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「沢田研二 27才 職業 歌手」テレビ史上、最も画期的な音楽番組『セブンスターショー』で表現者としての限界に挑戦したジュリー

集英社オンライン / 2024年2月15日 11時1分

今から48年前の1976年2月15日に音楽番組史上、最も挑戦的な番組と言われた『サンデースペシャル セブンスターショー』が始まった。アーティスト1人で90分出ずっぱり、正真正銘のワンマンショー……そんな番組のトップバッターとして選ばれた出演者こそ沢田研二、その人だった。(サムネイル/左:2021年4月28日発売『沢田研二 TBS PREMIUM COLLECTION』[DVD]、右:2014年3月26日発売『LOVE~愛とは不幸をおそれないこと~ [SHM-CD]』(ともにユニバーサルミュージック合同会社))

もしも「三億円事件」の犯人が沢田研二だったら…

当時、テレビドラマのヒットメーカーとして知られていたTBSの演出家でプロデューサーの久世光彦は、グループ・サウンズのザ・タイガースからソロになって成功した沢田研二にすっかり惚れ込んでいた。



だからこそ時代の寵児として輝いている時に、それまでにないドラマを制作して、映像作品を後世に残そうとしたのである。

そこで飛ぶ鳥を落とす勢いがあった人気作詞家の阿久悠の力を借りて、バイセクシュアルな魅力を最大限に引き出すために、それまでにない挑戦的なドラマを企画した。

1975年末に時効を迎える「三億円事件」の犯人が、もしも沢田研二だったら? そんな発想から始まった『悪魔のようなあいつ』(1975年6月〜9月放映)である。

ここで阿久悠は初めて沢田研二のための最初の歌詞となった『時の過ぎゆくままに』を書くことが出来た。

1975年8月21日発売の『時の過ぎゆくままに』(ポリドール・レコード)のジャケット写真。沢田自身が主演を務めたドラマ『悪魔のようなあいつ』の挿入歌として使用され、大ヒットする

ホリプロダクションの堀威夫と組んでザ・スパイダースの番組を手掛けていた阿久悠は、作詞家になって成功してからも、渡辺プロ(当時、沢田研二が所属していたプロダクション)の仕事を依頼されることは滅多になかった。

なぜならば音楽業界的な見方としては、どうしてもアンチ渡辺プロのように見なされていたからだ。森進一や小柳ルミ子に頼まれて作品を提供したこともあったが、それは例外的なものだった。

そのことについては本人も気にしていたらしく、後にこのように述べていたことがある。

「こういうドラマ発でない限り、沢田研二との縁も考え難かったので、もしもこの機会を失していたら、その後の膨大なヒット曲も出なかったかもしれない。そう思うと得難いチャンスであった」
(阿久悠著「歌謡曲の時代 歌もよう人もよう」新潮文庫)

一方の久世光彦は、『悪魔のようなあいつ』で経験したことをもとにして、テレビが始まって以来の画期的な音楽番組を企画する。

本当のスターならば、ワンマンで90分を持たせるのが当然

それが1976年2月15日から3月28日までの7週間にわたって、日曜日の19時30分~21時にオンエアされた『サンデースペシャル セブンスターショー』(TBS)である。

沢田研二はこの時27歳。近づくとオーラが漂っていたという。

歌が好きで歌謡曲を愛していた久世は、当時のヒット商品だった日本専売公社のセブンスターに引っ掛けて、1社提供によるスペシャル音楽番組を企画した。

テレビにおける歌番組には通常、司会進行役がいて出演者の魅力をトークと歌で引き出すのがセオリーであり、特別ゲストを迎えることも定番になっていた。

しかし、そうしたセオリーや定番に逆らい、久世は本当のスターならば、ワンマンで90分を持たせるのが当然だとばかり、それを証明するかのように挑戦的な番組を考えた。

「『沢田研二 TBS PREMIUM COLLECTION』DVD-BOX 4/28(水) 発売!!【TBS】」。TBS公式 YouTubooより

しかも歌番組とドラマを別チームで作っていたTBSの境界線を取り払って、双方が協力し合うスタッフ編成にしたのだ。

当時、番組の構成を担当したドラマの演出家、南川泰三は自らのブログで当時のことをこう述べている。

「久世さんがとんでもない番組を考え出した。ドラマの演出家に音楽番組を作らせようと言うのだ。題して『セブンスターショー』。 7人のビッグ歌手のワンマンショーで、しかも、正真正銘のワンマンショー。 つまり、普通、ワンマンショーと言ってもゲストや司会陣を含めて多くの出演者がいるものだが、このセブンスターショーは完全に一人で、しかも90分番組という大胆な企画だった」
(南川泰三の隠れ家日記 ブログエッセイ「猿の手相」より)

出演するのは歌手が一人だけなので、番組を盛り上げるためのセットや電飾などに十分な予算をかけた。 そして一曲ごとにセットを変えたり、歌っている最中にセットが崩れ出すなど、考え得る限りの工夫を凝らす。

初回の放送は2月15日。トップバッターを務めたのは、当時の久世が最も惚れ込んでいた沢田研二だった。

さまざまな表情と視線の魔術を駆使するまさにスーパースター

そして3月28日の最終回では、当時ほとんどテレビに出なかった吉田拓郎がトリを飾っている。そのことだけでも、極めて意欲的な番組だったことが分かるだろう。

久世とともにそれまでにない挑戦的な番組を考えたのは、朋友といってもいい関係にあった作詞家の阿久悠である。

アーティストの選出にも関わっていた二人が最初に名前を上げた候補者は、五木ひろし、井上陽水、西城秀樹、沢田研二、布施明、森進一、吉田拓郎。7人とも男性だった。

しかし、久世が直接に声を掛けた麻雀仲間の井上陽水が固辞したことで、紅一点のユーミン(当時は荒井由実)が、かまやつひろしと一緒に出てくれることになった。

そのおかげで初期のユーミンとティン・パン・アレーの貴重なコラボレーションが映像として記録されたのだから、結果的には正解だったのかもしれない。

実際には第1回が沢田研二、第2回が森進一、第3回が西城秀樹、第4回が布施明、第5回がかまやつひろし&荒井由実、第6回が五木ひろし、そして最終回は吉田拓郎という順でオンエアになった。

1971年11月1日発売の『君をのせて』(ポリドール)のジャケット写真。沢田研二のソロデビュー曲となったこの曲を作ったのは、ザ・ピーナッツの『恋のバカンス』などヒットさせた宮川秦氏(作曲)、岩谷時子氏(作詞)のコンビ

そこで何よりも強く驚かされたのは、沢田研二が歌手や演技者というよりも、アーティストとして表現者の限界に挑戦していたことであった。

出演 沢田研二
構成 阿久悠
音楽監督 大野克夫
編曲 東海林修 服部克久
演奏 井上バンド
井上堯之 大野克夫 速水清司 佐々木隆典 鈴木二朗

最後のクレジットロールが終わった後に、ジュリーのアップからカメラが引いて焦点が定まらないまま、ぼんやりした映像が残っている。

その表情が無防備というか、素のままに見えるところに、心が吸い込まれる思いがした。さらにその後に画面に浮かぶ、小さな文字が見事だった。

沢田研二 27才
職業 歌手
1976.2.15


沢田研二は音楽表現という面においても、他のアイドルのようにカラオケや既存の楽団ではなく、お金をかけて自分のバンドを引き連れて、できるだけ思うようなサウンドを作ろうと努めてきた。

世界の音楽がバンドの時代に変わっていく中で、沢田研二も自分の音楽表現をそのレベルに高めようとしていたのだ。

それぞれの楽曲の世界を歌うこと。踊りや振り付けを加えて、様々な表情と視線の魔術を駆使して、パフォーマンスを表現していく沢田研二は、まさにスーパースターだった。

周囲の歌手やミュージシャンにそうした意識を与えたことも、大きく評価されるべき点だと思う。後に続いたのは、萩原健一と西城秀樹しかいなかった。

誰もが認めるスーパースター・沢田研二は、いつも、自らの限界に挑んできた。

そうした日常の積み重ねによって、75歳を過ぎても現役の歌手として、あるいは俳優として、ジュリーは今もなお、前人未到の地に立っている。


文/佐藤剛 編集/TAP the POP

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