1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. カルチャー

刺殺され、首をもがれ…家康の息子・信康と正室・瀬名の壮絶すぎる最期「鬼の服部半蔵に涙ながらに語った魂の弁明」

集英社オンライン / 2023年6月25日 19時1分

徳川家康に関する研究は急速に進み、通説が見直されるようになっており、その人物像が大きく揺れ動いている現在。その一例に家康の嫡男・松平信康が自害に追い込まれた事件がある。その実相に迫りつつ、家康がそれをいかに乗り越えたかを『徳川家康と9つの危機』(PHP新書)より一部抜粋・再構成してお届けする。

#1

「謀反」を認めた家康の家臣たち…家康は忠次に「お前のせいだろ」

徳姫(五徳)が父・信長に送った書状には夫(松平信康)や姑(築山殿/瀬名)の悪口だけでなく、到底一笑にふすことのできない「謀反」という驚くべき一条が含まれていた。

もし築山殿が本当に甲斐の武田勝頼と内通しているのであれば、信長は決して見過ごすことはできない。それゆえ、酒井忠次に事実を確認したわけだが、『三河物語』によれば、忠次はすべてを肯定したのである。だからこそ信長は、「腹を切らせろ」と忠次に宣告したのだ。



なお、忠次から事の次第を聞いた家康は、「致し方ない。信長を恨むまい」と言いながらも、忠次に対し「お前が十カ条について知らないと言ったら、信長もこんなことは命じなかったのに、すべてその通りと答えたからこうなってしまった。お前のために腹を切らせなくてはならぬのだ」と責めたという。

すると、信康の傅役である平岩親吉が罷り出て「信康殿に腹を切らせては、あとで必ず後悔します。これは、傅役である私の責任。ぜひとも私の首を切って信長殿に渡し、信康殿の命乞いをしてください」と申し出た。

しかし家康は、「大器である信康に跡を継がせようと思っていたが、大敵の武田を抱えている今、信長の後ろ盾が必要。決して逆らえない。お前の首で信康の命が救えるなら、それも良いだろう。しかし、忠次があのように言ってしまったからには、それは難しい。信康を喪ったうえ、お前まで失えば、さらなる恥辱である。非常に不憫であるが、信康を岡崎から追い出せ」と命じたという。

このように『三河物語』では、完全に酒井忠次の言動が信康の死につながったとして、彼を悪者にしている。

酒井忠次の失態か、後者は築山殿の嫉妬か

一方、『松平記』にはどう書かれてるか。

手紙を読んで驚いた信長が、後日、家老の酒井忠次と大久保忠世を呼び出し、問いただしたことになっている。二人は「信康に何度も諫言したのに聞いてもらえず、以後、信康は自分たちと険悪になってしまった」と申し述べた。

すると信長は腹を立て「こんな悪人に徳川家を相続させると大事になる」と告げた。このとき二人が信康を弁護したら状況は違ったかもしれないが、忠次と忠世は「御意の通り、悪逆人にて御座候。御前(徳姫)の御恨尤もなり」と認めてしまったという。さらに家康も信長の意向を知って腹を立て、信康を自害させる決意をし、信長にその伺いを立てた。一応、信長にとって娘婿であるからだろう。信長は「いかようにも存分にせよ」と返答したので、処罰したという。

『三河物語』と『松平記』の信康殺害に至る経緯はかなりニュンアンスに違いがあるものの、信康や築山殿の日頃の行動、家臣の言動が自滅につながったように書かれている。とくに前者は酒井忠次の失態、後者は築山殿の嫉妬が事件の原因として重きをなしている。

息子に切腹を申し渡した徳川家康

ともあれ、天正七年(一五七九)八月三日、家康は浜松城から岡崎城へ入り、四日に信康の身柄を大浜へ移し、さらに信康は堀江城を経て大久保忠世が守る二俣城に幽閉された。

八月八日に家康は、信長の家臣・堀秀政に宛て、「信康は不覚悟につき、八月四日に岡崎から追い出した」と書き送り、信長に信康の追放処分を伝えている。

そして九月十五日、天方通綱と服部半蔵正成を遣わし、二俣城にいる我が子に切腹を申し渡し、信康は自害して果てた。

ただ、その最期の様子については、一次史料だけでなく、これまで用いてきた『三河物語』や『松平記』など、比較的良質な編纂資料にも記されていない。そこで脚色が多いかもしれないが、『改正三河後風土記』から信康の様子を紹介しておこう。

信康が涙ながら語った弁明の中身

通綱と半蔵が二俣城を訪れると、信康は両人に向かい「いまさら何も申すべきことはないが、私は武田勝頼に内通して謀反など企んでいない。この事だけは、父上によくよく伝えてほしい」と涙にむせんだ。

そこで通綱と半蔵は「それがしの一身にかえても申し上げます」と約束すると、信康は嬉しそうに笑い、「今はこの世に思い残すことはない」と述べ、潔く腹を割き、「半蔵、介錯を頼む」と告げたという。

ちなみに服部半蔵というと忍者を思い浮かべるが、彼はれっきとした徳川譜代の家臣で、三河の生まれ。家康と同い年だ。確かに半蔵の父・保長は伊賀の忍だったが、本国を離れ足利将軍家に出仕した後、家康の祖父・松平清康の家来となり、広忠、家康の三代に仕えた。

半蔵は、忍術ではなく槍の達人であり、掛川城攻め、姉川の戦い、三方原の戦いなどで軍功をあげ、家康から槍を賜る栄誉を与えられ、「鬼の半蔵」と讃えられていた。

半蔵が眠る、半蔵が信康のために創建した寺

しかし、鬼と呼ばれた半蔵も、土壇場で信康の首に刃を当てることができず、ただただ涙を流すばかりだった。そこで仕方なく、通綱が半蔵に代わって介錯をおこなった。ちなみに信康の首は信長のもとに送られたという。

これを後に知った家康は、「あの鬼と呼ばれている半蔵も、信康の首は打てなかったか」と語ったという。が、これを耳にした通綱は大いに恥じ、徳川家から逐電して高野山に籠もり、後に家康の次男・結城秀康に仕えたといわれる。

一方、半蔵は慶長元年(一五九七)に五十五歳の生涯を閉じ、麴町の安養院(のち西念寺と改称)に葬られたが、この寺は半蔵が信康のために創建した寺だった。

瀬名を殺した岡本や石川は、彼女の怨霊が祟り、子孫は絶えてしまったそう

さて、築山殿である。彼女は信康が自刃する前月の八月二十九日に家康の命令によって殺害されていた。浜松近くの遠江国富塚において野中重政、岡本平右衛門、石川太郎右衛門らによって刺殺され、首をもがれたという。三十八歳だった。遺体は浜松の西来院に葬られた。

築山殿の最期を聞かされた家康は、「女のことではないか。尼などにしてどこかへ落とすなど、もっと違うやり方があったろう。なのに首を落とすとは」と眉をひそめたという。野中は大いに恐れ、故郷の遠州堀口村に蟄居してしまったそうだ。

なお、『松平記』には、築山殿を殺した岡本や石川は、彼女の怨霊が祟り、その子孫は絶えてしまったと記している。

しかし近年は、信長の命令ではなく、家康が外交方針の違いや御家騒動を鎮めるため、自ら信康母子を処罰したという説が有力になりつつある。

『徳川家康と9つの危機 』(PHP新書)

河合敦

2022年9月16日

1188円(税込)

‎256ページ

ISBN:

978-4569853048

いま、「徳川家康」像が大きく揺れ動いている!

徳川家康といえば、武田信玄に三方原の戦いで完敗した際、自画像を描かせ、慢心したときの戒めにしたとされる。「顰(しかみ)像」として知られる絵だが、近年、それは後世の作り話との説が出されている。それだけでなく、家康に関する研究は急速に進み、通説が見直されるようになっているのだ。
一例を挙げれば、家康の嫡男・松平信康が自害に追い込まれた事件は、織田信長の命令によるものとされてきた。しかし近年では、その事件の背景に、徳川家内部における家臣団の対立があったことが指摘されているのだ。
本書はそうした最新の研究動向を交えつつ、桶狭間の戦い、長篠の戦い、伊賀越え、関東移封、関ヶ原合戦など、家康の人生における9つの危機を取り上げ、それらの実相に迫りつつ、家康がそれをいかに乗り越えたかを解説する。そこから浮かび上がる、意外かつ新たな家康像とは――。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください