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「いざいざ」「ぞわぞわ」甲殻類が食べられない人が感じている生理的不快感とは。甲殻類恐怖症の正体

集英社オンライン / 2023年10月20日 17時1分

アレルギーという訳でもないのに、海老や蟹を食べられない人があなたの周りにいないだろうか? あんなに美味しいものを食べられないのはもったいないと感じるだろう。だが、この記事を読めば甲殻類恐怖症の人の気持ちが、ハッキリとわかるはずだ。海老や蟹を美味しく食べ続けたければ、ここから先を読まないことをオススメする。

※本記事は春日武彦『恐怖の正体――トラウマ・恐怖症からホラーまで』から抜粋・編集したものです。
#1

甲殻類恐怖

わたし個人の恐怖症について述べると、甲殻類恐怖に該当する。

まず、海老と蟹が駄目である(それなのに世の中には、草履海老とかヤシガニとか、ちょうど海老と蟹との中間みたいな姿の恐ろしい生き物すらいる!)。



絵や写真を見ただけで、うろたえる。もちろん蝦蛄だって駄目だし、ヤドカリも駄目である。あんなものを美味しいと喜ぶ神経が分からない。それどころか咀嚼して体内に取り込むという行為そのものが、理解の埒外である。

シャコの仲間、マンティスシュリンプ

姿かたちがおぞましく、料理の中に少しでも甲殻類が入っていたら、たとえそれを取り除いても、既に「汚染」されているという理由で拒絶せずにはいられない。当然のことながら昆虫も駄目で、触るのも嫌だ。つまり外骨格系の生き物全般が駄目なのである。

基本的には嫌悪感が先行する。前章でも述べたように、「危機感」の代わりに「嫌悪感」が恐怖の発現に関与する。ああ、嫌だ、おぞましい。こんなグロテスクな生き物と自分とが地球上で共存していること自体が不条理であり「ぞっとする」。ぞっとするにもかかわらず目を逸らすことができず、わたしは全身を硬直させたまま、いよいよ恐怖めいた気分がエスカレートしていく。

ではなぜ甲殻類は(わたしにとって)グロテスクであり嫌悪感を惹起するのか。その理由を以下に挙げてみよう。

たとえ脚の一本が失われようと

・妙にメカニカルな形態で、何だか無慈悲で冷徹だ。構造上、表情といったものが一切ないのも問題だし、目が心の窓になっていない。およそコミュニケーションだとか共感が成立しない気がする。生物よりも機械に近い。そのくせ、習性や動きが必ずしも合目的的とは限らないところがあって、その理解不能・予測不能なところがますます不条理感を増強させる。

・憎悪や嫉妬、悪意や卑しさ、闇雲で浅ましい欲望といったものに形を与えたとしたら、それはまぎれもなく甲殻類の形状となりそうな気がする。攻撃的、威嚇的な外骨格部分と、ぐちょぐちょと不定形で柔らかい「中身」という構造自体がそうした連想を働かせるのだろう。だから映画『エイリアン』(リドリー・スコット監督、1979)に出てくるあの殺戮本能そのものを体現したかのような怪物が、甲殻類的なものと軟体動物的なものとを巧みに組み合わせてデザインされているのは納得がいくし、『遊星からの物体X』(ジョン・カーペンター監督、1982)に登場する残忍な宇宙生物の正体が節足動物(通称スパイダーヘッド)であったのも当然だと思われる。

・たとえ脚の一本が失われようと、鋏や触角が失われようと、怯まない。そこに彼ら自身の悲しみが生じてこない。つまり身体的な痛みも心の痛みも、生じていないように見える。少しばかり不便になっただけ、といった調子で平然としている。変な具合に冷静なところが、サイコパス的な気味の悪さを与えてくる。ザリガニは共食いをするそうだが、襲われる個体はしばしば脱皮直後であるらしい。脱皮を終えて疲労し、ぼおっとしているところを仲間によって襲われ餌食にされる。そんな醜く獰猛な行動を取るだけで、もうわたしには我慢がならない。

・外骨格ゆえに、生と死との境界線が不明確な印象がある。そもそも外骨格の部分はキチン質だからそこは最初から死んでいる。その内部に輪郭のはっきりしない生命そのものが息づいていると思うと、そうした曖昧さが不安を招き寄せる。晩夏に公園を歩いていると地面に蝉の死体が転がっている。ごちゃごちゃした腹を上にして死んでいる。そう思っていると不意に脚をぞわぞわ動かしたり、不完全で断片的な鳴き声を発したりして驚かせる。ゾンビが生者と死者の中間ゆえに不気味なのであれば、甲殻類にもどこかゾンビ的な気味の悪さが備わっている。

――と、こんな調子でいくらでも理由(ないしはこちらの一方的な忌避感)は列挙できるものの、多くの人たちは「でも、海老も蟹も美味いよ」と言い放ってわたしの嫌悪感など一蹴してしまうだろう。とはいえ、そんな彼らだってエイリアンの造形をおぞましく思っているし、サイコパスには慄然とするに違いないのである。

なぜ、いつどんなきっかけでわたしは甲殻類恐怖に陥ったのか。そのあたりの消息は、いまひとつはっきりしない。気がついたら甲殻類をおぞましいと感じていた。精神分析医は、おそらく、さきほど列挙した「理由」をもっと抽象的かつまことしやかな言葉で説明してみせるだろう。ジャーゴンを駆使して。

だがそれでは同義反復である。恐怖症の理由になっていない。今さら海老や蟹を食べられるようになりたいなどと望みはしないが、せめて理由くらいは知りたいではないか。

「いざいざ」がもたらす生理的不快感

甲殻類を前にして、いきなり恐怖心が立ち上がるわけではない。さきほども述べたように、まずは嫌悪感である。そして嫌悪感というものは、いささか屈折した話ではあるが、マゾヒスティックな気分でその対象と戯れることが可能である。

だからスーパーマーケットの鮮魚売り場に生きた海老や蟹が陳列してあったら、よせばいいのに、大概は立ち止まってしげしげと眺めてしまう。「つくづく不気味な生き物だなあ。金を払ってこんなものを買っていく客がいるなんて、信じられないよ」などと呟きつつ、視線を外せない。

蟹の口吻部のあたりに細かな泡が浮いていたりすると「まだ生きているんだなあ」と妙に感心したり、思い出したように鋏や脚が動くと焦って後ずさったり、もはやお化け屋敷気分である。

高原英理の『怪談生活』(立東舎)という怪談随筆を読んでいたら、貞亨4年(1687)開板の『奇異雑談集』(編著者不明)が紹介されていて、そこに不思議な頭を持った人間の話が載っていた。


〈首から上は常と変わらない頭の大きさだが、瓢箪のようで、目鼻がない。耳は両方に少し形があって穴がわずかに見える。頭の上に口があり、蟹の口に似て、いざいざと動く。

器に飯を入れ箸を添えて棚にあるのを妻は取って「物を食わせて見せ申します」と言い、箸で飯を頭上の口に置くと、その口がまたいざいざ動く。飯は自然に入った。二目とも見難い様子であった。

首から下は他とも変わらない人である。肌は桜色、太らず痩せず、手足の指爪の色がよくあざやかである。衣装は華美を極めたものをまとっている。〉


このくだりを読んだときには、一瞬、卒倒しそうになった。蟹の口(のようなもの)が動くときの擬音が「いざいざ」である。いったいどういった言語センスを持っていたら、こんな擬音を思いつくのか。この擬音にはどこかこちらの心を惑わしてくるものがある。

「いざいざ」がもたらす生理的不快感には、最初のインパクトを乗り越えると、つぎにはいっそ怖い物見たさに近い心性が誘発されてくる。中学生の頃、級友に「海老や蟹は姿が醜い」と言ったら、「そんなことないよ。凛々しい姿をしているじゃないか」と反論された記憶を思い起こしてみたり、嫌悪感を覚えつつもある種の屈託に満ちた娯楽として蟹の口の動きを楽しみたくなってくる。

ドミノ倒し

しかし当方に精神的な余裕が欠けていたり、不意打ちのようにして甲殻類と出会ってしまうと――ある日、Wikipediaでうっかり〈腐敗〉の項を検索して、死んで腐った蟹のカラー写真が出てきたこともある!(現在は腐ったリンゴに代えられているらしいが) ――まずいことになる。

その時点で精神的な視野狭窄状態を呈し、ミクロなパニックが生ずるようである。いや、たとえ心に余裕があっても、過去のミクロなパニックの記憶が心の中に残っていて、それが往々にして精神を恐慌状態へと促すようである。

すると、あれよあれよと嫌悪感がドミノ倒しのごとく心の中の四方八方へと広がっていく。
もはや自分では収拾がつかない。取り返しがつかないような、無力感に似たような、そんな感情が胸を突き上げてくる。コントロールのしようがない嫌悪感が、「あれよあれよ」と拡大していくその勢い、その速度そのものが、まさにわたしに恐怖を体感させている。

さながら蜘蛛の子を散らすがごとく、わたしの心の隅々に嫌悪感が潜り込んでいく。自分ですら探求の困難な我が精神の湿って柔らかな奥部に、みるみる嫌悪感が侵入していくのだ(魚肉に食い込むアニサキスのように!)。

それがどんな精神的ダメージをわたしにもたらすのか、想像もつかない。おそらくこれからの人生を、わたしは遅効性の毒物を飲んでしまった気分で過ごすことになるのだ。そんなろくでもないことを考え、なおさらわたしは浮き足立ち、黒々とした恐慌に鷲摑みされる。

甲殻類は、通常の日常生活を送っている限り危険ではない。おぞましくはあるが、人生を脅かしてくるような存在ではない。わたしが甲殻類と一対一で対峙せねばならないシチュエーションは考えにくい。

けれども、ミクロなパニックを契機に「あれよあれよ」と心の内部で嫌悪感が拡散していくその気味の悪さと手遅れ感は、わたしにとって為す術がないという意味で、まさに圧倒的な存在の手応えを与えてくるのだ。

文/春日武彦
写真/©shutterstock

恐怖の正体 トラウマ・恐怖症からホラーまで(中央公論新社刊)

春日 武彦

2023年9月1日発行

¥1,012

261ページ

ISBN:

978-4121027726

うじゃうじゃと蠢く虫の群れ、おぞましいほど密集したブツブツの集合体、刺されば激痛が走りそうな尖端、高所や閉所、人形、ピエロ、屍体――。なぜ人は「それ」に恐怖を感じるのか。人間心理の根源的な謎に、精神科医・作家ととして活躍する著者が迫る。恐怖に駆られている間、なぜ時間が止まったように感じるのか。グロテスクな描写から目が離せなくなる理由とは。死の恐怖をいかに克服するか等々、「得体の知れない何か」の正体に肉薄する。

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