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徳川家康=狸親父を決定づけた「大坂の陣」での卑怯技…23歳の豊臣秀頼を自害に追い込んだ「攻めの手口」の真意とは

集英社オンライン / 2023年11月26日 18時1分

関ヶ原合戦に勝利した徳川家康がその後、天下掌握を確定させた戦が「大阪の陣」。だが近年の研究の進展では、大坂の陣のイメージが塗り替わりつつあるという。今回は通説を再確認しつつ、研究史を振り返り、大坂の陣研究の最前線を紹介する。『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書) より、一部抜粋、再構成してお届けする。

大坂の陣と家康神話

大坂の陣は、徳川家による天下掌握が確定した戦争である。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は三年後に征夷大将軍に任官した。

だが、その時点では豊臣秀頼が関白に任官するのではないかという観測も流れており(「鹿苑日録」・「萩藩閥閲録」)、秀頼の復権の可能性も残されていた。



慶長十年(一六〇五)、家康嫡男の秀忠が征夷大将軍に任官して、家康は形式的に隠居して大御所となり、駿府に移った。

かくして、徳川家が将軍職を世襲して恒久的に天下を治めることが確定した。

それでもなお、豊臣家は徳川家に対して臣従の姿勢を見せず、豊臣領国は一種の〝治外法権〞と化していた。江戸幕府による全国支配を完成させる上で、豊臣家の存在は大きな障害であり、この問題を解決する処方箋が大坂の陣であった、とされる。

大坂の陣に対する一般的な理解は、徳川家康が卑怯な陰謀によって豊臣家を滅亡に追い込んだ、というものであろう。方広寺の鐘銘を口実に豊臣家を挑発して戦争に持ち込み、大坂城の内堀の埋め立てなどの謀略によって豊臣家を滅ぼしたという認識が「狸親父」イメージを決定づけた。

一例として、徳富蘇峰の見解を紹介しよう。

蘇峰は大正十二年五月に『近世日本国民史家康時代中巻』を発表している。この本の序文で蘇峰は関ヶ原の戦いの時の家康と、大坂の陣の時の家康とを比較している。豊臣秀吉の死後、関ヶ原合戦に勝利するまでの過程で家康は権謀術数を駆使した。

しかし家康の一連の行動は「いかにも自然らしく」見える。「関原役における家康の所作は、人巧尽きて天巧至るの妙技に達している観がある」と説く。

これに対し大坂の陣では、家康の強引な手法が目に余るという。

「徹上徹下、不自然に始まり、不自然に中し、不自然に終わった。大仏鐘銘を、開戦の理由とする不自然だ。冬陣の講和に、郭を毀ち濠を埋むる不自然だ。夏陣終わりに秀頼・淀殿を殺すは勿論、秀頼の八歳になる幼児まで、百方探索の上、これを殺すに至りては、不自然中の不自然というも、誰がこれを不可とせむ」と蘇峰は非難する。

すなわち「関原役は、いかにも悠揚として英雄らしき行動であった。大阪役に至りては、いかにもこせこせとして、なんらのゆとりなく、余裕なく、小人の行動であった」と。

しかし、近年の研究の進展に伴って、大坂の陣のイメージが塗り替わりつつある。通説を再確認しつつ、研究史を振り返り、大坂の陣研究の最前線を紹介する。

合戦の発端

まずは、家康側近が記したとされる大御所家康の動静記録『駿府記』の記述などに基づき、大坂の陣の経緯を確認しておこう。

一般に発端は方広寺鐘銘事件と考えられている。

方広寺大仏殿は、豊臣秀吉が京都東山の三十三間堂の近くに建立した寺院である(なお方広寺という名称は後につけられたもので、当時は大仏・大仏殿と呼ばれていた)。

文禄五年(慶長元年、一五九六)の慶長伏見地震で木造大仏が被害を受け、再建の間もなく秀吉が死没したため、豊臣秀頼が唐銅による大仏再建に取りかかった。ところが慶長七年(一六〇二)十二月に失火のため大仏殿が焼け落ちてしまった。しかし秀頼はあきらめず、同十四年から大仏殿と大仏の再建を始めた。

慶長十九年(一六一四)春、再建工事がほぼ完成し、四月には梵鐘の鋳造も行われた。

大仏開眼供養は八月三日、大仏殿供養は同十八日に行われる予定であった。ところが七月下旬に入り鐘の銘文が問題視され、家康は供養の延期を命じた。

よく知られているように「国家安康」「君臣豊楽」の二句が、豊臣の繁栄を言祝ぐ一方で家康を呪詛するものであるとして、家康が激怒したのだ。

豊臣家家老の片桐且元は弁明のため駿府を訪れるが、家康には会えず、家康側近の金地院崇伝・本多正純に詰問される。大坂に戻った且元は三箇条(秀頼の在江戸・淀殿の在江戸・大坂城退去)のどれかを受け入れるべきと提案したため、豊臣秀頼・淀殿の怒りを買い、十月一日に大坂城を去った。

片桐且元は豊臣秀頼と徳川家康に両属するような立場であり、両家をつなぐパイプ役となっていた。その且元を秀頼が一方的に追放したことは、徳川家との断交を意味する。大坂方は、且元を追放した翌日の二日には戦闘準備を始めた。

いわゆる方広寺鐘銘事件は、豊臣家を討伐するための家康の謀略と考えられてきた。

徳富蘇峰は「大阪の戦意発表は、宣戦の原因でなく、結果だ。大阪は最後の通牒を突き付けられ、その上に重ね重ねの無理難題を浴せ掛けられ、坐して亡滅を待たんよりは、寧ろ万一を僥倖せんとして、戦闘準備をしたのだ」と論じている。

豊臣家の募兵と徳川家康の出陣

大坂方は、豊臣秀頼の名をもって、福島正則をはじめとする秀吉恩顧の大名に参戦を呼びかけた。

しかし大坂方の期待に反して、秀頼に味方する大名は一人もいなかった。それどころか、大坂加担の嫌疑をかけられることを恐れて、秀頼からの書状を家康に提出したりした。

徳富蘇峰は「彼らは徳川幕府によりて、その一身の栄達を得、子孫の計を全うせんとした」「人情ほど頼みにならぬものはない」と述べている。

けれども、大坂方は城内に備蓄されていた膨大な金銀をばらまき、諸国の牢人を呼び寄せた。

彼らは徳川に遺恨を持ち、また現在の窮状を打開し立身出世、一攫千金の夢を抱いて大坂に入城した。

牢人衆の代表としては、長宗我部盛親・後藤又兵衛(基次)・真田幸村(正しくは信繁だが軍記類では専ら「幸村」と記される)・毛利勝永(正しくは「吉政」だが軍記類では専ら「勝永」と記される)・明石全登らが挙げられる。

大坂方の兵力は十万(『長沢聞書』)とも七万三千五百(『明良洪範』)とも言う。

一方の関東方はどうか。

片桐且元が大坂城から退去するという報告は、事前に駿府の徳川家康のもとに届いていた。家康は十月一日には大坂討伐を決定し、近江・伊勢・美濃・尾張など沿道の諸大名に出陣を命じた。

家康は伊勢桑名城主の本多忠政(徳川四天王の本多忠勝の嫡男)、伊勢亀山城主の松平忠明(家康の外孫)らを先行して上洛させた。

そして十月十一日に駿府を出発し、同二十三日、五百余りの手勢を率いて京都に到着した。同日、将軍秀忠が五万余の大軍を率いて江戸城を発した。

大坂冬の陣

これより先の十月中旬、大坂城では軍議が行われた。真田幸村は後藤又兵衛と共に、宇治(現在の京都府宇治市)・勢多(現在の滋賀県大津市)まで進出して関東方の渡河を阻止する積極策を唱えた。

ところが豊臣家の首脳部は籠城策を主張し、鉄壁の巨城に拠って戦うことに決した。

ただし、大坂城には防禦上の弱点があった。城の西は大坂湾、北は天満川、東は深田が控えているが、城の南側は空堀を備えているのみで手薄だった。

そこで幸村は籠城戦に備えて、大坂城惣構(外堀)の南東隅の外側に出丸(砦)を築いた。奈良方面から北上してくるであろう関東方の大軍を、幸村はこの出城で迎え討とうと考えたのである。これが有名な「真田丸」である。

十一月十五日、徳川家康は京都二条城(現在の京都市中京区)を発し、大坂に向かった。十八日には天王寺の茶臼山に登り、秀忠の出迎えを受けた(『駿府記』)。その頃には東軍諸大名の布陣も整い、総勢二十万余の大軍が大坂城を包囲した。

翌十九日には木津川口・伝法川口で戦端が開かれ、関東方が勝利した。同日、家康は大坂城の堀に注ぐ淀川の本流を堰き止めることを指示し、土俵二十万個の準備を命じた。さらに二十一日、家康は大坂城の周囲に付け城を築くことを命じ、持久戦の備えを固めた。

十一月二十六日、関東方の佐竹義宣が今福砦を、上杉景勝が鴫野砦を攻撃し、それぞれ苦戦の末に奪取した。さらに東軍は二十九日には博労ヶ淵および野田・福島を攻略し、大坂城包囲網を少しずつ狭めていった(『大坂御陣覚書』『大坂陣山口休庵咄』など)。

十二月四日、関東方は大坂城攻略の第一弾として、真田丸を攻撃した。真田丸を攻略しようとした越前藩の松平忠直(家康の孫)、彦根藩の井伊直孝(徳川四天王の井伊直政の次男)、加賀藩の前田利常(外様大名)らの軍勢は真田隊の地の利を活かした巧みな射撃により大損害を受けた。この「真田丸の戦い」によって、真田幸村の名は一躍高まった。

和睦成立

徳川家康は大坂城の堅牢さを十分承知していたため、大きな犠牲を伴う力攻めには当初から否定的だった。

家康は主戦論の秀忠を抑えつつ、大坂方と講和交渉を進めていた。しかし、真田丸の戦いの勝利で勢いづいた大坂方が「淀殿が人質となって江戸に下るかわりに、籠城している牢人衆に知行を与えるため加増してほしい」と強気の要求をつきつけて家康が反発したため(『駿府記』)、交渉はいったん暗礁に乗り上げた。

ところが、数日後には、一転して和睦の気運が高まった。家康は「石火矢」と呼ばれる大砲をオランダ・イギリスから購入し、本丸や天守を砲撃した。大砲の弾が淀殿の御座所に直撃したため、徹底抗戦を説いていた淀殿は和睦に傾いた(『難波戦記』『天元実記』)。

十二月十八日・十九日の両日、関東方と大坂方の和平会談が行われた。

大坂城の二の丸・三の丸を破却すれば、淀殿が人質として江戸に下る必要はない、との結論に至った。淀殿が人質になる代わりに、豊臣家首脳部の織田有楽斎・大野治長がそれぞれ息子を人質として提出することになった。

加えて、大坂方の将兵については、豊臣譜代衆・新参牢人衆を問わず、お咎めなし、と決した(以上、家康側近の林羅山が記したとされる『大坂冬陣記』による)。二十日から二十二日にかけて、大坂方・関東方の間で使者が行き来し、豊臣秀頼と徳川家康・秀忠が誓詞(起請文)を交換し、和睦が正式に成立した(「土佐山内家文書」)。

堀の埋め立てと和睦の破綻

和睦が成立した翌日の十二月二十三日、徳川家康は堀の埋め立て工事を命じた。関東方は数日のうちに惣堀(惣構の堀、外堀)を埋め立てた。それに留まらず、関東方は二の丸・三の丸の破却に取り掛かった。

これに慌てた大坂方は家康側近の本多正純に抗議した(家康は既に大坂を去り、駿府へ向かっていた)。和睦では、二の丸・三の丸の破却は大坂方の担当と決まっていたからである。

しかし正純は仮病を使って大坂方の使者と面会せず、二の丸・三の丸の破却に手間取っているようなのでお手伝いしているだけである、と伝言したという(『大坂御陣覚書』)。

こうして翌慶長二十年正月中旬までに、二の丸・三の丸の堀は埋められ、矢倉も全て崩された。大坂城は本丸だけの裸城になった。秀忠と関東方の諸大名は帰国した。

大坂方の諸将は激昂し、牢人衆を中心に埋め立てられた堀を掘り返した。牢人たちは大坂から退去するどころか、新規召し抱えを望む牢人たちが全国からさらに集まってきた。大坂方の軍勢は前年よりも膨れ上がったのである。大坂方の再軍備の動きは、家康に再戦の口実を与えるものだった。

豊臣秀頼・淀殿ら大坂城の首脳部は戦争回避を望んでおり、秀頼と淀殿は使者を駿府に派遣して家康との関係改善を図った。三月十五日、大坂方の使者は家康に謁見して、秀頼・淀殿の書状と進物を献上している(『駿府記』)。

ところが大坂方が京都を放火するという噂が流れ(『慶長見聞書』)、大野治長が釈明のための使者を駿府に派遣した。使者は三月二十四日に駿府に到着した(『駿府記』)。けれども家康は態度を硬化させ、秀頼が大坂城を退去して大和または伊勢に国替えするか、牢人衆を全て大坂城外に追放するか、二つに一つを選べ、という法外な要求をつきつけた(「留守家文書」)。

家康の作戦は、方広寺鐘銘事件で豊臣家を挑発して戦争に引きずり込み、いったん和議を持ちかけて大坂城の堀を埋め、さらに口実を設けて再戦に持ち込む、というものだった。これが通説的理解である。

大坂夏の陣

四月三日、家康は、九男義直の婚儀を理由として、翌日名古屋に向かうことを発表した。

だが真の目的は、再び大坂城を攻めることにあった(『駿府記』)。四月五日、大野治長の使者が駿府を訪れ、秀頼国替えを免除していただきたいと嘆願したが、家康はとりあわなかった(『駿府記』)。

四月六日、家康は伊勢・美濃・尾張・三河などの諸大名に伏見・鳥羽方面に集結するよう命じた(『駿府記』)。家康は十日には名古屋城に入った。秀忠も十日に江戸を発している。

織田有楽斎も豊臣家を見限り、大坂城を出て、十三日に家康に対面、大坂方の軍備を報告した(『駿府記』)。家康は十五日に名古屋を出発し、十八日に二条城に入った(『駿府記』)。二十一日には秀忠が伏見城に入り、翌日には二条城に赴き、家康に対面している(『駿府記』)。二十五日には大坂攻めに参陣する大名が集結し、戦争準備は整った(『駿府記』)。

家康は五月五日に二条城を出陣した。家康は総勢十五万五千を自身と秀忠の二隊に分けて進軍した。二の丸、三の丸を破却され、本丸を残すのみとなった大坂城に籠城することは不可能であるから、大坂方五万五千は城外に打って出るしかなかった。

勝負の帰趨は戦う前から明らかだったが、大坂方は決死の抵抗を見せた。五月六日の道明寺の戦いでは牢人衆の後藤又兵衛・薄田隼人(兼相)が、若江の戦いでは豊臣譜代の木村重成が戦死した。

翌七日には大坂城の南の天王寺口(家康が布陣)や岡山口(秀忠が布陣)などで最後の戦いが行われた。決戦の火ぶたが切られたのは正午頃、家康が総指揮をとる天王寺口においてであった。

関東方の本多忠朝隊(徳川四天王の本多忠勝の次男)が大坂方の毛利勝永隊に発砲したのである。毛利隊は本多隊を撃破し、忠朝を討ち取った。勢いに乗った毛利隊は次々と東軍諸隊を破り、家康本陣に迫った。

茶臼山に陣取り戦況を見守っていた真田幸村は、毛利隊の攻勢を好機と捉え、麾き下かの軍勢三五〇〇に総攻撃を命じた。対峙していた関東方の松平忠直隊は一万五〇〇〇の大軍だったが、真田隊の猛攻を受けて陣形を崩された。

この間隙をぬって、幸村は三度にわたって家康の本陣に突撃を敢行した。その戦いぶりは、敵である島津家久から「真田日本一の兵」と称賛されるほどであった(『薩藩旧記雑録』)。家康本陣は、一時は家康の馬印が倒されるほどの混乱をきたしたが、なんとか持ちこたえ、真田隊を撃退した。幸村は退却し、安居神社で休んでいるところを松平忠直の家臣に討ち取られた(『大坂御陣覚書』)。

岡山口でも秀忠の指揮する関東方と、大野治房(治長の弟)が率いる大坂方の諸隊との間で激しい攻防が繰り広げられた。死を覚悟した大坂方の攻撃は苛烈で、将軍秀忠が陣頭指揮をとって士気を鼓舞するほどであった(『駿府記』)。

このように大坂方は奮戦した。だが時間の経過と共に、天王寺口・岡山口の両方面とも、兵力に劣る大坂方が次第に守勢に回り、名だたる武将を次々と失っていった。寄せ手の関東方は、撤退する敗残兵を追って大坂城中に突入した。

大坂城内に火の手があがり、豊臣秀頼や淀殿は山里曲輪に逃れた(『三河物語』『駿府記』)。落城が決定的になると、大野治長は秀頼の正室である千姫(家康の孫娘)を城外に脱出させ、徳川家康に秀頼と淀殿の助命を乞うた。家康は助命を認めたが、秀忠が反対したため、沙汰止みとなった(『駿府記』『萩藩閥閲録遺漏』)。翌八日、秀頼・淀殿は自害した。時に秀頼は二三歳であった。

文/呉座勇一

『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)

呉座 勇一 (著)

2023/9/13

¥891

232ページ

ISBN:

978-4022952349

教科書や小説に描かれる戦国時代の合戦は疑ってかかるべし。信長の鉄砲三段撃ち(長篠の戦い)、家康の問鉄砲(関ヶ原の戦い)などは後世の捏造だ! 戦国時代を象徴する6つの戦について、最新の研究結果を紹介し、その実態に迫る!

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