、親としてかなりつらいものがあります。まさに、車のヘッドライトを当てられたシカのように、恐怖で固まってしまうのです」。ある夜、独身男性であるニールさんは外出した。ひとりで留守番をしていたジョナさんは、天井からドンという音を聞いた。大慌てで玄関から飛び出すと階段を降り、マンションの警備員室を過ぎ、さらにはヴァレーパーキングのブースの先を行き、車が行き交う大通りを横切ってコリンズ・アベニューの反対側まで逃げた。「パパ!」と電話越しにジョナさんは言った。「帰ってきて! 早く帰ってきてよ!」。天井から聞こえた音は、上の階の住民が家具の模様替えをしていただけだったとニールさんは話す。


ジョナさんの「脳内地図」

それ以来、ハンドラー親子はいつも一緒だ——降水確率がほぼゼロの日も。ステイシーさんの葬儀が終わると、ニールさんにとって試行錯誤の毎日がはじまった。自分なりの方法で息子の悲しみを和らげ、アメリカ史上最悪の事故を乗り越えようとしたのだ。追悼式への招待や警察からの提案は断った。遺族のグループチャット内でさえ、ニールさんの支援活動は、あまり取り沙汰されなかった。損害賠償絡みの内輪もめにも関わりたくないと思っていた。2月末には、損害賠償の集団訴訟をめぐって136戸のマンションオーナーと97人の犠牲者遺族の間で亀裂が生じていたのだ。「悲劇のあとも日常生活が続いていくのを見て、悲しい気持ちになりました」とニールさんは話す。

それでも、ニールさんは生きつづけることの大切さを信じている。だからこそ、いまもコリンズ・アベニューの賃貸マンションで暮らしているのだ。ステイシーさんとの思い出と近い場所にジョナさんを留めておくために。「息子が恐怖を乗り越えることができなければ、それは一生ついて回ります。事故の1〜2週間後に私が一軒家に引っ越したとしたら、あの子は二度とビルに足を踏み入れられなくなるでしょう」。だが、事故現場が世間に初めて公開された日も、ジョナさんはチェーンが張り巡らされた2ブロック先の現場を訪れようとはしなかった。


コリンズ・アベニューの北側から見た、シャンプレイン・タワーズ・サウスの残存部分。ハンドラー親子は、ここから約130メートルほど離れた場所で暮らす。(Chandan Khanna/AFP/Getty Imagess)

ハンドラー親子は、車でワインウッド地区にあるコワーキングスペースを訪れた。そこでジョナさんの”人生のコーチ”となる人が、ジョナさんの脳内地図を見せてくれた。ハンドラー親子の許可を得て、本誌はマイアミを拠点とするPATHWAVESという会社が提供しているニューロフィードバック療法(訳注:コンピュータとセンサーを使って脳活動を可視化し、リアルタイムでモニターしながらその活動を訓練によって制御する治療法)の8回のセッションに同席した。週に一度、技士がジョナさんのふさふさの栗色の髪に覆われた頭部の23カ所に電極パッドを貼りつける。ジョナさんがリクライニングチェアに座ってアコースティックギターのメロディを聴いている間、技師はトラウマの大きさを数値化するのだ。”あの出来事”の数週間後、ニールさんは、ジョナさんに全身麻酔薬を投与して苦痛を和らげることや、何らかのスピリチュアルパワーを備えたPTSDインフルエンサーを雇うことも考えた。7分続いた悪魔のバッティングセンターでの体験をジョナさんが二度と思い出すことなく、恐怖を乗り越えられるようにするには、何でもする覚悟だった。病院が手配したカウンセラーは、半年間にわたってジョナさんに運動の大切さを教えようとした。カウンセラーは、ジョナさんがリトルリーグ時代に初めて味わった速球の恐怖を克服した時のように、自分の足で地面を感じることが大切だと説いた——いまを生きるために。だが、効果はあまり感じられないとジョナさんはニールさんに明かした。

PATHWAVESの創業者・CEOのジェフ・コール氏は、「建物の10階から落ちる確率は、宝くじに10回当たる確率よりも低い」と言ってジョナさんを説得した。ジョナさんの脳を鍛えて、明日また同じ悪夢が繰り返されるかもしれない、という思考をストップさせることができるとコール氏は言った。それでも、漠然とした恐怖は消えなかった。「また怖い思いをするのは嫌です」とジョナさんはコール氏に話した。

「ジョナさんの脳内地図は、まるで戦地から帰還した退役軍人のようでした」と、コール氏は初めて診察した時のことを振り返った。それに加えて、無意識の状態のジョナさんの脳内ボルテージは、いじめを受けたティーンエイジャーと比べて2〜3倍も高かった。”インタフィアランス・スケール”上に示された当初の測定値は41%。原因は、潜在的な恐怖。セッション中、コール氏はストレスをジョナさんの認知能力を消費する「どこにでもあるような、格安のコピー機」にたとえた。「スマホをパシファイアー(訳注:心を落ち着かせるもの)だと思って使ってごらん」とコール氏はアドバイスした。ジョナさんは、イヤホンを装着して、大好きな写真共有アプリを立ち上げたが、あまり効果を感じなかった。それから1週間後、ジョナさんの値は27%まで下がった。その効果に圧倒されたニールさんは、ファースト・レスポンダーに連絡を取り、この治療法を試してみないかと言った——それも無償で。ステイシーさんのきょうだいが5000ドル(約68万円)の寄付を申し出てくれた。ひょっとしたら、これは慈善活動になるかもしれないとニールさんは思った。

自宅では、ジョナさんが天気予報アプリとにらめっこをしていた。今夜は嵐の予報はない。ジョナさんは「パパ、外食しに行っていいよ」と声をかけると、部屋に閉じこもってゲーム用のデスクに座った。プレイステーション5には、ストリートウェアブランドのロゴのステッカーが貼られ、壁にはファースト・レスポンダーのワッペンがピンで留めてある。だが、ノイズキャンセリングヘッドホンによる沈黙はすぐに破られた。「ウー、カンカンカン」という消防車のサイレンではない。大きな音がだんだん近づいてくる。それが丸1分続いた。警報音が止むと、ジョナさんはゲームを再開した。すると、また警報音がした。1分、2分、3分、4分、5分……。ジョナさんはぐっと我慢した。ようやく音が止んだ。ジョナさんは父親に電話をかけ、落ち着いた様子でエレベーターに乗り、「マンションのどこかで火事があったのですか?」と夜間勤務の警備員に尋ねた。「どこかの煙感知器の誤作動かもしれません」と警備員が言った。「それからは、あまり気にならなくなりました」とジョナさんは話す。


車のセールスマンから慈善活動家への転身

ジョナさんが”あの出来事”振りに野球場を訪れたのは、2021年10月のことだった。マイアミ・マーリンズの始球式に招待されたのだ。ニールさんは、場内アナウンサーが息子を「ミラクル・ボーイ」と紹介することを却下した。3月中旬の土曜日の朝、野球場に向かう車のなかでジョナさんは父親に「ドナルド・トランプが僕のことを話してた」と言った。トランプ前大統領は、ポッドキャスト番組でフロリダのマンション崩落事故の負傷者2人にメディアが注目しすぎていることに言及したのだ。「建物の構造上の問題なのか、サビによるものかどうかはわからないが」、世界にはもっと苦しんでいる人が大勢いる——ウクライナで行われている「もっと大きな建物」の倒壊と比べたらこんなものは何でもないと、トランプ氏は述べた。その日も、約60キロ先でトランプ氏の集会が行われていた。それでもニールさんは、「ローンデポ・パークのイベントに参加しないか?」とジョナさんを誘った。野球の試合ではなく、マイアミ・デイド郡消防署のレスキュー隊の毎年恒例のメダル授与式が行われるのだ。これはイベントというよりも、彼らにとっては家族行事のようなものだ。

本塁の後ろのシートに腰を下ろすと、ジョナさんは両脚を揺すりはじめた。「崩落」という言葉を聞くと左手をぴくりと動かし、手首に巻かれたリストバンドをいじった。爪だけでなく、拳も噛む。ニールさんがウェーブをはじめようとすると、大スクリーンに事故の犠牲者の名前が次々と浮かんだ。心を落ち着かせるため、ジョナさんはスマホを取り出して写真共有アプリを立ち上げ、オンラインゲームイベントの開催日を確認した。そしてポケットにスマホをしまい、父親のほうを見てはその手を握り、「パパ、大好きだよ」と言った。

すると、どこからともなく元クラスメートの女の子が近寄ってきた。「元気?」とジョナさんに声をかけると、返事を待たずに続けた。

「なんとか回復してる」と、17歳のデヴェン・ゴンザレスさんは言った。「あなたの家の下の階に住んでたの。パパは助からなかった」

「本当に残念だったね」とニールさんが言う。

事故の直前、デヴェンさんは両親と一緒にベッドのなかでホラー映画を観ていた。ドンという音がすると、母親のアンジェラさんは、娘のデヴェンさんと夫のエドガーさんに向かって「逃げて!」と叫んだ。アンジェラさんは9階から8階まで落ち、そこからさらに5階まで落下した。ジョナさんを除き、5階より上の上層階で助かったのはデヴェンさんとアンジェラさん、そして飼い猫のビンクスだけだった。メダル授与式の参加者で両親のどちらかを失った子どもは、デヴェンさんと姉だけだった(事故当時、姉は友人たちと外出していた)。通路に立ったまま、デヴェンさんはバレーボール選手としての輝かしいキャリアが中断されたままだと語った。10カ月前の崩落事故で、デヴェンさんは飛んできた深鍋で大腿骨を骨折した。ジャンプするにはまだ早すぎると、医師に止められているそうだ。

「お母様のこと、お悔やみ申し上げます」と、デヴェンさんは言った。

ふたりの会話は、ある女性によって中断された。ジョナさんに握手を求めながら、その女性は「私の心は、あなたとともにあります」と言った。それから30分後、場内に設置された壇上で一緒にレスキュー隊員たちにメダルを授与する際、ジョナさんは彼女が市長であることを知った。

ニールさんは、野球場の控え席に座りながら、次はどんなステップを取るべきかと思案した。レスキュー隊員のひとりが、同僚が復職できていないとニールさんに明かした。毎朝3時に着信があり、電話越しに大の大人が酔っ払って泣きじゃくる音がするというのだ。レスキュー隊員は、自らのメンタルヘルスとの格闘について本誌に語った。「誰かの娘さんに『マンションが崩れた日は、パパの命日なんです』と言われると、とても胸が痛みます」。ニールさんは、打者が待機するネクストバッターズ・サークルに車椅子に乗ったデヴェンさんの母親の姿を認めた。マンション崩落の5日後の誕生日に昏睡状態から目を覚ました彼女は、その直後に夫の死を知った。その悲しみは計り知れない。ニールさんは、PTSDに苦しむ人々を支援するチャリティ団体、フェニックス・ライフ・プロジェクトの資金集めイベントに彼女を招待した。

「自分が何をしようとしているか、さっぱりわかりません」とニールさんは話す。だが、ニールさんは、リクライニングチェアや鍼治療用の施術台のあるコンテナハウスを思い描いている。それぞれのコンテナハウスには、トラウマ専門のセラピストを配備する。コンテナハウスは巨大ハリケーンや山火事、地震、竜巻の現場に真っ先に設置され、ファースト・レスポンダーたちをサポートするのだ。ニールさんは、30年前にカリブ海のアンギラにセレブ向けのリハビリ施設をオープンしようとしたが、挫折した時のことを思い出す。車のセールスマンは、一夜のうちに慈善活動家へと姿を変えた。ステイシーさんのため、ジョナさんのために。

SUV車に戻ったニールさんは、「ステイシーが生きていたことを称えるためです」と語った。「いつまでも喪に服したり、『どうしたら、こんなことにならなかったのだろう? どうしてあの夜、ジョナをうちに泊めろと言わなかったのだろう?』といった後悔に苛まれつづけたりするのではなく。別の可能性について考えることはできますが、現実には、最悪のことが起きてしまった……。でも、それが人生なんです」


弁護士たちの駆け引き

シャンプレイン・タワーズ・サウスのエントランスホールで夜間勤務についていたシャモカ・ファーマンさんは、午前1時15分に大きな音を聞いた。「エレベーターの音かと思いました」と、のちにファーマンさんは警察に語った。「警報器は鳴りませんでした」。実際、警報器は鳴ったのだが、3階に住んでいた子どもを除いて誰も聞いた覚えがないと言う。午前1時16分、ファーマンさんは緊急ダイアル「911」に電話をかけて「爆発が起きた」と言った。さらに1分後、ふたたび通報して「地震です」と訂正した。ファーマンさんは、すぐに動いた。数分間にわたって、入居者リストを見ながら順番に電話をかけたのだ。「だって、全員のドアをノックして回ることはできませんから」とマンションの外で警察に語った。「ですから、電話をかけて『逃げて! はやく逃げてください!』と叫びました。「すると、次の瞬間——」

午前1時22分。雷のような音が響いた。

「ファーマンさんは、どうしていいかわからなかったのです」と、ジュッド・ローゼン氏(46歳)は話す。責任訴訟のベテラン弁護士であるローゼン氏は、ここ数年にわたってハンドラー親子の代理人を務めている。「7分間、ジョナさんは何事かと思いながらベッドの上に座っていました」

人命や損害の値づけは、誰にとっても容易いことではない。それに、崩落事故の犠牲者の正義を求めることがかなり困難になることもわかっていた。2022年の春には、サーフサイドのマンション関係者のほとんど——弁護士、無一文の遺族、元マンションオーナー、警備会社など——が腹を立てていた。それは、3月末に行われた歴史的な損害賠償訴訟の公判で「この件に関しては、誰もが被害者です」と主張した判事の言う通りだった。11階の部屋でホームパーティを開いていたデボラ・ソリアーノさんは、子どもたちと逃げることができた。ソリアーノさんは、「腕時計や宝石、持ち物を返してほしいわけではありません。もとの生活を返してほしいんです」と訴えた。ソリアーノさんは、公判で次のようにも述べている。「私は、名実ともにホームレスです。今後、家を購入できるかどうかもわかりません。いつから犠牲者が犯罪者として扱われるようになってしまったのでしょう? 恐るべき悲劇は、いつ、どこで、こんなことになってしまったのですか?」。別の公判の際には、マンションオーナーたちの代理人を務める弁護士——ステイシーさんの旧友で、ジョナさんの子ども時代のバスケットボールのコーチ——からニールさんは「ジョナさんは元気ですか?」と声をかけられた。悪人たちが安らかに眠って逃げおおせることがあっていいのか? とニールさんは答えた。

かつては世紀の損害賠償訴訟に群がったサウスフロリダの弁護士たちは、ひとりひとりに割り当てられる金額が限られていることを犠牲者遺族に念押ししなければならかった。シャンプレイン・タワーズ・サウスのマンション管理組合から引き出せる金額は、高く見積もっても約1億5000万ドル(約205億円)が限界だと言われていた(土地の販売見込み価格やハリケーンなどによる財産保険に加えて、賠償責任保険による180万ドル[約2億5000万円]などの合計)。判事は和解交渉の場にマンションオーナーを立ち入らせないよう、賃借人や短期滞在者たちをまとめるコーディネーター役にジョナさんの弁護士のローゼン氏を任命した。

ローゼン氏は、大きな賭けに打って出た。マンションオーナーと彼らの相続人たちに現在の賠償金8300万ドル(約113億円)を保証すると同時に、賠償責任保険から自由になるための手助けをすると申し出たのだ。マンション管理組合の弁護士は当時——崩落の原因は依然として不明だったが——マンションオーナー側と和解できることを喜んだ。「賠償責任保険に関する和解により、この恐ろしい悲劇によって傷ついたご遺族が何らかの方法で慰められることを心より願います」とコメントした。ひとり約8万ドル(約1100万円)——その後の集団訴訟の規模がどれだけ変わろうとも、愛する人を失った犠牲者遺族に割り当てられる金額は確保されたのだ。だが、これ以上の金額は望めなかった。

「残り物ですよ」とローゼン氏は話す。3月の時点では、賠償金を釣り上げられる可能性をもつ被告人は、現場一帯の開発会社を除いていなくなった。実際、この開発会社との間には和解が成立したものの、同社は現在も不正行為への関与や事故の責任を否定しつづけている。「何も返ってこないのでは?と誰もが心配していました。でも私は、ここで諦めるわけにはいきませんでした」

ローゼン氏の法律事務所のさらなる調査により、2回目の警報器の存在が明らかになった。2回目の警報器の音を聞いた住民はひとりもいない。ジョナさんも7分の恐怖体験の間、そんな音はまったく聞いていない。それもそのはずだ。この警報器は、そもそも作動しなかったのだから。警報器は、警備員室の隣に設置されていた。「警備員は、ここで必死に911に通報していました」と、ローゼン氏は手にしていたベーグルでひとつの方向を示し、もう片方の手で持っていたナイフで別の方向を示した。「振り向いて、この一斉作動スイッチを押すだけでよかったのです」。全館鳴動の警報は、スピーカーを自動的に起動させる仕組みになっている。これを使えば、マンションの全136戸——および各部屋に——一斉に音声警報を流すことができたのだ」


「スイッチの存在を知っていれば……」

3月22日、ローゼン氏は夜間勤務についていた警備員の雇用主の証言を録取した。その会社とは、スウェーデンを拠点とする世界で2番目に大きい警備会社、セキュリタスだ。セキュリタスは、不正行為への関与や崩落の責任を否定し、ファーマンさん(当時は、5カ月間の雇用契約だった)のように現場で働く警備員は、主にマンションの来訪者の監視に専念していると主張した。さらにセキュリタスは、シャンプレイン・タワーズ・サウスの警報器の設置やメンテナンスを行なっているのは同社ではないと言い添えた。そこで、別の原告側弁護士が警報器を設置した会社の証言を録取すると、この会社は宣誓したうえで自社の警報器が発動したのであれば、履歴にリストアップされているはずだと原告側弁護士に証言した。この仲裁プロセスの関係者の話によると、最初の警報器が鳴ったあと——例の子ども以外は誰も聞いていない——マンションが崩落するまで、全館鳴動のスイッチが押された記録は残っていない。本誌の取材に対し、セキュリタスの広報担当からは「弊社がこのマンション事業に携わっていたことは事実ですが、建物の崩落と尊い人命が失われたことの責任が弊社にあることにはなりません。本件に関する法的および損害賠償請求の状況により、弊社が参加せざるを得ない状況になっているのです」という声明が送られてきた。

サウス・ビーチをのぞむローゼン氏のオフィスでは、セキュリタスの保険適用範囲を検討しつつ、春にかけて問題をさらに掘り下げる準備が行われていた。この問題は、過去10年間の不正が原因の死亡事故裁判にも飛び火しかねないとローゼン氏は話す。証拠動画(証拠として認められている)として、口の堅いファーマンさんからも決定的な情報を引き出すことができた。

「申し訳ありません。十分な訓練を受けていなかったのです」と、5月5日に本誌同席のもとで行われた録音インタビューでファーマンさんはローゼン氏に語った。その後、ファーマンさんは涙を流しはじめた。「スイッチの存在を知っていれば、最初のドンという音がした瞬間に押していました。2回目以降の音を待つこともありませんでした……。最初の音のあとに押していれば、住民のみなさんに避難を呼びかけることができたのに。そうすれば、『警報器の音がする! 緊急事態だ!』と誰もがわかってくれたでしょう。すぐにマンションから出て、避難することができたのに」

「もとの生活を返せ」と何カ月も訴えつづけた末、事故の生存者と家具を失ったマンションオーナーたちの問題は、3月にまとまった例の賠償金8300万ドルによってひと段落した。だが、故人が家族に代わって真実を語ることはできない。ニールさんが言うように、「もし〜だったら」と考えることは簡単だ。だが、住民たちがファーマンさんの警告を聞いてすぐに部屋から飛び出し、マンションの外に出てコリンズ・アベニューを横断していたら、98人は死なずに済んだのでは?と立証するのは簡単ではない。デヴェンさんとアンジェラさんが命拾いし、エドガーさんが死亡したことは、問題解決の決定打にはならないのだ。ローゼン氏の法律事務所は、セキュリタスが弁護士や保険担当者をかき集めていることを知った。「私たちは、彼らの尻尾をつかんだのです」とローゼン氏は言う。なぜなら、ローゼン氏にはジョナさんという強力な証拠があったのだから。

母を失い、トラウマを背負った生存者になる直前、ジョナさんは寝室でプーさんのぬいぐるみを抱いてステイシーさんとベッドの上に座っていた。自分を安心させようとする母親の優しい声のあとに雷のような音を聞いたという発言によって、マンション崩落の問題点が浮き彫りになった。ジョナさんの存在——それだけで証拠としては十分だったのだ。「ジョナさんは、あの7分間で多くの人命が救えたことを立証してくれました」とローゼン氏は話す。「ジョナさんは、この事故の重要参考人だったのです」


1年間の交渉と悲しみの末に

2022年の1月、ニールさんは何度も息子の部屋に入っては、寝ている息子を叩き起こし、ベッドから引きずりおろした。それでも、ジョナさんは枕にしがみついていた。だが、5月の第1土曜日、睡眠にかかわるジョナさんの脳の部位の体積が50%減少していることが明らかになった。PATHWAVESのセッション開始以来、全体的な数値も1/3減少している。「よくなってるんだ」と言ってジョナさんはスマホを置いた。学年度が終わろうとしていた。工学の成績はAだが、自身の治療に関してはCだと言う。「だって、まだまだ辛いですから」とジョナさんは認める。「時と状況にもよります。前ほど音にびっくりすることはなくなりました。建物の騒音とかは、もう大丈夫です。でも、雷の音はダメです」

フロリダ州にふたたび雨季が巡ってきた。それとともに、午後の心地よい日差しももどった。下の階にダッシュせず、ゲーム用のデスクに座ったまま、ヘッドホンのボリュームを上げて雷の音をやり過ごせるようになったことに対し、ジョナさんは手応えを感じている。ある日、「近所で一緒にメシでも食わないか?」と父親に誘われると、ジョナさんはひとりで新車のマスタングを運転してレストランに向かった。窯焼きピザは最高だったが、夜遅くの雨のせいで、また体が固まってしまった。

「大丈夫か?」

大丈夫ではなかった。「高層マンションは嫌だ」と言って、ジョナさんは帰宅を拒んだ。そう言うと、家族ぐるみで付き合いのある友人宅まで車で行った。その家族は、通りの先の平家で暮らしている。

それ以来、ニールさんは2時間以上家を空けないようにした。日曜日の朝、息子の部屋のドアを小さくノックする。天気予報によると、その日の降水確率は30%。にわか雨の可能性あり。5月8日、母の日だ。

「大丈夫か?」

ジョナさんは大丈夫。いまは、もう少し寝たいだけだ。

「典型的な16歳のティーンエイジャーですよ」と言うと、ニールさんはビーチでのんびりするため、部屋をあとにした。”あの出来事”の前日の朝、前妻に電話をした時のことを思い出す。次の父の日、ジョナさんはジュピターで暮らすステイシーさんのきょうだいのところから何時くらいに帰ってくるのかを訊くために電話をかけたのだ。ジョナさんは、ミッチおじさんの家にもう一泊してプールで遊びたいと言ったが、ステイシーさんは学校を休ませたくなかった。ニールさんも、夏の間は、野球の練習の合間にアイスキャンディーを売るバイトをするようにとジョナさんに勧めていた。だが、本当は、普通のティーンエイジャーというものをようやく理解できたことを伝えるためにステイシーさんに電話をしたのだ。15歳だった頃、ニールさんもクラブに通ったり、無断で両親の車を運転したりした(しかも無免許で)。ジョナさんがニールさんを困らせた時は、プレステをしすぎた時やYouTubeでホームラン動画を見て徹夜した時くらいだ。「つまり、俺が言いたいのは——」と、電話の向こうのステイシーさんに言ったことを覚えている。「干渉しないってことなんだよな。あいつをひとりにしてやらないといけない。若者らしくいられるように」

ジョナさんとニールさんは、しばしば母親の存在を感じる。母親は、ある時はペリカンになって釣り船からなかなか動こうとしなかった。別の時は、ハトになって自宅のバルコニーに居座った。「ナゲキバト」——ジョナさんは、鳥の名前をインターネットで検索して初めて知った。その前の夜、ある友人から、「昨日、ステイシーにばったり会う夢を見たの。夢のなかで、あなたのことを探してたよ」と言われたばかりだった。ステイシーさんを失ってから初めて迎える母の日。ここサーフサイドで、ニールさんはチェーンを張り巡らされた88thストリートのほうを見つめる。砂浜を歩く女性のなかに、ステイシーさんの姿を探す。長い脚、日に焼けたブロンドの髪、ステイシーさんのお気に入りのベースボールキャップ。ニールさんは、エレベーターに乗って帰宅する。ゲームに夢中の息子の邪魔はしない。「少しぼんやりしていて、悲しそうに見えました」と話す。「でも、泣いてはいませんでした」。そして、息子を元気づけようとしてジョークを飛ばした。「おい、パパに母の日のメッセージカードはないのか?」

それから2日後の夜、ローゼン氏から着信があった。

「どうも」とニールさんが電話に出る。「何かニュースでもあるんですか?」

「ありますとも。最初の文字はBです」とローゼン氏が言った。

「B?」

「そう、Bです」

1年間の交渉と悲しみの末に、サーフサイドのマンションの98人の犠牲者遺族に賠償金として総額10億2000万ドル(1.02 billion,約1400億円)が支払われることが決まったのだ。6月23日、マイアミ・デイド郡の州地裁の判事がこの和解案を承認した。セキュリタスは、5億1750万ドル(約707億円)の支払いに合意した。遺族に支払われる補償としては前代未聞の金額であると同時に、ローゼン氏の法律事務所によると、和解金としてもアメリカ史上類を見ない金額だ。「警備会社相手の訴訟において、ジョナさんはパズルを完成させるためのもっとも重要なピースのひとつでした」とローゼン氏は話す。「昨年のジョナさんの映像は、生存者がいるというわずかな希望を私たちに与えてくれました。そしていま、今回の訴訟は責任と正義という結果をもたらしました。これは、さらに多くの人に希望を与えてくれるでしょう。希望というものは、いくらあっても多すぎることはないのですから」

ジョナさんは、今年起きたすべてのことには理由があるといまも信じている。答えは、これからの人生をかけて見つけていけばいい。その一方、事故の夜のことは思い出したくないとも言う。「もう嫌なんです」とジョナさんは言う。「本当の意味で、僕の人生を決定づけたわけではありませんから」。それと同時に、コリンズ・アベニューのマンションからは引っ越したいとも思っている。すべてがひと段落すれば、ハンドラー親子はできるだけ早くサーフサイド・ビーチのマンションを引き払う予定だ。息子に日焼け止めクリームを塗って「過保護過ぎる」とステイシーさんがまた叱ってくれるなら、ニールさんは何だってするだろう。だが、とりあえずは、賠償金を安全なトラストに預けておくつもりだ。それに、息子を説得して夏の間はバイトをさせることにした。考えられないことかもしれないが、ハンドラー親子は、がれきの下から救出された奇跡の生存者としての息子の知名度を楽しんでいる。少なくとも、マイアミ・デザイン・ディストリクトのフードトラックで、オレオ入りのおしゃれなアイスキャンディーを売っているいまだけは。

from Rolling Stone US

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