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あの織田信長が感激した徳川家康の完璧すぎる接待の詳細…そして接待を大失敗した明智光秀が決意した本能寺の変

集英社オンライン / 2023年7月9日 18時1分

家康に関する研究が急速に進み、これまで常識だと思われていたことが、いくつも見直されるようになっている。最新の研究動向を盛り込みつつ、新しい家康像をわかりやすく解説した『徳川家康と9つの危機』(PHP新書・河合敦 著)より、家康が迎えた人生最大の危機“本能寺の変”での出来事を一部抜粋・再構成してお届けする。

家康は、三河・遠江・駿河の三国を領する大大名になった

武田滅亡後の三月二十九日、戦後の論功行賞(知行割)が発表された。

滝川一益には上野一国が給付され、武田の本領たる甲斐一国(穴山梅雪の領地は除外)は、信忠の属将である河尻秀隆に与えられた。同じく信忠付の森長可が信濃国四郡、毛利長秀が信濃国一郡を賜り、信忠に降伏してきた木曽義昌も木曽に加えて信濃二郡を与えられた。こうして武田征伐で総大将をつとめた織田信忠の勢力が一気に膨張した。



さて、徳川家康である。

長年、同盟者として織田家を盛り立てた最大の功労者ゆえ、信長は駿河一国を与えて報いている。このとき駿河東南部は小田原北条氏の支配下にあったが、そこも含めて一国まるごと付与したのである。こうして家康は、三河・遠江・駿河の三国を領する大大名になった。かつての今川義元と同じ立場に立ったわけだ。

ただ、状況は当時と全く異なっている。

信長はすでに日本の過半を支配下に置き、中国や北陸も羽柴秀吉や柴田勝家の活躍で制圧の目途が立ってきていた。四国攻めの準備も進んでおり、おそらくあと二年、いや一年あれば、天下が統一できそうな状況になっていた。

これ以上領地の拡大が見込めなくなった家康

そうしたなか、いつしか家康は信長の対等な同盟者から織田の一門大名のような地位に落ちていた。実際、このように信長から領地を給付されていることでも、それは明確だろう。しかも武田征伐以後、家康は信長のことを「上様」と呼ぶようになった。

それに領地が三国に増えたといっても、徳川の分国は織田と北条の間に挟まれており、これ以上、領土が拡大する見込みは消えたのだった。

さて、武田を滅ぼした信長だが、しばらく甲斐国に滞在し、雪の富士を眺めたり、勝頼の新府城の焼け跡を見たり、府中(甲府)を見物したりした。そして信玄の躑躅ヶ崎館跡に信忠が建てた豪華な仮御殿でしばし過ごした後、「『富士一見』と被仰て、女坂・柏坂を越ゑさせ給ひて、駿河へ御出有て、根堅を通らせ給ひ、遠江・三河へ出させられて御帰国なり」(『三河物語』)とあるように、四月十日に甲府を発ち、家康の分国を通って帰国することにした。

信長を感激させた家康の完璧な接待

凱旋ルートは、「富士山が見たい」と思い立った信長が急に決めたのか、それとも、武田征伐が始まる前から予定されていたのかは不明だが、いずれにせよ家康は、短期間で接待の準備を整えなくてはならなくなった。

しかし、各地における家康の応対は、信長を大いに満足させるものだった。それは『信長公記』を読むとよくわかる。

「家康卿、万万の御心賦、一方ならぬ御苦労、尽期なき次第なり。併ながら、何れの道にても、諸人の感じ奉る事、御名誉申すに足らず。信長公の御感悦、申すに及ばず」

とあるからだ。

家康は、信長が通る要所要所に立派な宿泊施設や休息所、茶屋、厩などを設けた。通過する道路も綺麗に整地し、川には橋や舟橋(舟をつないで橋にする)をかけた。さらに京都や堺に人を遣わし、諸国の珍味を用意し、各地で信長を饗応したのだった。

信長のため、天竜川に橋まで架け、御殿まで建てた家康

たとえば、流れの速い広大な暴れ川である天竜川。この川には到底、橋が架けられそうにないのに、信長が到着すると、見事な舟橋がかかっていた。

『信長公記』は「上古よりの初めなり」、つまり史上初めてのことだと記し、「国中の人数を以て、大綱数百筋引きはへて、舟数を寄させられ、御馬を渡せらるべきためなれば、生便敷丈夫に、殊に結構に懸けられたり。川の面、前後に堅く番を居えおき、奉行人粉骨申すばかりなし」と、舟橋のできばえを褒め称えている。

また、吉田川を越えた御油(五位)の地に設置された御茶屋は、入り口のところに結構な橋をかけたうえ、新調した風呂が用意され、珍味と一献を進上したとある。道中の細い山道は、金棒を遣って岩を砕いて道幅を広げ、岩を取り除いて路面を平坦にした。

とくに信長を感嘆させたのが、富士山を眺めたあと、登山口の大宮(富士山本宮浅間神社)に出向いたときのことだ。一帯は二カ月前まで武田氏の支配地であったので、武田征伐のとき北条氏が進軍し、社殿をはじめ付近一帯をことごとく焼き払っていた。

家康は、武田の残党が襲い来る危険があると考えたのか、大宮が要害の地なので、境内に信長を迎える御座所をつくった。たった一晩泊まるだけなのだが、家康は「金銀を鏤め、それの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋懸けおき、御馳走、斜ならず」(『信長公記』)とあるように、素晴らしい御殿を建て、その周りを柵や兵で固め、信長の安全をはかったのである。

この配慮に感激した信長は、同行している家康に対し、脇差しや長刀、馬などを贈呈し、謝意を表している。

領地加増の謝礼のため安土城へ

四月二十一日、信長一行は無事に安土城に帰着した。

翌五月、今後は家康が領地加増のお礼のため、穴山梅雪を伴って安土城へ出向くことになった。信長は先日のもてなしに謝すべく、「安土への道中、家康に最大の馳走をせよ」と諸大名に命じた。

さらに信長は、家康のために自ら宿舎(大宝坊)を選び、明智光秀に接待役を命じた。

光秀は張り切って京都や堺で珍味を整え、三日間にわたっておびただしい料理を出した。記録には、鶴汁や鯨汁、さらに南蛮菓子の有平糖なども見える。江後迪子氏(『信長のおもてなし中世食べもの百科』吉川弘文館)によれば、一回の食事で二十五種類の料理が提供されたという。

ただ、光秀は十日間もかけて準備をしたのに、急に毛利氏と戦う羽柴秀吉の援軍を命じられ、安土を離れなくてはならなくなった。小瀬甫庵著『太閤記』は、これを恨んで光秀は本能寺の変を起こしたと記し、『川角太閤記』も光秀が家康に腐った魚を提供したので信長に折檻され、これを恨んで信長を倒そうと決意したという。

光秀に不手際があったなら、信長が激高しても不思議はなかろう

真偽は不明だが、先日の家康のもてなしに応えるべく、信長が大いに張り切っていたのは確かなので、もし光秀に不手際があったなら、信長が激高しても不思議はなかろう。

五月十九日、信長は家康を安土城に招き、舞や能を見物させた。五月二十日にはなんと自らが家康のところに膳を運んできたという。そして食後、家康とその家臣たちに帷子を与えた。

五月二十一日、家康は安土を離れて上洛した。信長が家康に、京都、大坂、奈良、堺などの上方見物を勧めたからである。案内として信長は長谷川秀一を付けた。

信長も五月二十九日、わずかな供回りをつれて京都の本能寺にやってきた。羽柴秀吉の毛利氏との戦を支援すべく、自ら中国地方へ出馬するためだった。

いっぽう家康は、京都から大坂へ移り、信長が京都に来た日はちょうど堺に入ったところだった。到着すると堺の代官で茶人でもある松井友閑のもてなしを受けた。翌六月一日の朝は信長の茶匠・今井宗久の茶会、昼は津田宗及の茶会、そして夜は再び松井友閑の茶会に参加した。まさに接待攻勢をうけていたのだ。

しかし翌六月二日、家康は人生最大の危機を迎える。

本能寺の変を知らせた茶屋四郎次郎

同日払暁、信長がいる本能寺に明智光秀の軍勢が殺到。信長のもとにはわずかな手勢しかおらず、一万三千の明智軍の襲撃を受けた本能寺は炎上、信長は自刃して果てた。

家康に本能寺の変の第一報を伝えたのは、京都の商人・茶屋四郎次郎清延だとされる。

茶屋家が京都に店を構えるようになったのは、四郎次郎清延の父・中島明延のとき。明延は、信濃の戦国大名・小笠原長時の家来だったが、戦で傷をこうむったため武士を廃業し、主君・長時の支援をうけて京都で呉服商をはじめた。室町幕府の十三代将軍足利義輝は、小笠原長時を弓馬の師としており、その関係から義輝は明延の店に立ち寄り、茶室で茶を飲んだ。そんなことから明延は「茶屋」を屋号としたという。

明延はまた、家康の祖父・松平清康とも取引きがあり、その関係から息子の清延と家康の交際がはじまったらしい。

「茶屋由緒書」によれば、元亀三年(一五七二)の三方原の戦いをはじめ、清延は生涯に五十三度も徳川方として合戦に参陣したとある。武器や物資の提供のためだけでなく、後述する小牧・長久手の戦いでは敵の騎馬武者を仕留めたと伝えられる。大名家の御用商人が武士として活躍するというのは、戦国の世にあってもかなり珍しい。

家康と行動を共にしていた清延だが、ちょうど堺から京都に戻ってきた。が、町はいつもとは異なり、大勢の殺気だった兵であふれかえっていた。京都新町百足屋町に大店を構えていた清延は、店の者から「明智光秀の軍勢が乱入してきて本能寺にいる織田信長を攻め滅ぼした」という事実を聞く。

予想だにできなかった驚愕の事態である。

清延は、家康を連れて堺の町を案内していたのだが、明日、家康が京都に戻り、清延の屋敷に泊まる予定になっていた。そこで宿泊の準備のため、家康一行から離れて一足先に都に戻り、このような状況に遭遇したのだ。

光秀のねらいは、主君信長・信忠父子の命。それを奪った今、光秀が京都で乱暴狼藉を働く可能性はない。だから自宅で息を潜めているのが、清延にとって一番安全な身の処し方であった。しかし清延は、このとき最も危険な行動をとった。店からありったけの銀子をかき集め、革袋に詰め込むや、馬に飛び乗って家康のいる堺へと引き返したという。

もちろんそれは、家康に本能寺の変を知らせ、彼を堺から領国へ逃がすためだった。

清延がこうした行動に出たのは、清延が単なる商人ではなく、歴戦の兵でもあったからだろう。いずれにせよ、河内の枚方まで清延が駆けていくと、偶然、本多忠勝の一行とかち合った。徳川の先発隊として家康に先行して、京都に向かっていたのだ。忠勝は、後に徳川四天王と呼ばれる徳川家の猛者である。

心強い味方を得た清延は、忠勝の護衛でさらに先を急いだ。

『徳川家康と9つの危機 』(PHP新書)

河合敦

2022年9月16日

1188円(税込)

‎256ページ

ISBN:

978-4569853048

いま、「徳川家康」像が大きく揺れ動いている!

徳川家康といえば、武田信玄に三方原の戦いで完敗した際、自画像を描かせ、慢心したときの戒めにしたとされる。「顰(しかみ)像」として知られる絵だが、近年、それは後世の作り話との説が出されている。それだけでなく、家康に関する研究は急速に進み、通説が見直されるようになっているのだ。
一例を挙げれば、家康の嫡男・松平信康が自害に追い込まれた事件は、織田信長の命令によるものとされてきた。しかし近年では、その事件の背景に、徳川家内部における家臣団の対立があったことが指摘されているのだ。
本書はそうした最新の研究動向を交えつつ、桶狭間の戦い、長篠の戦い、伊賀越え、関東移封、関ヶ原合戦など、家康の人生における9つの危機を取り上げ、それらの実相に迫りつつ、家康がそれをいかに乗り越えたかを解説する。そこから浮かび上がる、意外かつ新たな家康像とは――。

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